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平良川伝道所 主日礼拝 2024年1月28日 『神の言、人の思い』 林利行牧師

by ANNAPOST



聖書 創世記22章1節~12節、士師記11章29節~35節

ご視聴ありがとうございます。

「神の子ミニストリー」とは、散らされている神の子たちを集めるための働きです。
おもに日本基督(キリスト)教団 平良川伝道所での説教集です。
おもな説教者は、林 利行牧師です。

チャンネル登録、および、評価もよろしくお願いします。

▼神の子ミニストリーのYouTubeチャンネルhttps://www.youtube.com/channel/UCyu3iSUPuVv6pac56zQ2cjQ

▼天空の架け橋 ラファエル 故人をみなで偲び、癒される場所
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(*まだ作成中の部分があります。)

▼神の子ミニストリーの経緯(林利行牧師の証への直接リンク)
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お祈りいたし ます愛する天の父なる神 様あなたの尊い皆を本当に心から賛美 いたし ます私たちは年を取り日々弱くなっており ますけれども力の限りあなたを賛美しとし たくてこのこのように あなたの子供たちを集めてくださいました 本当にありがとうござい ます心からの喜びを持ってあなたの御言葉 を帰還としております今日どうぞは先生を 通してあなたの御心を私たちが聞くことが できますように悟りを与えてくださいます ように心からお願いいたし ますどうぞ今日の礼拝を初めから終わり までお導き くださいイエス様の皆によって心からお 祈りを捧げいたします あで は 聖書創世紀22章 の1節から12節を愛読し ます アブラハムイサクを 捧げるこれらのことの後で神はアブラハム に試されたアブラハムを試された神が アブラハムよと呼びかけ彼がはいと答える と神は命じられたあなたの息子あなたの 愛する1人がイサクを連れてモリアの地に 行きなさい私が命じる山の1つに登り彼を きつつく捧げ物として捧げ なさい次の朝早くアブラハムはロバにくを 置き捧げ物に用いる滝を割り2人の若者と 息子イサクを連れ神の命じられたところに 向かっていった3日目になってアブラハム が目を凝らすと遠くにその場所が見えたの でアブラハムは若者に行ったお前たちは ロバと一緒にここで待っていなさい私と 息子はあそこへ行って礼をしてまた戻って くるアブラハムは焼きつく捧げ物に用いる 焚を取って息子イサクに背負わせ自分は人 刃物を手に持った2人は一緒に歩いて行っ たイサクは父アブラハムに私のお父さんと 呼びかけた彼がここにいる私の子よと 答えるとイサは言った火と焚はここにあり ますが焼きつく捧げ物にする子羊はどこに いるのですかアブラハムは答えた私の子よ 焼きつく捧げ物の子羊はきっと神が備えて くださる2人は一緒に歩いて行った神が 命じられた場所に着くとアブラハムはそこ に裁断をきづき焚きを並べ息子イサを縛っ て裁断の焚きの上に乗せたそして アブラハムは手を伸ばし伸ばして刃物を 取り息子をろとしたその時天からの見いが アブラハムアブラハムと呼びかけた彼が

はいと答えると御は言ったその子に手を 下すな何もしてはならないあなたが神を 恐れるものであることが今分かったからだ あなたは自分の独り子である息子すら私に 捧げることを惜しまなかった以上です次は 四 の11章29節節 から35節までを解読し ます主の霊がエフタに望んだ彼はギリアド とマナセを通りさらにギリアドの密を通り ギリアド の密からアモジに向かって兵を進めた エフタは主に誓を立てていったもしあなた が安文人を私の手に渡してくださるなら私 がアモとの戦いから無事に帰ると 私の家の戸口から私を迎えに出る出てくる ものを主のものといたします私はそのもの を焼きつく捧げ物といたしますこうして エフタは住んでいき安文人と戦った主は彼 らをエフタの手に渡しになったカロは アロエからミニトに至るまでの二の町と アベルケラムに至るまでのアンモ人を徹底 的に打ったので安文人はイスラエルの人々 に屈服したエフタが密本にある自分の家に 帰った時自分の娘がつを打ち鳴らし踊り ながら迎えに出てきた彼女は1人娘で彼に は他の他に息子も娘もいなかった彼はその 娘を見ると衣を引き裂いていったああ私の 娘よお前が私を打ちのめしお前が私を 苦しめるものになるとは私は主の見舞いで 口を開いてしまった取り返しがつか ない 以上 ですで は林先生を通して神の言葉人の思いと題し てメッセージをいただき ます え聖書を正しく読むということは私たちの 進康生活の基本中の基本 ですしかし現実的にはほとんど正しく読ま れていないんです正しく読まれていない だけではなく正しく語ていないというのが 今日までのキリスト教会の現実なんですも そのことを少し分かりお話ししたいんです けども信仰の父アブラハムって言うじゃ ないですか聖書のどこにも信仰の父って いう言葉なんてない ですどこを探してもアブラハムを信仰の父 アブラハムと呼んでるところはどこにも ないですただこれを呼んでるだけにしか 過ぎない大伝動者パウロなんて言います けど大伝動者パウロなんていう言葉は聖書 のの中には出てきませんただそれを読ん でるだけにしか過ぎないん です今を読みいただきましたこの創世紀

22章のところなんですけどもアブラハム がイサクを捧げるというこのところなん ですアブラハムの生涯のクライマックスと なるところなんですけどえ信仰生活を何か をするというような思いで読んでいきます とねアブラハムがイサクを捧げたことって いうのは何か大きなことを成し遂げたよう に理解してしまってるん ですで改めて問いますけどね岩瀬さんね この時イサクを捧げたアブラハムなんです けどイサクは何歳だったと思い ます10歳ぐらいうん歳ぐらい10歳 ぐらい10歳ぐらいにしちゃってるんです ええアブラハムがあまりにも大きいことを したっていうその大きいっていうことの 存在感のゆえにねイサクを幼いものにして いるのは人間の傲慢な心なん ですえ正しく言います とイサクが生まれた時アブラハムの年齢は 100歳だったんですそのように聖書に集 されているんですアブラハムがイサクを 設けた時にはアブラハムが100歳そして アブラハムとサラの年齢は10歳サが年下 だったんですからえサがイサクを産んだ時 には90歳だだったん ですでそして創世紀のこのイサクを捧げて 23章に入ってくると えサラが127歳で亡くなるわけです すなわちアブラハムがとイサクあえっと サラが生んでイサクを生んで37年後の話 ですよねええ37年後の話ですよですから イサクがこのアブラハムがイを捧げる時に はイサクは伝統的な解釈でこ年齢は書いて ませんけどもアブラハムが130歳であっ たとということはイサクは年齢的には30 歳の若者であったということなん です はい少なくても二十歳から30歳ぐらいの 若者であったということは事実なん ですねだからあまりにもアブラハムが イサクを捧げるっていうことが大きいかの ように受け止めてしまうとねアブラハムの このイサクを捧げるっていこの行いは イサクの全献身があってこそなされた技な んですまず最初にイサクなん です順序から言いますとねイサクは ね子供じゃないんです少なくても二十歳を 過ぎ た青年若者であったということなん です ですからお読みいただいた2章の22章の 7節にイサクは父アブラハムに私の お父さんと呼びかけた彼がここにいる私の 子と答えるとイサクは言った人とたはここ にありますが焼きつく捧げ物にする子羊は

どこにいるのですかと言って彼はこの おその前の6節にアブラハムは焼きつく 捧げ物に用いる焚を取って息子イサに 背負わしたわけですよそんなね5歳や10 歳の幼いにこんな芝をかげます か正しく読め ば稼げないですよ立派な青年だったんです よだからもうこの時点でねイサクは気づい てたはずなんです自分 がこの生贄にな るっていうことは暗黙の領親子の暗黙の 領解があったはずなんですえイサクは何も 言わないですこれをイサクの法権という 言葉で言えるわけです神に自らを捧げる えイサクの法権があったんですまずそれ から始まるん です物言わぬイサクであるがゆにね私たち はあまりにも信仰が何かをするっていう ことに心が向いてしまうとねイサクの存在 を小さく見てイサクがあかも幼いこのもの ようになってしまって幼いものにさして いるのは人間の傲慢さなん ですイサクの存在感を小さくしてしまうん ですいえいえイサクは立派な青年でしたよ えでそして彼は黙って父アブラハムがその ロープで祝いつつける自分の体をねそして 生贄を自らがこの芝の上に横たわって アブラハムが剣を差し出した時にただ目し てままイサクも また神に自らを捧げていたんじゃないです かですからどっちが先ですかイサクから 始まるわけですよイサクの法権があって アブラハムの険へと繋いでいくわけですよ イサクは何も語らないが故にね私たちは アブラハムを大きい存在にしてイサクを 存在を本当にね幼いものにしてしまって いるのは人間の傲慢さの故なんです よですから聖書を正しく読むっていうこと はどんなに大切か分かります かイサクは抵抗もしなかったイサクは 逃げるということもしなかったでお父さん を偉大にしてたんじゃないお父さんが信じ た自らを捧げた正しく言いますと信仰の父 アブラハムにはないですアブラハムが父と 青い神ですっぺ言いますよアブラハムが父 お父さんと蒼い神をイサクもまた神とし てこの神に自らを捧げて法権していたして いたのはイサクじゃないですかイサクの 冒険があって次にアブラハムがイサクを 捧げるっていうことになるわけです順序は イサクから始まるわけです よこんな この聖書理解の間違いがね今日まで キリスト教会の中で正しく伝えられてない んですよそしてアブラハムは偉大だ

アブラハムは偉大だってアブラハムを偉大 にさせたのはイサクじゃないです かそういうことに全く目を向けていないん ですよ聖書がいかに正しくこの一時とって も理解されていないかっていうことを皆 さん自らも含めてねえ本当に考え直して いたたと思うわけなんですよお祈りを捧げ ます恵深天の父なる神様聖書は私たちの 信仰生活の土台基準どうぞ聖書の御言葉が 正しく語られ岩のイサクから本当にイサク の法権をこの朝思いつつ信仰の父 アブラハムと呼ばれているこの現実は イサクの犠牲があってこその思いである ことを思いますどうぞ私たちの心を聖書の 御言葉によって正しく理解しあなたの思い あなたの導きの中で今日も語られる聖書 私たちのうちにしっかりと理解させて いただく幸いを得させてくださいその意味 で説教者を決してただ父なる神様だけが あなたの思いだけがお1人お1人のその 思いに魂に刻まれますようにイエス キリストの未によってお祈りいたします メン今日のテーマは 神の言葉人の思いという台で御言葉を 取り付かせていただきますま今もこう話し たようにえ皆さん自分たちの理解が本当に 偏っていたっていうことに目を開かれませ んかアブラハム一時にとってもそうなん ですよえ天地創造の映画を見てもえイサク が本当に幼いイサクが出てくるわけなん ですよえだからよっぽど人の心というのは アブラハムを大きな存在にしてるんだろう なと思うわけですえそして大きな存在感が 人間のその思い上がりがねイサクという 存在を小さなものにしているっていうこと に目が開かれませんかいえいえイサクは 立派な青年でしたよ本当にそして彼は自ら の意思に基づいてアブラハムに信頼し そしてアブラハムが父と青い神に自らの心 を向けて黙って目してアブラハムがする ことを受け入れていたわけですよその イサクの受け入れがなああななかったなら ばアブラハムがイサクを捧げるということ はありえないですどっちが先かと言ったら イサクが先ですよでもイサクは何も言わ ないイサクは自己主張し ない自分というものの存在感を表さないん ですよねこれがねイサクのこの 思い目してただ自らを冒険するというこの 思いは神の子イエスキリストにも見える その心なんですよすなわちイエス様も十字 架において父を帰らを哀れんでください 許してくださいと祈りながらただ目して父 なる私の思いではなく父のがなるようにと いうね父に自らを冒険しておられたイエス

様のことを思う時にイサクもまた神のこと して生きるイサクも自らを捧げていたんだ なていうことが分かるわけですよ そしたら神の子ミニストリーていうことで 私たちは神の子とされるというその現実を 聖書の御言葉から皆さんに何度も語ってき ました私たちは神のことされてるんです神 のこととされている私たちの思いというの はイサクの思いでありイエスキリストの 思いであり自らの自己主張をしなっという ね自分の思い自分の言葉を父なる神様に険 していく捧げていく自らを捧げいくという のが実は神の子という私たちの思いの中に ある全この法権こそがね神の子の心なん です よ聖書の中には人間の思いに溢れています えこういう言葉を聞きませんか進学的な 言葉ですけどもアブラハムは神の御言葉に 全く復習していたっていうんですそういう 言葉があるでしょアブラハムは神の言葉に 全く復習していた全く従っていた聖書を 正しく呼んでない全く服従なんか アブラハムはしていませんよ全く腹上 なんて神の言葉に全く信頼してねそして 自らを委ねていたなんていうその アブラハムの生涯の歩みをどこにとって アブラハムは復習していたと思います 例えば総世紀の12章そもそもですね アブラハムが出てきますアブラムアブラム のアブラハムの前はアブラムと呼ばれてい たわけですけども最初がとても大事です 最初が肝心ねでアブラムが住んでいた カルデアのウルというところに父なる神様 はアブラムに声をかけて創世紀の12章の 1節に主はアブラムに言われたあなたは って言われてるんです1個人のアブラムに 向かってあなたは生まれ故郷父の家を離れ て私が示す地に行きなさい私が示す地と いうのはどこか分からないですよねまず こっから出ていくっていうところから父の 家を離れてっていうまず離れてねそして 示されていくであろう私が示す父に行き なさい私はあなたを大いなる国民にし あなたを祝福しあなたの名を 祝福の源となるようにあなたを祝福する人 を私は祝福しあなたを呪うものを私は呪う 地上の主力は全てあなたによって祝福に 入ると言ってね4節アブラハムは主の言葉 に従って旅立ったそれで良かったんです しかしね彼の思いがあるんです彼の思いは ねおいのロトも共に行かせるという ねおいのロトを連れて行けと父なる神様 言いましたロトと一緒に出ていけて言い ましたか言わない です彼は新しいその気持ちを伝えると神の

言葉を聞きましたよ少なくても今の御言葉 を言うならばアブラム個人に言われた言葉 ですよその個人に言われたことであって ロトを連れて行けとは言わないんです よしかしアブラムはロトを連れて行き たかった祝福に預からせるため にしかも彼にとってはおこ ですでも父なる神様はロトを連れていけと は命じなかったんですそしてこのロトを 連れてきたが故にロトはどんな目にあって いくんです かロトとロトの家族はこのアブラハムが その不徹底な信仰の上にですよ神の言葉に に信頼する思いと自分の思いというものが ありながらその自分の思い を拭いきれずにですよロトを連れてきてで で そしてイサが起こった時にはね右に行くか ひりに行くかあなたの自由にしなさいと 言ってねロトに任せてね私はねアブラハム の生涯どこ呼んでもねアブラムが後の アブラハムがロトを連れてきたことに 対する食いやみは1度もないんです よ1度もですよそうでしょうロトがこの ソドムゴモラの町に下っていってでそして 神の使いがやってきてこのソドムとゴモラ の悪があまりに も無視できなくなってしまって滅ぼ滅ぼさ れるっていう時にもですよアブラムは自分 の手を汚すことは1度もしなかったです 50人から始まってもしソとごまの町に 50人の正しい人がいてたら滅ぼすんです かそれがだんだんだんだん下がっていって 10人まで行くんですよ擬人はいない1人 もいないですよ10人もいるはずがないん ですよ1人もいないんですよ聖書全巻を 通して私たちに迫ってくる父なる神の思い は擬人はいない1人もいないアブラハムも 光り擬人なんていないんですよしかし10 人もいてたら10人もいてたら放さないで あろうと言った時に ねアブラハムがロトを救出なんていかない です よ そしてロトの奥さんは後ろを振り向いて死 の柱になるん でしょロトとロトの家族は滅亡の中にその とゴムの中でもちろん後では助けられます けどもアブラハムが自分は取り返しのつか ないことをしてしまったロトこのような目 に合わしてしまったという食い改めがあっ たらロトよおこロトよもう1度あなたは カルデアのウルに帰り なさい自分が元々生まれそだったその故郷 に戻りなさいと言うべきではなかったです

か連れてきたのは私が間違っていた主なる 神様は私にだけ離れなさいと言って示し のしに行きなさいと言ったのに私はロトを 連れてきてしまった私が本当に間違ってい たロトよお前をもう1度生まれ故郷に返す のが自分の取る 判断であったということで釘改める必要が あったんじゃないです かだからどこまででもアブラハムは アブラハムは自分も正しい位置に置くわけ ですよエジプトに下っていきましたね エジプトに下っていった時にはね自分の奥 さんサを自分の妹と言うんです よサはね絶世の美女であったと思います そうですよねそしてエジプトに下って行っ た時にえもし自分がこのさの夫だって言っ てしまったら大変な目に合うかもしれない でもお兄さんになったらどうです か現に大切にされるわけですよね嘘つく わけです よしかもこの同じ嘘をね2回もするわけ です よメルクゼルクの時にもえあの自分の妹だ と言いますでしょええ彼がエジプトに下っ て行く時にもあるいはネにネブに行く時に も自分の妹だっていうわけですよでもね父 なる神様はアブラハムを本当に愛するん ですねアブラハムはには責めないでえで そして夢の中 で現れて手を下してはならないっていう風 に言うわけですよねうんですから本当に アブラハムの真実よりもアブラハムを 導き出した神の真実が伝わってくるわけな んですよ本当に聖書を呼んでいくとです からアブラハムが食い改めるっていうこと はなかったです よアブラハムの生涯どこ見てもね全く服従 していたアブラハムとは思えないんですよ でもこのアブラハムをどこまでも捨てずに どこまでも見捨てずに導いていく神の真実 さだけが伝わってくるわけなんですよ そして今先ほどお読みいただきました 創世紀の22章のこらのことの後で神は アブラハムを試されたと神がアブラハムよ と呼びかけ彼がはいと答れると神は命じ られたあなたの息子あなたの愛する独り子 イサクを連れてモリアの地今のいう エルサレムですはいえモリアの地に行き なさい私が命じる山の1つに登り彼を 焼きつく捧げ物として捧げなさいで次の朝 早くアブラハムはロバにクを置き捧げ物に 用いる滝を割り2人の若者と息子イサクを 連れっていうこの若者っていう言葉がある でしょ2人の若者とってなりますけどこの 若者はねヘブル語はイサクにも関わる言葉

なん ですですからここで2人の若者とという 2人の若者を限定してますけども息子若者 の中に入るんですですからもう青年なん です若者なんですイサクを連れ神の命じる とこに向かっていった3日になってて書い てますけどもこのえ彼がいたベルシから エルサレムまでの道のりっていのは約 60kmと言われてるん です約60kmまあわか長橋で例えて言う と那覇から60kmと言ったら大体読み炭 村ぐらいまでなんですよ歩いて3日かかり ます か3日いや3日はちょっと長いですねえま 3日かけてしまったんですねアブラハムは ねそういうね父親の思いが伝わってくるん ですよまゆっくりゆっくり歩き ながら待と語ってくれるんじゃないん だろうかなっていうねえそういう思いを こう呪文自としながらですから捧げようっ て言った神の言葉はあにも明であったと 思いますアブラハムにとって夢の中で語ら れたそういうこの半神半疑な神の言葉では なくて明確に捧げようっていう言葉を間近 に聞いたであろうアブラハムであったと 思いますそれ上にま呪文自としながら3日 の後3日という時をかけていよいよ アブラハムが目を凝らすと遠くにその場所 が見えたのでアブラハムは若者に行った お前たちはロバと一緒にここで待ってい なさい私と息子はあそこへ行って礼拝して また戻ってくるというアブラハムは若者に 行ったっていうこの若者こそがまたこの アブラハムの息子であるイサクも含む若者 えイサクの存在感が見えてきましたか ええアブラハムは焼きつく捧げ物に用いる 焚を取って息子をイサクに背負わせたって いうわけですからねま本当にえイサクはあ それだけの焚を持てるような年齢でもあっ たということが分かり ます火と焚きはここにありますが焼き 尽くす捧げ物にする子羊筋はどこにいるの ですかアブラハムは答えた私の声を 焼きつく捧げ物の子はきっと神様が備えて くださるきっとというのは多分という ことだからイサクはその父の姿を見て自分 が多分この捧げ物になるんだろうなていう ことを感じたことと思いますですからこの 時点でイサクは逃げることもできた拒否 することもできたしかしイサクもまた アブラハムお父さんが父とした神を神とし ていたんです彼の信仰心彼の法権なんです ここで彼の法権イサの法権があったことが 分かるんですからが彼は相当覚悟してね お父さんの音についていったということは

ここで伝わってくるわけですですから順序 から言えばまずイサクです ね神が命じられた場所に着くとアブラハム はそこに裁断を築き滝を並べ息子イサを 縛って最大の滝の上に乗せたって縛ってっ てねえイサクは黙って縛られるんです よねですからね岩瀬さん10歳のような そんなおの子供じゃないんです よでなんで私たちがもっぺいますよイサク を小さくしてしまうかと言うとね アブラハムの存在感すなわち信仰は何か するっていうことを思ってるから アブラハムの存在感を大きくして私たちの この傲慢な心がイサクを小さなもの幼き ものそしてみ小さい5歳10歳の少年の ようにしてしまうそれはなぜですか私たち の心に傲慢があるからなんですよそして 何かをすることがあかも大きいことのよう に思うゆにね物ぬ遺作を小さくしてしまっ てるんです よそして正しく聖書を理解しないんです そしてその潜入感を思ったまま ね信仰生活を何十年歩んでいてもその信仰 はもう育たないんですよその固定概念から 外れられないんですよそしてどこまでも 信仰の父アブラハムっていうねねそういう お父様アブラハム様ていう風にしてしまっ ているのは私たちの罪なんです よそしてアブラハムは手を伸ばして刃物に 刃物を取り息子をほろうとしたその時天 から主の御がアブラハムアブラハムと 呼びかけた彼がはいと答えると御は言った その子に手を下すな何もしてはならない あなたが神を恐れるものであることが 今 今分かったと今分かったからだというわけ なんですはいその時アブラハム130 歳130歳です よえですから彼の今までのその時までの 生涯はね本当に半神半疑な人生だったん ですよ えさがさがこうむと言ったのにも関わらず ハガルにイスマエルを産ませもし イシュマエルがいなければ今日の中東の 問題はないんですこのコニの争いの原因を 作ったのはアブラハムじゃないです かそうでしょアブラハムの不徹底さがコニ の争いを起こしてしまうわけでしょうえ 解決の道はただ1つしかないですよ アブラハム が174歳でた時にねイシュマエルと イサクとが手を合わせてアブラハムのその 墓に呆然に手を合わせて祈ってる姿がある わけです よもう一度自分たちは同じ地であ

るっていうことをねイシュマエルの子孫で あるイスラムの人たちもイサクの子孫で あるユダヤの人たちもこのアブラハムの この血筋に変る以外に彼らが1つになる道 はないじゃないですか同じ地を分けた兄弟 じゃないですかこの筋じゃないですかここ に返ってイシュマエルとイサクとが アブラハムの死を傷んだ時にね彼らは 初めて1つに慣れたんですよもう一度 マクペラの墓に帰るしかないじゃないです か同じ血筋なんだからしかしその原因を 作ったのはアブラハムじゃないです かだからアブラハムイサクヤコブ聖書読む とねアブラハムが175歳そしてイサクが 75歳ヤコブが15歳この3世代が生き てる間にかかってるわけです よアブラハムイサクヤコブこの3世代は 一緒に生活してたんです よ一緒の時代を共有していた人たちなん ですよそしてイサクが75歳の時に アブラハムが亡くなるすなわちアブラハム がアブラムとしてカルデアのウを出たその 75歳にイサクが75歳の時にアブラハム が召されるわけなんですよその時ヤコブは 15歳だったんです よですからこのアブラハムの生涯をどこ見 てもねどこ見てもです全く全く神の言葉に 復習していたとは思えないわけですよこの 22章を読んでその子に手を下すな何もし てはならないあなたが神を恐れるもので あることが今です 今わかったというのはもう人生の万年です 彼 のあなたは自分の独り子である息子すら私 に捧げることをおしまなかったこれは父 なる神様の心じゃないですか惜しまずに 1人後イエスキリストをこの地上に下して そして父なる神様の見を成し遂げたのが イエスキリストじゃないですかそうでしょ このものを言わぬイエスキリストの思いは かつてイサクとイサクがアブラハムに全く 身を委ねたよう に自らの思い自らの心を捧げ尽くした イサクのことを思う時に私たちに神のこと して生きるものの魂のあり方心のあり方を 教えてくれるわけですよそしたらもう一度 言います自なる神の前に何かをするていう ことは全く無意味のないことです今日 はっきり言えます皆さんが何かを神の前に するっていうことはそんなに大きなことで はないんですそのことをよく分かるために もう1か所知識を開いてみたいんです11 章29 節402 ページ

知識の11章の29 節主の霊がエフタに望んだここから始まる んですこのアンボンビントとの戦いは エフタの上に主の霊が一方的にエフタに 望むんですこの主の霊がっていうのは精霊 のことを言うんです 精霊がエフタの上に望んだんです彼の意図 とは全く関係なしにこの戦はもう勝利する んですなぜですか勝利は主の霊がエフタに 望んだというところから始まるんですね この主の霊がエフタに望んだっていうこと は自他共に周りが認めたんです死の霊が 精霊が彼の上に望んでさあこの戦が始まる ぞということは皆が証しできたんですね彼 はギリアドととマナセを通りさらに ギリアドの三葉を通りギリアドの三葉から 安文人に向かって兵を進めたっていうね この神の霊の勢いこの神の霊の勢いを エフタに感じた人々はこの勝利は必ず約束 されているっていうね勝つか負けるかの 戦いじゃないですよもう勝利することは 間違いないなぜならば精霊が霊が神の霊が 我らと共にいるっていうねそういう思いで 進んでいくわけです よ 進めたんですですからね30節のところは ねエフタの祈りがあるんですエフタの星願 ねエフタは主に誓を立てていったもし あなたが安文人を私の手に渡してくださる なら私がアンモとの戦いから無事に帰る時 私の家の特地から私を迎に出てくるものを 主のものとしいたします私はそのものを 焼きつくつ捧げ物といたしますなんて こんな星願を立てたわけですです よこんな愚かなこんな無意味な星願を 立てるんです よ本当に人間の思いなんですよ自己中心の 思いなんですよええこうしてエフタは進ん で行きアモ人と戦った主は彼らをエフタの 手にお渡しになった彼はアロエからミスト に至るまでの20の町とアベル ケラミックアモ人を徹底的に打ったので アモ人はイスラエルの人々に屈服したこの 屈服した勝利は主の霊がエフに望んだがゆ に起こった出来事なんですですからこんな 星願を建てる必要は全くなかったんですよ 全くなかっ たええそれの方が分かりやすいでしょで エフタが三葉にある自分の家に帰った時 自分の娘が包みを打ちならし踊りながら向 に出てきたてなんと最初に出てきたのが 自分の娘なんです よ彼はそういうことを考えてもなかったん ですよ え彼女は1人娘で彼には他に息子も娘もい

なかった聖書はこのことを強調してるよう にも思います彼女は1人娘であったという ことそして彼すなわちエフタには他に息子 も娘もいなかったということ彼はその娘を 見るとこのも引き裂いていったああ私の娘 をお前が私うちのて敵じゃないを 打ちのめしたのは我が娘ですよ我が娘が私 を打ちのめしたっていうわけですよいいえ 娘がち打ちのめしたんじゃないですエフタ の思いが自らを打ちのめすんですもっぺ 言いますよエフタの自己中心的な思いが 自らを打ちのめしていくわけです よああ私の娘よお前が私を打ちのめしお前 が私を苦しめるものになるとはって自分の の言葉が自分を苦しめてるんですよそう でしょ自分が立てた星願の上に彼は自分を 苦しめてるんです よ誰があなたを苦しめるんですかあなたの 自己中心な思いですよその思いが自らを 苦しめるんです よ私は主の見前で口を開いてしまった 取り返しがつかないって取り返しがつか ないのはあなたの思いじゃないですか ねでそして後半を読むとエフタ は自らで自らの手で自分の娘を捧げるん です よ こんな痛ましいでき事が聖書の中に主され ているんですよ ええ自分の思い自分の言葉がどんなに惨め であるかということが分かりませんかええ しかしねお読みいただきたいのはエフタが することに配してね父なる神様は一言も イエスものも言わないんですよそうでしょ エフタがこんな祈りを捧げてそしてこんな 痛ましできことが起こる時にも自死なる神 様は何も言わないんですよすなわち人間が することに対して自死なる神様はイエスも 脳も何も言わないんですよイエスも脳も何 も言わないなぜ父なる神様を止めなかった の か人間はね自分のしたいようにしかでき ないんですよ本当に え悔い改めるっていうことができなければ 自分のしたいことのようにしかできないの が人間の弱さなんです よですから私たちは本当に注意しなければ ならないのは自己満足というもの です自己 満足私たちが何かするということに対して 自己満足で何かをするていうことに対して は本当に注意していかなきゃならないん です よえ先日テレビでですね消防隊員のえこの 訓練の様子が移されていましたえまノでの

あるいは東日本の大震災でも多くのこの 消防隊員がですね球場活動をしておられた わけですですけどもえ先日その救助隊員が 消防士消防隊員がですね人命救助の訓練を してる時の様子を移していたわけです え熟年の消防隊員がです ね年若い後輩にですねこの訓練の手順を 教えている時にこんな言葉を言ってたん ですよ君たちは救助する時にねあ困ってる 人本当に大変な このその震災に巻き込まれて人命救助して いく時に大切なことが覚えてきなさいて 言ったんです自己満足で救助するんじゃ ないんですよって助けてやらなきゃなら ないでそれはあなたの自己満足を満たす ために救助するんじゃないんですよって 言ってたんです自己満足の救助じゃなくね これが私たちの仕事だっていうん です自分たちの仕事に対してベストを 尽くしていくことだけ考えなさいと人の ために人の命を救ってやるんだそして助け てやるんだというねそれは1つの同機に なるかもしれないけどもそれはその同機は 自己満足に落ちてしまうよっていう自己 満足で救助するっていうことはありえな いって言ってたんです よ大切なことだなと思ったんですよ本当 に私たちも信仰生活を自己満足をに至って しまう信仰生活であってならないなとこの アブラハムとエフタの歩みから教えられ ませんか え今日も本当に至るところでさやあるいは 本当に厳しい現実の中にあることを思い ますえ父なる神様が私たちに語ってること はなじら殺すなかれということ です神がいるならばなんでこんなことが 起こるのかと言いたくなるような時にも自 なる神様は生還します人間がすることに 対してイエスもノも何もおっしゃらない その無言の中にねイサクの無言の中にね イエスキリストの無言の中にこそね父なる 神様の見が隠されているわけなんですよ 本当 に神の言葉人の思いということを言う時に 本当に神の言葉がられたアブラハムに 向かってイサクを捧げようと言ったその神 の言葉は神の言葉であるが故に神が責任を 持ち ます明確に神が語られたがゆに神の言葉は 実現しますしかしエフタは人間の思い人間 の言葉なん ですここに言葉のどっからこの言葉が出て いるかということで区別ができますえ そしてその神の言葉にアブラハムは全く 信頼いやその前にイサクの全

冒険というものがあって父なる神様の見が 実現していくわけなんですえですから 私たち神のされた者たちが持つ思いその心 というのはイサクに見れるイエスキリスト に見れる本当にその思いを捧げ委ね冒険し ていく中にこそ ね父なる神様の身が成し遂げていく 成し遂げられているということを本当に心 にとめていただきたいと思いますどこまで も自己満足を通すかいえいえ父なる神様の 身がなるようにと願いながら自分の思い 自分の言葉を委ねていくかそれは私たちに 委ねられてる出来事であってこの アブラハムとイサクを捧げることとこの エフタが自分の娘を捧げることこの1つの をパノラマのように見ながらね自分たちの 心のあるべき姿を教えられる大切な聖書の 御言葉であることを教えられますお祈りを 捧げ ます恵深い天の父なる神様神の言葉をどこ までも知てしまいやすいそして自分の思い を神の見と錯覚し私たちの思いが本当に 自己満族の世界の中に陥ることのこの虚し さを今日の御言葉は私たちに教えてくれ ますどうぞ父なる神様の見が実現していく ために自分の思い自分の言葉をあなたの前 に委ね捧げ冒険しただあなたの見が私と 私たちの家族の上に血筋の上に実現して いきますように導いてくださいイエス キリストの皆によってお祈りいたします メン

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