Home » Announcers » 女子アナ » 平良川伝道所 主日礼拝 2024年6月16日 『父の心を知る』 林利行牧師

平良川伝道所 主日礼拝 2024年6月16日 『父の心を知る』 林利行牧師

by ANNAPOST



聖書 ルカによる福音書15章25節~32節

ご視聴ありがとうございます。

「神の子ミニストリー」とは、散らされている神の子たちを集めるための働きです。
おもに日本基督(キリスト)教団 平良川伝道所での説教集です。
おもな説教者は、林 利行牧師です。

チャンネル登録、および、評価もよろしくお願いします。

▼神の子ミニストリーのYouTubeチャンネルhttps://www.youtube.com/channel/UCyu3iSUPuVv6pac56zQ2cjQ

▼天空の架け橋 ラファエル 故人をみなで偲び、癒される場所
https://skybridge.kyoukai.jp/
(*まだ作成中の部分があります。)

▼神の子ミニストリーの経緯(林利行牧師の証への直接リンク)
https://skybridge.kyoukai.jp/wp-content/uploads/2022/12/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%B5%8C%E7%B7%AF.pdf

くさいお祈りをいたし ますお恵み深い天の父なる神様この日も このように私たちを遠く近くからみ堂に 集めてくださりあなた様の皆を褒めたえる こと礼拝を捧げる民としてくださることを 感謝いたします長も世に隠されていること あなた様の愛の奥を渡したが知ることが できますようにどうぞ御言葉を取り付いて くださる林牧の上に神様のお助けと精霊の 満たしがございますようにお祈りいたし ますまた今日集うことのできません兄弟 姉妹の上にも等しくあなた様の恵みが ございますようにお祈りいたします感謝し て尊救い主イエスキリストの皆によってお 祈りいたしますあん を拝読いたします聖書はルカによる福音書 15章25節から32節新薬聖書の139 ページでござい ますはいでは拝読いたしますところで兄の 方は畑にいたが家の近くに来ると音楽や 踊りのざわめきが聞こえてきたそこで下部 の1人を呼んでこれは一体何ごとかと尋ね た下部は言った弟さんが帰ってこられまし た無事な姿で迎えたというのでお父上が 超えた講師をほられたのです兄は怒って家 に入ろうとはせず父親が出てきてなめた しかし兄は父親に言ったこの通り私は何年 もお父さんに使えています言いつけに背い たことは1度もありませんそれなのに私が 友達と宴会をするために小木1匹すらくれ なかったではありませんかところがあなた のあの息子が小父どもと一緒にあなたの 新相を食いつぶして帰ってくると超えた 子牛をほっておりになるすると父親は言っ たお前はいつも私と一緒にいる私のものは 全部お前のものだだがお前のあの弟は死ん でいたのに生き返ったいなくなっていたの に見つかったのだ祝園を開いて楽しむよ 楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか以上で ござい ますでは父の心を知ると対してえ林牧師に 説教をいただきます [音楽] お祈りを捧げ ます恵深い天の父なる神様私たちのこの命 は父と母そしてその関係の中で新しく誕生 しそしてこの関りの中で育まれ守られ今日 は父の日としてとに父の愛を思いつつ 私たちの天の父なる神様であるその思いを 私たちが共に共有し父なる神にそしてこさ れた私たち1人1人が1つとなってあなた の皆を褒めたいさせてくださるようにお 願いをいたしますそしてあなたが私たちを 生かし永遠の命その三国へとあなたが待っ てくださっているその父の愛を共に 分かち合う幸いを得させてくださいイエス キリストの皆によってお祈りします メンえ今日は父子の日ですえ父ののことに ついては主婦に書かしていただきましたの でどうぞお読みいただければと思います 私は父のお父さんということになるとです ねもう胸がいっぱいになるんです取り上げ られ取り上げたお夢いただいたのは宝刀 息子の例えのところ です今日はこのお兄さんのところを 取り上げたいと思うわけですけども 振り返りつつルカによる福音書の15章の 11 節ルカによる福音章15章の11節 イエスは言われたある人に息子が2人いた 弟の方が父親にお父さん私がいただくこと になっている財産の分け前をくださいと 言ったそれで父親は財産を2人に分けて やった何日も立たないうちに下の息子は 全部を金に変えて遠い国に旅立ちそこで 包頭の限りを尽くして財産を無駄遣いして しまったとあります 先週はカインとアベルについてえ御言葉を 取り付かせていただきましたえ私はこの カインとアベルの両親であるアダムと エヴァこの宝刀息子の下の弟と重なるよう な思いで御言葉を取り付かせていただくん ですアダムとエヴは罪を犯しましたとって はならない善悪を知るその知識の木から その身を取って食べて彼らの目が開かれて 彼らは善と悪を善悪を判断するそういう 思い に駆られて自分たちが裸であ るっていうことを恥ずかしく思ったわけ ですそしてあなたはどこにいるのかという 致死なる神様の問いかけに対してアダムも エヴァも罪を犯したその思いを正直に 認めることができずにアダムはエヴァを エヴァは蛇をそれぞれが自己主張し てそしてこのエデンの園で父なる神と共に 住むことができなくなってしまったんです この地上でもそうですよ人と人との心が 引き離されてしまっ たら一緒に共に住むっていうことは本当に 難しくなります心と心が離れてしまったら 共に住むということは苦痛以外に何者も 起こってこないですえアダムとエヴァは 追放されましたこの宝刀息子の弟の方は 自分の方 から何日も立たないうちにって書いてます けども財産をの分け前をもらってです ねそして下の息子は全部お金に変えて遠い 国に旅立ったとありますこの法息子の弟の 方は自分の足で遠い国に国にっていうね アダムとエヴァは追放されたしかしこの 宝刀息子の方は自分でその遠い国へ決して 近ゆることのできない近づくこともでき ないあるいは探すこともできないその遠い 遠い国に旅立ったのがこの宝刀息子だった ん ですそしてアダムとエヴァは苦労して苦労 して史上の生活が始まったこの宝刀息子は 何もかも使い果たした 時その地方にひどい基金が起こって彼は 食べるにも困り始めたそこでこのその地方 に住むある人のとろに身をせたところその 人は彼を畑にやって豚の世話をさせた彼は 豚の食べる稲ごまを食べてでも春を満たし たかったが食べ物をくれる人は誰もい なかったもう上で死にそうだていうことな んですどんなに人間がお腹をすかしても豚 の食べる稲ごま豚の食べる食べ物など人が 口にできる食べ物ではないん ですうえて死にそうになったこの 弟この宝刀息子はこの現実の中からそこで 彼 は我に帰って行ったとあります攻略聖書で は立ち返って本心に立ち返ってっていう 言葉になるんですけどもえ彼は立ち返った んですこの立ちるっていう言葉はあるべき 姿に戻るということなんです自分のある べき姿に戻っ たその元の姿に立ち返ることを本心に 立ち返ったその本心に立ち返って元の姿に 立ち返った時に彼が最初に口から出てきた 言葉はお父さんていう言葉なんですよ お父さんという言葉なんですよもう昨日も ギリシャ語の聖書を読みながらこのパテー ルっていうこの宝刀息子がお父さんと叫ん だもうこのねお父さんという言葉に本当に 感動するんですよこんなに惨めで誰も 食べるものもなく食べものをくれる人も なくそしてもうお腹が空いて惨めな惨めな 本当にボロボロの状態になったこの宝刀 息子の心から出てきた言葉がお父さんて いう言葉だったんです よ神様ではない すお父さんていう言葉だったん です自子のところではこんな惨めな状態で やってもね父子の子であることは間違い ないんです よ自分はあのお父さんの子供であ るっていう父の家では使用人ですらこんな 惨めな思いはしていない とこのお父さんというこの 言葉でこれはねヨハネによる福音章1章 に163ページをお開き [音楽] くださいヨハネによる福音書1章の18節 163 ページヨハネ1章の18節お読みします 未だかつて神を見たものはいない未だ かつてこれは創世紀の初めからです いろんな予言者たちも出てきましたしかし 未だかつて神を見たものはいない父の懐に いる独り子である神イエスキリストこの方 が神を示されたのであるっと書いてあるん ですねこの方が神を示されたのである どんな神を示されたんです かお父さん ですイエスキリスト以前に神をお父さんと 呼んだ人はいませ んこの方だけがお父さん神をお父さんとし て私たちに示してくださったん です旧約聖書の時代 もあるいはその歴史の中で1人後なる イエスキリストが私たちのこの地上にきて くださって示してくださったのはお父さん です神をお父さんとしてパテーイエス様が 使った言葉はアバっていうヘブル語で お父ちゃんていう言葉 ですお父さんを示してくださったんです またヨハネによる福音書の17章を開いて ください ヨハネによる復員書の17章202 ページヨハネによる福音章17章の6節み します202 ページヨハネによる福音章17章の6節お 読みし ます世から選び出して私に与えてくださっ た人々に私は皆を表しましたって書いて あるん です皆さん一度調べてみたらいいです皆を 表しましたっていうこの皆をどういう皆と いう風にしてこの女を紹介しているか いろんなところからいろんな先生たちが 解釈者たちがこの皆をあるいはヤハウェだ あるいはエホバだあるいはエロヒムだこの 美をいろんな方々がいろんな立場でこの皆 を示しているわけですけどもイエス様が 示された皆 はお父さんなん です私は皆を表しましたお父さんを表した ん です彼らはあなたのものでしたがあなたは 私に与えてくださいました彼は御言葉を 守りました今度11 節17章の11節私はもはや世にはいませ ん彼らは世に残りますが私は身元に参り ます聖なる父を私に与えてくださった皆に よって彼らを守ってください私たちのよう に彼らも1つとなるためですとイエス様が おっしゃいました聖なる父を私に与えて ください によってこれはこのように理解でき ます私に与えてくださった皆それは子で あるイエスキリストが父と呼ぶ子である イエスキリストが父と呼ぶそれがミナ です子であるイエスキリストがお父さんと 呼ぶそれが父なる神の皆 ですこの父と子がお父さんと呼ぶ子 が私たちのようにイエス様と父なる神と子 なるキリストが1つであるように彼らも1 つとなるためですと言ったん です彼も1つとなるためです父と子が1つ であるように私たちもまたお父さんと呼ぶ そしてこととされるという父と子の 関係その関係のことを用いてイエス様 は私たちのように彼らも1つとなるためで と祈られたん です え私はもう今年は万の65になるんです けどもね え中学1年生の時から教会に導かれていき ました12歳 ですいろんな 教会そしていろんな関わり信仰の歩みを もう50年以上続けてきてるわけ です誰1人私に神の皆を教えてくれる人は いませんでし た正しく神の名前を教えていただくそう いう機会には恵まれせ恵まれませんでした ある方から質問を受けたんです先生林牧を イエス様はいつもお父さんお父さんと言葉 でも語りあるいはイエス様は祈りのおいて もお父さんと祈ってるのにお父さんと読ん で祈ってるのにまたり主の祈りでこのよう に祈りなさい天におられる父をという風に 祈りなさいと言ってるのに私たちの祈りの 言葉は神様っていう言葉で祈ってるってい ん です常に神 様なぜ私たちはイエス様のようにお父さん と祈れないんだろう かヨハネの4章に読むと父を礼拝する時が 来るとおっしゃったんですね神を礼拝する 時が来るとはイエス様おっしゃらなかった んです父を礼拝する時が来る今がその時だ とおっしゃってイエス様は父を礼拝する時 が来ると父はその礼拝を求めておられるん だとおっしゃいましたですからイエス様の 心の中にある思い魂の中にある思いは お父さんていう思いなんですよしかし 私たちは神様というなぜこの開きがの でしょうかこれがこの宝刀息子の例の中に 教えられる思いなんですすなわちお父さん のところに帰ってないん ですお父さんのところに帰ってないです もうこの年になってようやくですイエス様 の心が分かった本当に私もまたこの宝刀 息子のように惨めでそして本当に苦しい ところを通らせていただいて心の からお父さんのところに帰ろう と神様はお父さんであった私のお父さんで あったということに目が開かれたんです よこの法息子は弟の方は父の元に帰る お父さんの元に帰るこのお父さんの元の元 にお父さんの元に帰るきっかけになったの はお父さんの豊かさをめ知ったん ですお父さんの豊かさを主用人ですら こんな惨めな思いをしていない父の家では お父さんの家では使用人ですらこんな惨め な思いをしていないという初めてね法ざま をして父の豊かさが分かったんです お父さんと一緒にいる間はたくさんの財産 に囲まれていたその時にはね当たり前だっ たん ですざをしてしかも遠く遠く離れ て初めて父の豊かさに気づいたんですその 父の豊かさとは何ですかエデンの園じゃ ないです かアダムとエヴァも本当に苦労して苦労し て土地を耕して食べ物を得た時にエデンの 園の豊かさに気づいたと思いますよ エデンの園の豊かさあり余る中で生活して いたことをアダムとエヴァは知っていた わけですからそしたらアダムとエヴァも この宝刀息子のようにこんなに苦しむこの 土地の中でエデンの園に帰ろうともう あなたの息子娘と呼ばれる資格はありませ んと言ってね帰るべきところはお父さんの ところじゃないです かカインもアベルもまた同じなんです 本当に自分の罪を 嘆きもう1度お父さんのところに帰ろうと いう父の豊かさエデンの豊かさを本当に アダムとエヴァは体験したものが ねカイもアベルにもそのことを何度も何度 も語ってきたことと思いますでも罪を犯し た時にそこに帰ろうとはしなかったんです いろんな神様があり ます私たちの周りにはいろんな神様が存在 しますしかしイエス様が示されたのは父父 と呼べるお方だけが神様 ですそして父の家に帰っていくこの宝刀 息子はまさしくアダムとエヴァがエデンの 園に帰っていく姿と重なっていくわけです しかしアダムとエヴは帰ることができ なかったんです自分のそのプライド自分の 正しさ自分が本当にもうお父さんの息子と 呼ばれる資格はありませんというそこにね たどり着くことができなかった私は 恐ろしいなと思う言葉があるんですよこの ルカの15章の中に ね彼はルカによる福音章15章の16節に 彼は豚の食べる稲ごまを食べてでも腹を 満たしたかったが食べ物を遅れる人は誰も いなかったその惨めな惨めな姿の中でこの 惨めさの中でもしこの宝刀息子の弟が召さ れたらどうなり ますその上乾いている惨めな状態のまま この状態がね永遠に続くんです よ父に帰ることをせず父の元に帰ろうとも せずこのお父さんがこの息子が帰ってきた 言葉の中に 死んでいたのにっていう言葉があるん ですこの息子は死んでいたのに生き返 りっていう死というのはね先週も話しまし たけどねこの父と子が離れている状態が死 なんですねこの体に死はないんですこの体 はくるものなん です口ていく土から作られたがゆえにこの 体はね土に帰るんですしかしあなたのこの 土の中にあるこの体の中にある魂が死んだ 後すなわち口た後どこに行くんです か真剣に考えたことあります かお父さんの元に帰らなかったらお父さん の元に本当に帰ってこなかったらねこの 惨めな状態がね永遠に続くんです よその永遠の怖さを永遠というものの厳し さを知らないと この宝刀息子は我に帰ってすなわち自分の 姿子であるというその思いに立ち返って お父さんのとろに 帰ろうこの死んだ状態 から死んだ状態からお父さんのところに 帰るという回復になっていくわけですです から人は何ですか父と子が離れてる状態が 好きなんですだからこの宝刀息子の弟は 死んでる状態だったんです離れていた状態 なん ですその父の豊かさに気づいてほと息子は 帰って行くお父さん私は天に対してもまた お父さんに対しても罪を犯しましたもう 息子と呼ばれる資格はありません雇人の 1人にしてくださいと言って自分はこの お父さんの元で生きようていう気持ちに なったんです よ生きようっていう気持ちでそして宝当 息子が帰って行く時になんと父親の方から の息子を見つけるわけでしょうお父さんは ずっと息子の帰りを待っていたん ですずっと息子の帰りを待ってたんですよ 本当に死んでる状態の息子を ねずっとお父さんは待ち望み ながら父親は息子を見つけて青に思い 走り寄って首を抱き切粉したとあるん です息子は言いましたお父さんもうあなた の息子と呼ばれる資格はありませ んお父さん対しても罪を私は天に対しても またお父さんに対しても罪を犯しました もう息子と呼ばれる資格はありません使用 人の1人にお父さんは言わせなかったん です よ本当は息子はね使人の1人にしてくださ いって言いただったんですよもうあなたの 息子と呼ばれる資格はありませんてもう お父さんはその言葉で十分 です使人の1人なとさせませんお父さん はなぜですか若子です から証人の1人にさしてくださいなんて この息子に言わせないです よよく帰ってきた本当によく帰ってきた 死んでいた状態から回復して帰ってきた 私たちもお父さんのとこに帰るんじゃない ですかお父さんの家こそがエデンのそじゃ ないですかもう息子と呼ばれる資格はあり ませんで十分ですよそして お父さん急いで1番良い服を持ってきて この子に着せて手に指輪をはめてやり足に 履き物を履かせなさいそれから超えた甲子 を連れてきてほりなさい食べて言おうこの 息子は死んでいたのに きえれいなくなっていたのに見つかったの だからそして祝が始まったんですなんで お父さんは祝園を始めるんです かねここでも何度も話なんですこの祝園は 誰のための祝園です か息子のための祝園じゃないんです お父さんのための祝園なん ですお父さんはね息子を失ったという 大きな心の痛み喪失感を抱いてたん ですこの痛み息子愛する愛する本当に 掛け替えのない息子を失った死んでしまっ たというこの喪失感をお父さんはそのまま にはさせない ですこれをね消化すなわちこの失ったと いう痛みをね消化っていうこの言葉はこの 別のものに置き換えて喜びっていうものに 置き換えてこの痛みを消化させてしまうん です私も自分の息が帰ってごらんなさい 大変なことですよみんなを読んで大宴会し ますよ全部を失ってもいいね息子を失っ たていう痛み苦しみねこの痛み苦しみを 喜びに変ることなく息子の帰ってきたこと を共に喜ぶっていうことで必ずします大 宴会です本当に大番ブルマにしますみんな 喜んでください息子が帰ってきました そしてみんなでパーティーをしてこの失っ たという喪失感を消化させますよ喜びに 変えてですからこの祝園は誰のための祝園 ですかお父さんのための祝園なんです 愛する息子を失った愛する娘を失ったその 失ったという嘆き悲しみをあなたの顔を見 て皆と共に喜びこの痛み苦しみを消化させ て喜びに帰るん です皆さんあなたが天の国に帰ってきた時 にあなたが待ってるあの神の国のこの神の 国は父の国です待ってるのは息子娘を失っ たというお父さんが祝えに帰るという喜び に帰るというお父さんのための宿縁なん ですそれが近いですね本当 にどんなに父はあなたを愛していたか そしてあ父なる神様はあなたを失ったて いうことに対するどんなどんな痛みを負っ たか愛する1人後イエスキリストをこの 地上に送ってまでも父なる神様はあなたを 連れ戻したかったたった1人後愛する イエスキリストをこの地上に送って十字の 死を起こしてそして復活させるほど父なる 神様はあなたを失ったという失った痛みを ね1人後イエスキリストのうちにご自身の 思いを重ねてこのに送ってくださったん じゃないですか1人頃イエスキリストの命 は命というものは比べられるものではない です1人後イエスキリストの命を失って までもねあなたを取り返したかったあなた を返したかった自分の懐にアブラハムの懐 にあなたを 抱き許し永遠の祝福を与えるというこの 祝園に あなたを戻したかったという父の痛みなん です私はですからこの宝刀息子のこの例え って書いてますけども例えじゃないんです ね自の思いイエス様が伝えるこの例え話の 中からひしひしと伝わってくる愛する子供 を失ったというこの父の思いが本当に響い てくるんですよ ところで兄の方は畑にいたが家の近くに 来ると音楽や踊りのざめが聞こえてきた そこでしべの1人を読んでこれは一体何方 何事かと尋ねた下部は言った弟さんが帰っ て来られました無事な姿で迎えたというの でお父上が超えたをほられたのですとあり ます兄の方はその父のみの心を全く感じて ません全く感じてないですそれどころか 冷たい心なん です説教の容姿のところに書かして いただきまし た怒りの怒りを伴う兄の言分にはこれまで 長い間どんなに一生懸命に父に使え父の 言われることを従ってきたかという思いが ありますまた法ざまをし財産を食いつぶし て帰ってきたに対する憎しみさえも感じ られますそしてその弟に対する父のあまり にも行為的な振る舞いに対して我慢がなら ないという思いが見て取れますそう でしょこのアの言分にどかんだとする思い が自分の中にもあるならばその人もこの兄 と同じ問題を抱えているん ですなぜこんな宝刀ざまをした弟を許さ なきゃならないのか この宝刀息子が帰ってきた時にこの お兄さんは何て言いましたお父さんに 向かってあなたのあの息子がって言ったん ですあなたのあの息子が小父どと一緒に あなたの新相を食いつぶして帰ってくる とっていうあなたのあの息子がですよだ からお兄さんの中にはね心の中ではこの弟 を殺してるんですよ分かります かカインがアベルを殺したようにこの お兄さんはね弟を殺してるんです心の中で 否定してるん ですそうでしょだからカとアベルの出来事 はこの宝当息子の中で実現してるん ですお兄さんはアベルを殺したようにこの 宝刀息子のお兄さんは弟を殺してるんです 心の中で否定してるんですですからあなた のあの息子はと言って ね全く自分とは関係ない自分の正しさを 持ってるんです お父さん共に言いながらですお父さんと共 に生活をしながらお父さんは2人の息子を 失ってるん です弟は遠いところそしてこのお兄さんは 共に一緒に生活しながら共に一緒にな生活 しながらお父さんはこのお兄さんに対して もう死んでる状態お兄さんは信じでる状態 なんですってお父さんの心1つにできない ですお父さんの悲しみを悲しみとし お父さんの喜びを喜びとすることができ ない自分が持ってる正しさ プライドそういう思いが私たちの中にある とするならば私たちもお兄さんと同じ ですこの兄の言文に同感だとする思いが 自分の中にもあるならばその人もこの兄貴 とお兄さんと兄と同じ問題を抱えてるのか もしれません父の家に共に住みながら父の 思いを共有することができず父の心とは 異なっています父の喜びを自分の喜びと することなく父の悲しみを自分の悲しみと することなくただ良い行いによって父から の行為を得ようとひたすら頑張って生きて きた兄の姿を見ますそこには感謝も自由も 喜びもなく文句の1つも言わずにただ ひたすら父に使え父に従ってきた兄の姿が あります兄は弟のように自由本法に来た 経験がありません従って自由本法に生きて 本法によって苦しみのどん底に突き落とさ れその苦痛と孤独を味わった経験もあり ません弟が財産を食いつぶして帰ってきた としてもそれは自業自得 で特別に歓迎して祝園を催すほどの然性を なんら感じませんでしたですからそんな弟 を歓迎する父に対して腹立ちを感じていた のです兄は怒って家に入ろうともしなかっ たという表現にこのことがよく表されてい ますその通りでしょうねですからこの お兄さんも父とから父のある神様父と離れ てるんです死んでる状態なんですお兄さん も共に生活し ながらお兄さんと父なる神は引き話されて いるわけです死んでる状態なんです 自分の正しさを永遠に主張するん ですこの16節えルカによる福音書の15 章の28 節兄は怒って家に入ろうとはせず父親が出 てきてなめたという言葉がありますこの なめるというこの言葉ギリシャ語のパラ カレオっていう言葉なんですねパラカレ オっていう言葉えこのパレカレオっていう 言葉が名刺になるとパラクレイトスって いう言葉になるんですパラクレイトスて いう言葉は以前も話しましたように精霊 精霊を表す言葉なんですで父なる神様は このお兄さんを決して無視せずに ね精霊の心を持って知を見たものこの3 一体の神のこの思いが伝わってくる言葉 パラカレをすなわちパラカパラクレイトス ていう言葉になるわけですけどもえこの鬼 をお兄さんを父は責めることもなく本当に 親愛の心 でお兄さんをかおうという思いで近づき そしてこの親愛の心慈しみの心でこの お兄さんにその思いを向けてるわけです けど もお兄さんの方はそうじゃないです その父の慈しみの心を全く感じてないん です全く感じて ない最も父のそに言 ながら父の心を知ろうともせずにお父さん と引き離されてるわけです死んでる状態に なってるわけ です回復するとするならこのお兄さんも また お父さんもう自分ではどうすることもでき ませんという自分の心をけ出すしが お父さんと心1つにするっていうことが できないじゃないです [音楽] か先ほど話ししました私たちの祈りが神様 神様ってなってしまっているその現実 しかしイエス様はいつでもお父さん お父さんお父さんというパテールっていう その言葉でいつも父を呼びその父がみなな んです 私たちイエスキリストはお父さんをこれが 美であり示してくださった私たちの神は父 なる神なんです父以外に神はいないん ですそしたら今日よりもう1度改めてもう 1度私たちと父との関係を回復していき ましょう本当にえ多くのこの関わりの中で もう神様神様神様っていうその言葉の中に え私たちはいるわけ ですやが王でもその状況状態あるいはその 関わりの中で影響を受けていくわけです そんな中で本当に私たちこの法息子のよう にですえ自分たちもまたお父さんの元に まずお父さん本当に父なる神様の前にこさ れたというこの喜びを持って父さんの ところへと私たちは帰らせていただきたい と思うわけですある集会でえ私の神様は父 なんです私はお父さんですえ皆さんは平気 に受け取れれるでしょえしかし私がこの話 をするたびに私の神様をお父さんえ私の父 はお神様なんですっていう話をするたびに ね軽減な顔が伝わってくるわけですよ本当 に軽減な顔納得してないんですよ 納得してないからやっぱり神様としか言え ないです よ列期の第1のところの18章でえこの バールの神とエリアとの対決のシーンが ありますねもう今は開きませんけどもね火 を持って答える神を神と師匠と言って バールの予言者450名とねそしてたった エリア1人ですよねエリアはもう本当に あの見晴らし格好をしてねそして イスラエルのために言うんですバールが神 がババールの神が神であるならお前たちは バールに従いとねしかしイスラエルの神で あるならば神に従いとねそのこのカルメル のカルメル山でのこの祈りの対決の中で イスラエルの民がねどっちの側にもつけ ないんです よどっちの側にもつけないんですよね自分 たちの歴史が ねアブラハムイサクブの神すなわち同じ地 をもいとするイスラエルの民は1つの父1 つの神1つのこの血の中で生きてきた イスラエルの民じゃないですかそれが どっちのつずの状況内の中で日を持って 答える神を神としようということでエリア は提案するんですバールの予言者にお前 たちは自らの神の名を呼呼べと自らの神の 名を呼べって言ってねバウルの予言者はは バールの神をバールの神をていうわけです でこのバールの神のバールていうのはね 当時のイスラエルの日たちにはこのバール という言葉の意味はセ語なんですけども主 という意味なんです 主ねイスラエルの民にはしよしよっていう 言葉が聞こえてきたと思い ますしよしよっていうねバオルの予言者が バーリよバーリよっていうこのセ語のシオ しよていう言葉を彼らはイスラエルの民は はあ主なんだ主を呼んでるんだイスラエル の民は神の名を忘れてしまっ たねクリスチャンの中にもあるでしょ主を 感謝しますとかね主を感謝しますという 言葉がよく使われるでしょうあ主どっちの 神様かなてえ何の神のことを言ってるのか な神が相対的になってしまうんですよだ からバールの予言者がバールよ主をしを私 たちに答えてくださいと言ってある時は 踊りながらある時は体に傷をつけながら こんなに苦しい思いをしたら主は答えて くださるだろうというそういう思いで体を 傷つけ ながら主を読んだんですけども答えるもの がいなかったイスラエルの民はその主をと いう言葉で判断できなくなってしまっ たエリアだけがアブラハムイサクヤコブの 神を私たちたの地筋の中に表されたこの神 の名を読んで日を持って答える神を神とし て明暗が分かれたわけ です相対的な中で私たちがこの集まりをし ているあるいは共同体の中でこの朝鮮やか に示されたいのは父が神です本当 にお父さんのところに生きてる間にもう あなたの息子と呼ばれる資格はありません ともうあなたの娘と呼ばれる資格はあり ませんとそして父なる神様のその豊かさの 中で生きると いうこれが神の国父の国エデンの園であ るっていうことを今日お伝えしたいと思い ますそして兄の正しさはどこまでいっても 自分は正しいという しかし兄は父親に行ったこの通り私は何年 もお父さんに使えています言いつけにそい たことは1度もありませんそれなのに私が 私が友達と宴会をするために小1匹すら くれなかったではありませんかと言って ね私のものはみなお前のものだよそれを 全部お前が使ってもいいんだよって言っ てるのにも関わらず自分の痛みには とっても鈍感であごめんなさいこの人の 痛みにはとっても鈍感で自分の痛みには とても敏感なんです自分が失うっていう ことが嫌なんですねお父さんにが与えられ てるものは何でも使ったらいいんでしょう けどもえそれを自分のものとできないそれ は自分の正しさ え人の痛みにはとってもとってももう鈍感 なんですけども自分が痛むことに対しては もうもっ言います人の痛みにははとっても 鈍感でも自分の痛みにはとっても敏感え ですから失うっていうことが嫌なん ですところがあなたのあの息子が小父どと 一緒にあなたの新書を食いつぶして帰って くると超えたこをほっておりになるすると 父親は言った来よ来よお前はいつも私と 一緒にいる私のものは全部お前のものだだ がお前のあの弟は死んでいたのに生き返り くなったのに見つかったのだ試験を開いて 楽しみ喜ぶのは当たり前ではないかって いうこの当たり前をお兄さんは受け入れる ことができなかったんです受け入れられ ないままこれが永遠の苦しみ自分の正しさ をどこまでも主張して いくそういう動きになっていくということ を覚えたいと思うわけなんです生きてる間 は本当に幸いです何が幸いか分かりますか 悔い改めるということができるからです そして生きてる間にお父さんのとろに 帰ろうと言ってお父さんの豊かさの中に 帰って行きそしてこの父の祝えを受ける 幸いを得ることができるわけなんです どうぞこの父の心を知っていただきたい あなたを失ったという父の心を本当に共に 共有し愛する1人ごさえも惜しまずにこの 地上に送ってくださった父なる神様のその 思いはあなたを何としてでも返したいと いう そういう思いで自身の国に帰っていきたい と思いますお祈りをいたし ます恵深ての父なる神様あなたをお父さん と呼ぶ栽培を心から感謝をいたします 私たちはお父さんの子 ですお父さん以外に神はいませんあなたの 元に自の国に帰る時までエデンのそに帰る ところ時までどうぞ私たちを育み守り支え てくださり父なる神様の愛の中でこの地上 を歩みその祝園に預かる幸いを得させて くださるようにイエスキリストの皆によっ てお祈りしますメン

You may also like

Leave a Comment