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江戸時代の大名は、江戸と国元の二重生活を義務付けられていました。
江戸では、大名屋敷に住んでいた藩主(お殿様)ですが、どのような仕事をして、どんな暮らしだったのでしょうか?
今回は、江戸で暮らしていた大名の生活について詳しく解説します。
▼もくじ▼
00:00 動画の概要
00:44 江戸における大名の仕事
05:09 大名が居住する「江戸屋敷」の実態
10:15 窮屈だった大名の藩邸生活
14:04 隠居した大名の暮らし
▼主な参考書籍▼
松尾 美惠子, 藤實 久美子『大名の江戸暮らし事典』(柊風舎、2021)
青木宏一郎『大名の「定年後」-江戸の物見遊山』(中央公論新社、2021)
安藤 優一郎『お殿様の定年後』(日本経済新聞出版、2021)
柴田 宵曲『幕末武家の回想録』(KADOKAWA、2020)
小野 佐和子『六義園の庭暮らし』(平凡社、2017)
岡村 通雄 (監修) 『図解! 江戸の大名屋敷』(宝島社、2015)
深井 雅海『江戸城: 本丸御殿と幕府政治』(中央公論新社、2008)
平井聖『大名と旗本の暮らし』(学研プラス、2000)
江後 迪子『隠居大名の江戸暮らし:年中行事と食生活』(吉川弘文館、1999)
三田村鳶魚『武家の生活』(中央公論新社、1997)
手島益雄『浅野長勲自叙伝』(平野書房、1937)
など他多数
▼画像引用元▼
ColBase
https://colbase.nich.go.jp/?locale=ja
江戸御上屋敷絵図(金沢市立玉川図書館所蔵)
https://open-imagedata.city.kanazawa.ishikawa.jp/data/detail/885/search_detail
23 comments
0:06 一文字三ツ星は毛利家?
毛槍投げ渡してるw
奥さんと離れたくないのでずっと江戸に居たいで候。国許の政務は家老とリモートで執り行うで候。
なるほど、大名の回顧録があるとは知りませんでした。
参勤交代は住んでる国本距離によって行く回数が決められてて、薩摩藩なら4年か5年に1回で良かった。
隠居は何歳くらいから 隠居暮らし何だろうか
ここ何年か流行り物の転生物で江戸時代に転生するとしたら将軍様やら大大名より、江戸や大阪の豪商(子供に甘々な主人)のボンクラ三男坊としてこどおじニートしてるのが、一番気楽かつそれなりに贅沢な暮らしも出来る勝ち組なのかも。
大名の暮らし良くわかりました。
浅野公の記録は良く分かりやすいです。大奥と同じく寝所に見張りがいるのは…。ちょっと…。すること出来ない…。
花屋敷なら入ったことあります
加賀藩は片道だけで現在の金額にすると総額5億5000万円だったようです。
10代藩主・前田治脩が著したとされる『御道中日記』に、家老の横山政寛が書き留めた「文化五年御帰国の御入用銀」という支出記録があります。約5500両。
その内「御供人への被下金」つまり帰国に随行した藩士の手当が741両余。これが人件費です。
ざっくりと、1両=10万円とすると帰国の総経費が5億5000万円。人件費7410万円。
人件費の他は旅籠代(宿代)川越賃(川渡りの料金)他藩の領内を通過する際の贈答品、補償金など多岐にわたりました。
この経費5億5000万円は、帰国の時のみの片道分。参府(往路)を加えれば単純に倍。
参府には将軍への献上品、幕府要人への土産も持参。
献上品は馬や銀が定番で、馬は他藩を通過する際の贈答品でした。
参勤交代は旅費もだが、江戸で使う金こそが諸藩の藩財政の足かせでした。
参勤交代がなければ藩主・家族・藩士が江戸で暮らす理由はないのだから、これこそが最も厄介な問題。そして、その金策に走り回ったのは国許。
国家老にとっては、苦労して徴収した年貢の大半が一方的に江戸藩邸に吸い上げられていくから。
大変な仕事の後に美しいものを愛でたり自分で好きなものを作ったりするのはとても共感できるし親しみがわきます
裕福ではなくとも、長屋で家族3人、時には、落語を楽しみ、ファストフードを楽しみ、長屋の人や銭湯、床屋で、知人とお話しをして、
平和で、穏やかな生活が出来ていたのかも😄
非常に面白かったです。機会あったら伺候席についてもお願いします。
後楽園の帰り六義園を見て帰りました。
幼い頃より江戸で過ごし、ある程度の年齢になったら自らの領地に赴く。
幕府としては幼君を江戸に止め置くは人質としての役目が第一だが元服して領地に戻っても本領の家臣達とは、ぎこちない関係になりそうではあるし「いざ!江戸に攻め入ろうぞ!」となったとしても当主としては幼き頃を過ごした思い出の地、そんな江戸を劫火に包み灰燼とする事が出来るのかというのがあるよね。そこまで考えての江戸暮らしだとしたら凄いな!とは思う。
正月は寧ろ一番将軍様が可愛そうって言う
折角の正月なのに何日も年始の挨拶やらナンやらの為にずーっと公務しっぱなしで忙しい事この上無いからねぇ・・・
浅野長訓の日記には他にも家臣の失態についても言及が有ります。家臣、特に大名の身の回りの世話をする小姓は大名相手に粗相するとすぐ切腹となるので、家臣の失態を見て見ぬふりをしなくてはなりませんでした
一度、食事の配膳にネズミの糞が混じって居ました。それを指摘すると切腹間違いなしなのでその晩は具合が悪いと食事を諦めたとか。他に風呂番は特に地位が低い家臣が行うので江戸の身分制だと殿様が声を掛けてはならぬもの(声を掛けるとお目見えになり、身分を上げなければならない)。そのため風呂の熱い冷たいは独り言として言わねばならず調整が難しく熱くなりすぎたり逆になったりと大変だった
明治維新以後になりますが競馬の有馬記念にも名前を遺した旧久留米藩主有馬伯爵は鰈が大好物でしたがいつも半身しか食べられませんでした。と言うのも当主の食べ残しは使用人(ほぼ旧藩士や旧領民その家族)への施しだったので半分は残すのがマナーだった。節約の為、豪華な食事を無くすと使用人から不満が出て催促されたり辞めるものも多かった。そのため定期的にパーティーをせざるを得なかった
敗戦後、華族制が無くなり体裁の為の使用人を解雇しやっと好物の鰈を総て食べられたと喜んだらしいです
拝謁される側の将軍も大変やったやろな・・・
以前に板橋区の加賀に住んでいたことがありますが、加賀名前の通り、加賀藩の下屋敷があった場所です。この話に出てきた六義園を超えるような広大な庭園があったそうです。今は見る影もなく開発されていますが、唯一、庭園の築山の跡だけが今でも残っていて、桜の季節になると多くの人がこの周辺に集います。
今でも妬みひがみで皇族批判する輩いるけど、そんなに楽しい世界でないから歴代妃方が病んだり髭の殿下みたいに離脱を試みた人もいたことから察しろよ
いつも他人と接して見られてる私生活なんて常人には耐えられないだろが
屋敷って国からの借り物なの?
直参組長みたいな
母方の祖母の祖母が前田侯爵家と繫がりがあったそうです。祖母が明治生まれなので、たぶん幕末の頃からの繫がりらしいですが、初めて牛肉を食べた時の話を聞いたことを思い出しました。
室町時代に主要な守護大名が中央にべったりで領地を離れっぱなしで支配力を弱めて守護代や国衆に代わられてしまった反省なのかな