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23 comments
ヤマタイシリーズ面白い
再生回数回ってんのかな〜
→番吾の戦い(14万)www
中々に興味深い内容だし今じゃ日本も立派な貿易大国だと思うけどこう言うの見てたら我が国が最初に貿易始めたのっていつ位からなんだろうって思う時がある🙄
匈奴国から奴国にしたかったけど、匈国になってしまった感があります。
姜維が変換できず生姜維新から削ろうとして生姜維などになるように。
地元、一支国が紹介されて嬉しいよ~
因みに一支国は交易で栄えてたけど、深江田原平野は長崎県2位の大きさの平野で弥生時代からも意外と稲作頑張ってたんよー。
あと、一支国博物館ていう島にしてはめっちゃデカい、力入れてる博物館あるからみんなもきてね~
前漢より前の時代の倭人については、中国人の張莉教授の論文が詳しいです。この倭人とは越のハニ族のことです。ハニ族と日本人の遺伝子はほぼ一致します。
纒向遺跡の交易は原の辻(はるのつじ)遺跡とはまた異質のものを感じます。だから分けて正解だったかも。どちらかと言えば、纒向遺跡は国内的な交易のウエイトが大きそうなイメージです。
纏向は、馬具が出土しています。「牛馬いない」邪馬台国ではないですね。そもそも、とっくの昔に大和朝廷で畿内にいるんだから、大和朝廷の町だってでかくなってるでしょ。まあ、それが纏向かなと思います。
生口=奴隷 とするのはいかがなものか?
当時、最先進国の魏が、倭国の奴隷(召使い)を献上して喜び金印&史書に記録するだろうか?
有能な職能集団もしくは遣唐使(阿倍仲麻呂)ような留学”生”を派遣したのなら、史書に記載されると思う。
https://www.youtube.com/watch?v=k0ayk444LbM&t=458s
動画お疲れ様です。 貿易とはなかなか現実的な見方かと存じます。
で、まっさきに思うことは、、、 15:40 の点線ですがこれは、日本列島→朝鮮半島のルートだってこと。普通に考えて「対馬海流」を考えると、「日本書紀」に書かれてる通り、朝鮮半島からは「多沙の津」から「対馬」の航路だということ。
狗邪韓国→対馬というルートは 「 無 い 」 ってこと。。
これは、「対馬」→「狗邪韓国」であり、魏志倭人伝は「 帰路 」を記述したってこと。
往路だと「多沙:任那」→「対馬」→「壱岐」→「伊都国」で、帰路は「末羅」→「壱岐」→「対馬」→「狗邪韓国」となる訳。
これは対馬海流を考えれば、現実的なルート。狗邪韓国から対馬には行かないってこと。
往路では「末羅国」はスルーなので、「官」の記名は無いしなぁ。
魏志倭人伝の記述は「帰路」ってこと。たぶん、、「往路」は違うんじゃないかなぁ。
継体天皇の時代に「多沙」を「百済」に割譲してしまったけれど、これは「朝鮮半島」から「日本」に行くルートが無くなったってこと。なので「非難囂々」だったわけで。日本は半島経営を諦めたって意味になる訳なんだよなぁ。
色々な書物を読むと、当時の人の現実と理想のはざまってのを感じます。
漢書の班固、後漢書の范曄の意志ってのを考えると、、、、陳寿の「魏志倭人伝」の偏向がつくづくわかると思っております。
面白かったです。
纏向遺跡はなぁ。。個人的には邪馬台国かと思っております。
魏志倭人伝に書かれてる「女王国」は九州で、卑弥呼の都とする「邪馬台国」は「纏向」じゃないのかなぁと。
女王国と邪馬台国は別であり、卑弥呼も邪馬台国とは別だと考えると、思ったよりスッキリするような気がいたします。
で、個人的には、畿内の纏向には「北九州」のニギハヤヒが先に「畿内」に降臨して、後から「狗奴国」の神武が畿内に降臨すれば「日本書紀」のとおりになるんじゃないかと思っております。
一大卒は外交交易を管理していて、連合国の船団を組織していたのだと思える
周辺国からすれば船団に自らの交易品を積めないと輸入する事が出来ないから怖れられたのだと思う
卑弥呼は武力がないからそれぞれが扱いやすく担ぎやすかったのだと思う
纏向遺跡は当時の大和王権の中心地で、日本国内の交易拠点だったのではないか?
神武東征以来の瀬戸内海や琵琶湖の水運の管理者であり、濃尾平野や伊勢湾の真珠などの集積地だったのかもしれない
卑弥呼が日本書紀のどの時代だったのか?にもよるけど、神武天皇より後で景行天皇の少し前のような気がする
仮にスサノオのヤマタノオロチ討伐による天叢雲剣の発見が河川の氾濫によって露出した日本初の鉄鉱脈の発見だとしたら出雲は先行して製鉄技術を持っていたのではないか?そして、大和王権は卑弥呼時点で出雲の支配権を得ていたのではないのか?と考える
そして当時の大和王権は濃尾平野の平定に力を入れていた「倭種」の国で西にまで手が回らなかったのだと思う
それで西に目を向けた時には中華は戦乱でそこまで積極的に中華の文明を学ぼうとはしなかった(民間の交流は続いていたが北九州勢の既得権益を積極的に潰そうとはしなかった)結果、聖徳太子まで国使の派遣は出来なかったのではなかろうか
ただ、景行天皇やヤマトタケルの九州征伐や天皇家の宇佐への傾倒を考えると北九州の一部勢力と(多分、神武東征の頃から)親密な付き合いがあって、一大卒の頃から対外的な窓口が北九州にはあって、宇佐の巫女である卑弥呼が担がれた結果落ち着いたので、後々「国が乱れそうな決断」の際には宇佐にお伺いをたてたのかもしれない
うん、妄想は楽しいね
「生口」が奴隷だとしたら、贈られた皇帝は「今更数人贈られても…。」って困ると思います。
魏の返礼から見るに、生口は「特殊技能」を持つ人たちではないでしょうか。
私も、ちょうど同じように邪馬台国は交易を独占し、ジブラルタルのような海峡都市として伊都国があったのではないかと、昨日魏志倭人伝 雑感を書いたところでした。
かつて百か国あったのが、魏志倭人伝の時代に「今使譯所通三十國」となっているのは、海峡交易を邪馬台国が独占して、他の国々による交易を妨げたからではないかとも思えてきます。その結果、出雲などは別のルートを使って新羅と交易するようになり、狗奴国は女王国と対立するようになったのかもしれません。
現代的な国民国家ではないんだから倭人も朝鮮半島に住んでたりしたんだろうけど、現代の国家の枠組み、フィルターを通じてだと様々な利害関係あるから結局真の歴史的事実に迫ることは難しいんだろうなぁ…(−_−;)
ずっと気になってたので一応。
「柵方」じゃなくて「冊封」ですね。
何はともあれ頑張って欲しいわ。見返してやれよ!
卑弥呼は徐福の末裔で丹後の籠神社の海部氏の系図に「日女命」と載っています。一人目の「日女命」が卑弥呼で二人目の「日女命」が台与ですよ。
紀元8年〜23年に流通した「貨泉」と呼ばれる通貨が北部九州と畿内両地域で出土しています。3世紀以前の鉄器は北部九州が出土分布の中心になっていますが、何故か飛地で北陸長野県がもう一つの中心となっていて、長野から東京千葉に鉄釧が多数流入していて千葉県には当時の加治遺構も存在します。長野から出土した2世紀の鉄剣は、辰韓のハデ43.44号墳の馬具とほぼ同じデザインとなっています。北部九州から多数出土した銅矛は、紀元前2000年頃のアンドロノヴォ文化の青銅器と外見はほぼ変わらず、千数百年かけて遼西、遼東地域を経由して流入した事はほぼ間違いないと思われますので燕と北部九州との関係は弥生後期に於いて深かった事が見て取れます。
現代の意識で考えて中国王朝のことを買いかぶりすぎです
1000年後の文永の役公安の駅でも平坦が問題になるように
当時の日本に住んでいる人にとっても へえー卑弥呼んとこ中国からピカピカの印鑑もらったんやー鼻ほじ
みたいなもんです、だって10万人の援軍が海を渡って駆けつけるわけないんだから
当時の人の知識と判断力を馬鹿にしすぎです
想像力を働かせて改めて考察してみて欲しいです
冷静にパワーバランスを考えて反芻していくとまた別の答えも見えてくると思います 18:48 ❤
現代にあって人民解放軍が九州に上陸してききて日本が占領されるとか恐怖を感じてないでしょ
当時のお互いに木造の🚢しかないならそんな恐怖なんて存在してるはずがありません
金印もらったらしいから従属しないと中国から大群が駆けつける
仕方ないから我々の収穫の中から利益を献上しようなんてなるはずがないんです
これを念頭にまたいろいろ考えてみて下さい
文化の伝播には、相応の時間を要する。外交手法に関しても同様、漢や魏においては遼東、倭においては奴国が窓口となり、奴隷貿易をしていた事は明らか。
倭からすれば、遼東征伐して新たに外交の窓口となった司馬懿に対し、慣習通りの交易をしようとしたが、遼東の仕置きで司馬懿が異民族を懐柔する意図もあり、寛大なやり方に改められた。それが、後の晋への朝貢につながる。
そもそも、漢の豪族は部曲を形成し奴隷を欲していたから、遼東からの奴隷供給に需要があったのだ。漢から魏へ政治体制が変わり、魏の国都が鄴から洛陽に遷ると、人口増加で奴隷はさほど必要で無くなった。
奴隷貿易という経済的な裏付けがあり、魏の権臣董昭らと良好な関係を築いていた遼東の公孫氏は、236年に董昭が死ぬと魏は遼東征伐に本腰を入れている。董昭一派の衛臻は、利権を奪われる事を恐れ、一早く遼東討伐に赴いていた幽州刺史毌丘倹の用兵を批判している事情がある。
この時の尚書令である裴潜は、毌丘倹と同県同郷で、この人事は異民族の懐柔で名を馳せた裴潜の肝入り。裴潜は荊州刺史時代、司馬懿とも関わりをもっている。加えて、司馬懿の実弟である司馬孚は、遼東征伐時の尚書の一人。後に、毌丘倹と司馬孚は揚州で共闘もしている。
史書の記述を、鵜呑みにしてはいけない。人事を観れば、司馬懿の外交が掛け値なしだという事が明らかなのだ。
「楽浪郡だけ押さえておけばいい」の一言は聞き捨てならないですね。武帝朝鮮半島4郡のうち、日本古代史に最も重要なのは南端の真番郡です。真番郡は半島南部、釜山辺りに存在した可能性が高く、ここに注入されたチャイナ文明がそのまま弁辰、辰韓へ成長します。チャイナ本土から遠いはずの辰韓がチャイナ文明度に於いて馬韓に勝っていた理由はここにあります。
ありがとうございます!
違う視点からの解説面白かったです。
纏向遺跡は、ある文化圏の他の文化圏の窓口と内部交易の最大の市場が分離していても何の不思議もなく、山川の障害でもありそうなことが海という最大の地形要因でより明確に出ただけという見方もあると思います。