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『益田の石見神楽の歴史と変遷2』

by ANNAPOST



#石見神楽
[石見神楽の日]制定記念シンポジウム『益田の石見神楽の歴史と変遷』

登壇者:錦織稔之(島根大学教育学部 準教授)
    恵木勇也(御面屋恵木舞工房)
    神田惟佑(石見神楽保存会久城社中

会 場:グラントワ多目的ギャラリー
主催:Masuda石見神楽WEEK実行委員会
後援:益田市・益田市教育委員会
協賛:益田市石見神楽公演事業実行委員会   
撮影/編集:スタジオヤング

[音楽] え皆様えこんにちはえごの中ですねえ多く またあの聞きに来ていただきまして ありがとうございますえ年からえ初めてえ シンポジウムということで開催させて いただきましてえ先ほどご紹介にありまし たようにですねあの日本遺産岩神楽にえ松 この岩地方の神楽が日本遺産にえ認定され ましてえこの日本遺産というのはま文化財 保護というのがえ主題でありますがただ ガチガチに古いものを保護するだけでは なくてえいろんな観光だったりいろんな 進行にあの活用しつつその結果文化財を 守るというようなあことがありますのでま そういったえ流れの中でですねあのこうし てえお話をしてえ闇カというのをあの深く いろんな角度でえ知っていこうというよう なところでえ開催をしてございますでです ねあまレジメのお手元にあろうかと思い ますが大体こんなような流れですが えまシンポジウムと申しますがあの肩の力 を抜いてですねあの角の方をちょっと 語り合っいきたいと思いますのでま脱線し たりえ飛ばしてしまったりがあろうかと 思いますがえよろしくえお願いいたします えじゃあ本題の方本題の方にえ入らして いただきたいと思いますがまず最初にです ねあの去年の公演えシンポジウムの内容を 踏まえて入らしていただきたいと思います がえ昨年はですねえ渡辺智代先生と言い ましてあの中国地方の神楽談話会の会長を されとってえま増田のえ在住の方で地元の 先生ですが神楽の研究の対価でございます えその先生をお招きいたしましてえまず あの神楽とはえ本質の部分ですね増田のイ 神楽がテーマなんですがそこに行くまでに はイ神楽とは何かそしてえ神楽とは何かと いうところからえ入ろうということでお話 をいただきえいただきましたのでちょっと その荒まだけえ代わりにえ代弁をさせて いただきたいと思いますがあのまこの島根 のここは増田でございますねでで神楽が闇 全域になりましてえで中国地方にえ様々 神楽があってもっと広がりますと日本全国 津浦えま本当北海道からですねえ本州 鹿児島まではあります沖縄は少し文化県が 違いますが全国にえ神楽がありまして それぞれの地方でえそれぞれの特色を持っ てやっておりますがまそこはちょっと広げ すぎますので一応中国地方のところの特徴 ここが大体え同じような文化権になろうか というところでお話を伺いましたで えま神楽の紀元というのはあの皆様ご承知 のことかと思いますがえ神倉という言葉が あってえ神がそこで降臨をして祀る場所

この神倉という言葉が転じて神楽になった という会社がございますで神話の世界に おいてはあの天野岩と神話でですねええ 天康神が岩にお隠れになった時にどうやっ て出ていただこうかということで天野うの 見事がえ舞をえ奏でたこれが神楽の期限で あると言われておりますがまこれは神話の 話でございましてえまあの我々人間社会の 現実的なえ歴史はどういうことかっていう のがまあのひいていかなくてはいけないん ですがえどうしても闇神楽というかま神楽 と言いますと皆さん今1番その何のために するかでイメージできるのがまず5国法条 とかですねえ内子繁栄とかああいうところ じゃないかなと思いますがえ実は え元々はそれが本題ではなかったというお 話をえ伺いましたえというのがこの中国 地方に共通する中にあの公人信仰というの があって えいわゆるですね皆様が神社で今待つ土と に神社が神様祀られておりますがえその そういった形式が整う前に 神楽というのが大知軍から吉島にかけて ございますしえビゴにビゴに行き ますと公人被公人神楽なんかもまさに公人 神楽ですねそして出雲神楽も公人を祭って という風にえそういう え進行があってえこれはですね五国法上で はなくてえ昔は今医療も発達してござい ませんのでえとにかくカジと祈ることしか ない今よりもっと深刻にねあの精子に 向き合うた時にはそういうあのなんとか 言いのってというような気持ちが強かった じゃないかという風にま想像できると思い ますがあのその中で魂をなんとかこう弱ら ないようにえ死んだ魂をこう蘇らせるよう にというまチコえ魂を沈めるまたはえとう 昔上土神楽と言ってあのお葬式というか友 のための神楽もあったようなえ こともあるそうですなんで貧困そしてえ 病気になったり悪いことが起こる何かって たらこの悪霊の仕業ではないかとこれをえ 沈めそして送るえ昔の古い遠目で言うと鬼 を退治するのではなくてえ神楽ご存知だと 思います血だとかああいうところはあのま やっつけずに命を取らずに許すそして 高千穂に行きなさいと言いますがま送るえ そういった方それからそれからですね強制 型と言ってもとにかくやっつけてえ退治し てしまうとまこういうようなあの神楽が 遠目がありますがまそういった形でですね あの五国法上ではなくて えチコ魂祈りの神楽というのがえ元々では ないかという風にお話を伺いましたえその 中でですそれを伝えていたのはえ恩名字

だったりえ手元者ですねま皆様あの隠名寺 安の生命ええご存知だと思いますがああ いった形で長底で本明寺が活躍していまし たがその後調定からあの解散になりまして 地方に散らばりましてで山星だったりえ隠 名字があの各地であの活躍をしていたん ですが先ほど言いましたとにかく祈って 家事等で悪いものを収めようという祈りの 中でそういう山星だったりえ隠名にあの そういうところを委ねられたというような ことだそうでございますえその後ですねえ 江戸 時代そうですね遡って吉田新党などでです ねあの新党日本の今の皆様あの神社に 関わるお祭りの形というのが作られていく 中でえ山そして手元者隠名だったような人 たちがですね神主新色というえ立場になっ ていきそしてえ神社ができてえ明治になっ てあの今の新党が形作られていくえそこに 順じて神楽の形も変わっていってそうする とですねあの新党においてはえ秋祭りだと か霊体祭においては母国法上やっぱり子孫 繁栄だとかうこ繁栄そういったところをえ 祈願いたしますのでそれに順じて神楽も 行われますので今はイメージ的にはそう いったところになってきたというなまあの 大まかな流れはそういったところであの話 を伺ったように思いますそしてま増田に おいてはあのまえ智代先生は三面の出身で ございまして三面あたりの神楽だったりは あのえ今のイ神楽の形より古い形を少し 残しているよとそういうようなえお話を 伺いましたであの本日はですね え手元道からこう浸透が成立してきて今に 至ると言いましたがこの新色がえ神楽をし ていた時代えまその後この後深掘りして いきますが新色がやっていた神楽が後に 民衆に移っていくわけですが江戸時代の 後期今から210年前と伺っておりますが その時代は新色神主さんたちがえ神楽をえ 奉納してございましたのでまその辺の ところを今日は詳しくやっていこうえ流れ としてはそれより前の話を去年しました 今年は新色時代の神楽をしましょうという ようなあテーマになっていきますのでえ その辺りであのご承知を来ていただきたい と思いますでま一応おさいということで 去年その後はあのカグラボのえ増田の神楽 のえ今の取り組みをお話をいたしまして 最後にえま日本遺産とは何かというお話を いたしましたがえまあのそういうかえ すごく昔の話は置いとってじゃ今の神楽に 至るにはやはり大阪万博というのがえあり 前の大阪万博の時にですねあのえ岩神楽の オロチが波立て初めて繰り出せましてま

実際13等でしたがえそこでえ共同芸能と してあの人に見て喜んでいただく芸能に 発展したというような流れがあってでまお 祭り法文化財保護法というのはお祭りあ 文化財保護法というのはですねえ文化を ガチガチに守っていこう形を改ずに 伝えようえ民族文化罪無形文化財に指定し てというような形そしてお祭り法というの は強度芸能を活用してあの観光に発展させ ていこうという流れまちょっと対局にある 同じ神楽を扱うあの強度芸の電動芸の扱う んですが対局にあるこの2つの法律があ ありましてでえそのバランスの中でですが この日本遺産というのはこの両方を活用し ていこうという流れがあって日本遺産と いうのができたのでまそうした流れの中で え古い話え本質的な話とそしてえ未来に 向けてのえ伝統守るだけではなくてどう 現在に向き合っていくかというような ところを考えていくというのがえ日本遺産 になったイ神楽の今を考えるで重要じゃ ないかというようなところではないかと 思いますそういった話をま去年いたしまし たのでそこを踏まえてえ今年はですねあの 新色のえ神楽の動きを大変あの詳しくええ 研究をされております西高先生の方にその 江戸時代え末期のところの稲神楽の姿え そして増田の岩神楽の姿というのをえまず お話しいただきたいと思いますはいそれで はあの西先生の方から今度え文化年間です ねあのところをちょっとご説明いただき たいと思い ますはいそれじゃあの先ほど紹介いただき ましたえ島根大学の西光と申します今日 よろしくお願いいたしますえっと私のあの 元々歴史学の方からですねこの神楽研究の 方に入ってきましてま特にあの今の神楽の 母体となった江戸時代の神楽を中心にま あの研究してきた人間ですただまあの今 まで出雲とかですね沖とか岩見についても 大出ぐらいまではかなりちょっと江戸時代 の様子のこともま調べていって分かったん ですけどもまだまだまなことはこれからと いうことで今回そのきっかけになればな いいかなと思ってるところですでまず ちょっとえスライドいくつか作ってみたん ですけどもま一応基本的なことまさっきも エギさんの方から説明がありましたのでえ 重複なってしまいますけども江戸時代の 神楽今はですね神楽と言うとま誰でも回れ ますよねあのやりたい人はねあの神楽に入 車中に入って舞うことができるんです けれども江戸時代っていうのはもうえ神楽 を誰でも神楽を舞うことが許されていたか というと誰でもってわけにいかなくてです

ねね原則として新色のみだったというのが そういう時代です江戸時代はで宇子たちに よるまいわゆるこれあの当時は素人神楽と 呼んでるあのつまりあ新色がいてみればま クロードというかプロというかですねそれ にしそれに対して一般民衆がいることを素 神楽だとま当時の小文字なんかに出てくる んですけどもこれ原則禁止されていたま これがですねま後に後でまた話があるかも しませんけども明治時代になって逆にま 新色が間事を禁じられていって内子の方が それを引き継いで待っていくそして今に 至るあの神楽の時代が始まるのは基本的に は明治以降ですそれまでのえ時代は基本的 に新色のみだったということをお伝えして おきますとなるとですね江戸時代のこの 増田近辺の新色の組ま新色もあのいろんな 組に分かれてやってるんですけどこの組を 調べていくと大体江戸時代の神楽のあの 同じ形というかですね手を持ってた集団と いうのはなんとなく見えてくるていのが あるんですけれどもえっとこれはえ ちょうどですねさっきやりましたけど文化 年間と言って1810年代ぐらいですね 1810年代ぐらいのえ資料を元に ちょっと今紹介してるんですけども え浜田班これは浜田班なんですけどもえミ 組と呼んでましたそういう新色のグループ がま行政もミス組であるんですけども新色 の組もあるま遠て見えにくいかもしれませ んけどもえ中軍の港これは旧三町の方です よねあの八幡宮で野神市え中軍三上一二宮 大名今も二宮神社ってありますけど野神市 なんか1番近い女将の方ですねこれも 八幡宮まこれ野神一族がこの辺ずっと新色 を持ってますあとキですから旧矢坂ですね 矢坂もこの組だしあとえ旧三の黒沢とか 室谷これ辺までがま今浜田になってます けど旧中軍のえ新色たちが入ってますそれ に加えてえミ群の丸もツ旧三戸町ですよね えこはあの丸本については野神市ツについ ては原屋というねえこういう新色これが1 つのグループを作ってましたこれをまミと 呼んでますまミ三角って書くまミと読ませ てですねこれが1つあったのともう1個 増田組っていうのがありました増田組これ まつまりえ全部身軍ですけども大浜ですね キ大浜の田中市キの田中市津田のえ篠田市 東田の大島市男えの堀江市上堀江氏佐倉 これは三戸町ですかね旧三戸町の堀江氏神 田まこういったえ新色たちで1つの組を 作ったこれ増田組ますでちょっとえもう1 つがですね引見組というのがありますえ ひ組これあの住川旧今のあの正引見町です ね藤市とか東村これが引見の一番中心に

なります斎藤市でこっちのえ下本合すぐ この近ですよね中島市昨の間市吉田のえ 増田町のえマシノあママシノかから大谷ね 豊川小学校の仕ですけどの久保千道の草野 でまたこれ引見の方になりますかね広瀬の 斎藤千原の斎藤西村の斎藤まこれがえ引見 組とだてこういう3つの組に分かれてまし たただこの組もですねあの時代によって ちょっと変わってきたりするんですけどま ちょっとこれ一応文化年間の資料はこう いう形だったとこれま分かりやすく地図に 落とすと まこれがちょうどえこれについまず1つミ 組とこういう範囲ですねミとあとえっと あのやも入ってここにみと丸本ツこれが1 つの組ですよねもう1つのえ組となるとま 言ってみれこの辺海岸部とちょっとこのね あの三幹部の方とかねこういうまでもう1 つの引組ってのは結構広くてですねこう いう感じでえまさの中心部から引き行った とこういう感じでやっぱりこのえ引見とこ かなり離れてるので後にはえももう ちょっと後の店舗年間1840年代ぐらい になるとミ組とあとは増田引組で1つとか ですねまそんな時代によってちょっと 変わってくることはあるんですけども一応 え私が確認できたま古い文化年間という 1810年代頃の新色組ではこういう形に なる つまりこの辺では何かお祭りがある時には ま一緒になってですね舞うというところで え今の神楽の母体となった姿がこういった ところからある程度ヒントが得られるん じゃないかなと思ってますでえ増田市の方 の神楽の江戸時代の神楽ちょっと調べてみ ましたら増田における新色神楽の記録まだ ほとんど見つかってませんこれから多分 まだどっかに眠っているとは思うんです けど今明らかになったものとしましては えっと一郎先生というかつの歴史のタガー の方がえまとめられたものに載ってました けどもえ文化4年ですね1807年え当時 は現在の白姫神社は当時は浜八幡宮と呼ば れてたんですけどもそこの裁例のま約束を とですね決まり事規約についての文字が ありますこれちょっと紹介する とちょっと見えますかねえちょっと丁寧に 読んでいくとえま毎年のこの串白姫神社の サレではえ同日これは8月15日のこと です今今9月15日ぐらいですかねえ1月 旧暦ではこの頃や同時8月15日にえ進行 ご信仰ですねご信仰が愛住み木ね神社に 戻ってきた後小達寺あ当時はですね新物 集合ということでえ神社のお祭りにあのま そこ管理してるのは小達寺と言って小達寺

っていうのは今のえっと今の岩勝神社です ね松松田東高校の隣にありますけどねそこ がにかせ小達寺というお寺がありましたえ そこ小達寺がこの串白姫神社をま主あの主 に管理してましてですねえ小達寺並びに 社窓装ま僧侶がえ釣り屋釣り屋っていうと ですねあの本殿との間の橋のような場所 ですねだからえ進行からあのご進行から 帰ってきた後にはえ小達寺の僧侶とあとえ この白人浜八幡宮をの管理を任されてる 社窓武装というま僧侶が釣り屋にて大兵 そして度胸経を読んでるんですよね経読ん で度胸をと愛務めですねそして一方ではえ マのえマシの影ゆこれがハデにおいてのと そして腹江塔をあめだから同時に神物集合 ですからねでそして愛務めその後えマは 倉之助久保家門中島大隅同所において神楽 え執行をいたすべきこととという約束こと でまこう見ると新色がえマの影由1234 人でまうですのであの大体今あの神楽の ノマですよねあれはま今毎年ね回れます けど神社の裁例では当時はあの式年の数年 に1度とか仙宮の時とかそういう時ぐらい しかあまりそういった脳前はしておりませ んでしたなのでこれは毎年の裁例ですので 毎年のサレはま新色4人ぐらいでできる ことですからまあ使払いとかまか村余人と かですね ぐらいだったのかなともうな笛と太鼓とか いう形なんですかねやっぱりそうですね そうですねうんこれなんかもさっき見て もらっ たこれで言う と増田町の米場の雨の岩勝神社のところに いるあのマシノという新宿それからえっと 大谷久保でしたね久保から吉田のマはもう 1つあ中島か下まこの通りのメンバーが 集まってやってるっていうことでだから なんとなくやっぱりこういった組でですね 一緒になってあの神楽をやってることが よく分かってくるかなという1つの記録 ですま今とこれはあの矢郎先生がえ見つけ られましてですね増田長子の下関これ 1952年に観光された古い本ですけども それに載ってますま現在この現物の資料は あの増田市教育委員会があのお持ちです けれどもねこういう資料にちょっと出て くる まだほとんどこれぐらいしかまだ分から ないとこなんですよこれからもっと分かっ ていくといいんですけどねでじゃあ今後 ですねマなんかもこの江戸時代の神楽をね 是非あの探っていきたいなと思ってるん ですけどもまどんなものが見つかるとよく 分かるかというとま当たり前ですけども

神楽台本ですねエジの神楽台本が見つかる とやっぱり遠目の筋立てなんかが分かり ますんでこれがまず1つ大事な資料です そしてえもう1つこれがあるといいなって のは神楽薬座市長というね後でお見せし ますけどこれがあると演じられた遠目とか 配役とか役者が分かりますちょっと具体的 に言いますとです ねこれあれれれちょっと待ってちょっと 待っ て映ったか なつきました ねまえ台本って言ったらこういうものです ねまえ例えばこういう感じでこんな感じで 見えこれは出雲の方の神楽の台本なんです けどもねこれ えっとあのキメとか公人とかまヤってのが 大体山田ののあれですよねまエビスもあり ますしねこんな感じでまこういう風にま昔 のあの崩しで書いてあるんですけどねこう いう台本ここれなんかあのあれですよね 恵比スってビスねこういった台本が 見つかると非常に具体的に分かるんこれ なんかはですねえっと出雲市の方のある あの神社の親族さんのオタで見つけたもの ですけど完成5年というとえ 1793年1793年ですねの神楽台本 ですこういうのが分かるとあ当時あこんな 遠目が回れていてこんな筋立てだったんだ なってのが分かるま一級の資料になります であとこれだけじゃなくてさっきえ申し ましたけれども例えば薬座市長というのは こういうものでしてこれもちょっと出雲の 薬座町なんですけどねあの表紙のところに はちょっと運用ま出雲の感度軍佐浦と言っ て現在の出雲市の大社長の海岸の方の え詐欺者詐欺者という神社の七座ご神事 症状まこんな感じでえ表紙が作られてまし て中身がちょっとまあパラパラっと見ると まこんな感じで え当時やられた遠目ま特に脳のところを見 てもらうと例えばここういうページです ね例えば岩とて感じねで総人がこれはな ちょっと語りを言う人なんですけど富尾 たまきで神役は石塚たしとかですねあと 公人という演目なんかではそうこれはあの ストーリーを喋るそ役ですけども富をもえ でこれは神ですね神を田辺たえアアってま 言ってみれ鬼役的な形ですけどトヤ家紋と かこんな感じでえその日に回れた遠目の ですね薬座市長まこの日のやつ例えば最初 は儀式前的なのがあってここが岩見でいう いわゆる脳前のことをいつもではかあの 真能と言うんですけども最初に悪という 遠目があって次

は柴桑岩戸孝人サダ恵比寿そして三バソが あって最後火崎年でいうジューラに当たり ますけどこれで 以上と終わっ てま右ジジ九段のこと名は7年というと 1770年まそういったこんな感じの薬剤 市長が見つかるともう具体的にあこんな 遠目をやってこんな配役でそして誰が演じ たかてのこの2つこれいう資料が見つかる とですねすごく具体的に分かっていくと いうものですこの頃ってそのま毎年その 真音に必ず薬座市長っていうのはあった もんなんですかそうですね結構あのまこれ 出雲の例なんですけどもやっぱりやる前に あの許可がいったりするんですね許可がね あの神社でけそのま行政のお役所にですね あのこれからこの神宮があったのでえ神楽 をするとまそしたらそのその時にこれ添付 して出してるんですよええやっぱりどんな ことやるかてねあなるほどまだ臨技所的な ことですね要はそうですねなるなでま役所 にも出すしあと新色たちにもこれを配って いってねあの今度時は何を舞うかとかです ね許可をいただくという形ですね1許 そしてもう1つは新仲間でうんお互い何を 演じるかっていうプログラムですねそう そうそうそういうのが残ってこれが分かる とこの2つが特にですねあの分かるともう 大体それだけでも十分ちゃあいらんとこい たかなりも十分と言えば 十分なんですけどこの2つがですねあとま 他にノりとこれあの神社の神さんが今でも ねあのあの読まれますけどまこれがあると 何が分かるかというとやっぱりその日の 神楽の目的が分かるんですよねあ何のため に神楽やったのかってねえ分かるしあと もう1つこういうのももっとあの見つかる ともっと分かるね神楽乳用町これどんな ものかと言うと神楽に用意した経費が 分かるんですねまこういうのが見つかって いくと総合的にいろんなことが分かります ま最後ちょっと乗りとなど は乗りとって意外と残ってるかもしれない ですねええええええええ乗りでまこういう 感じの新手さんこうやってけけまくもと 読まれますよね神社のお祭りの時にねえ 例えばこれなんか はえっとこに円教元年っってありまして これはま細かく言うと1744年これ何の ノりとかと言うと出雲大社今の本殿国王 本殿が建てられた時にその前に神楽やるん ですよ神楽もま式ここで言う儀式前の座 信じってのをやるんですけどその七座の時 のノりとが残ってましてまこれ見るとです ねここに色々ま

え例えば意殿を清め立てまるとかですね あとまこ 放送ちょっと放送天井これはあの天皇の 行成をね安泰とかあと具体的にここに見え ますかね源の 吉宗将軍徳義宗の長寿とかあとまあの当時 の松江の殿様のですねえど殿様のことも出 てくるんだよねどっかねあこっか国手源の 宗信 ゴブ上級ですね長く久しくですねあとま うこのこともね色々書いてあって5国オ みとまあの五国法条ってことですね豊かに 実りととかあと地産繁盛とかですねま いろんなことをまあの先軍の時にまあの 祈ってまそういったところでまあの神楽の 目的たくさんの目的をねいっぱい述べてる んですけどまこういったことがあの 見つかると分かるし最後入用帳も最後1つ これだけ紹介するとま入用帳まいろんな あのタイトルつけられますけどこれは えっとですね大田市の 大田市2町の野っていうところので 見つかったものですちょっと見えますかね 大元舞所持控長大本神楽ですねいわゆるね その時の店舗8年というからま1830 年代かなえのやつですけどもまちょっと ポイントだけ紹介するとこんな感じで色々 書いてあるんですよあの入用調ですから こんなことにお金を使うってことがですね ま1つだけでも紹介するとこれ見えますか ねま当時は新色カですから鮭方集義シ方に 対するご集義ですねご祝儀が5人へ2種 ずつねまそういう経費なんかも出てきてま 当時ま当時あの小番が大体約5万円ぐらい と考えるとこの2主義っていうのは大体 7000円ぐらいになりますんでねま5人 に7000円ぐらいずつ修義を渡してたと ねまそういった あの経費のことがねあとこに神棚 10枚用意するとかまこんなことが分かっ てくるとま江戸時代の神楽がですねま総合 的に分かってくるんじゃないかなという ことでまこういったことをえ今後増田市の 方でもねあの分かってくると具体ねいいな とあのそれこそね我々170ちょっと西 さんにも色々とお願いをして探ってみたり はしましてねあの何かしら口社中の古い ものがないかというようなことでねあの あれやこれやと探しましたけどやっぱり この海辺の地域はあの水害だとかそういっ た関係で えっと詳しい資料はですね残ってないって ことが多々あるんですねでやっぱり あの3幹部の方に行きますと三面なんかは そうですけどもそういったえ水害災害の

あまり少ない地域ということになると やはりそういった資料であったり顧問除で あったりそういうものが残りやすいという いうところからえなかなかあの改編部の 社中はあ昔の詳しい資料歴史が全く本当に 見つけられなくてですね本当にあれやこれ やと探し回って えそれこそ社中は先ほど出た下本郷村の 中島大隅神主から習ったというような歴史 場からですねあの中島県というのがまだ あるですよでそちらの方にもちょっと 当たってみたりしたらやはり水害でクが 流されましたとかあというようなことで やっぱり何にもこう見つかってこないと いうようなところでですねあの本当にこれ がなんかますにねどこか残ってたらなと いうようなこともあの我々としても探して おるところもありますのであの皆さん方に えちょっとここを調べたらいいんじゃな いっていうのはとことありましたらですね 是非また教えてもらうこともですねはい 大変ありがたいなという風に思っており ますのでよろしくお願いいたしますあの 新色組が組織して神楽をしていたという ことでしたけどもあの今は地域ごとに神楽 中がありますよねで地域の人がやってる けど新色組時代っていうのはあの広範囲の 広範囲ってかま組の範囲の新色さんたちが 一同に集まってえ奉納をしていたってこと ですかねあの今地域のうこがありますよね それぞれ単独単独でそうですねただ新色 時代はあのそのミ組ならミのまう今並んで いた新色さんたちがうんまあ今でいう神楽 社中のような形であのメンバーで奉納して いたというようなイメージそうですねだ から基本的に毎年はできないんですよほぼ 毎年の秋祭りって言ったら重なりますよね 1日次いとかそうするとなかなか集まれ ないからやっぱり式年ですよね数年に1度 とかあと仙宮の時とか特別な祈願とかです ねそういう時にしかなかなかやってないだ からまあ数年に1度のうこにとってみな 楽しみでもあるはいはいそういうカラです よねあのやっぱ大元祭に残り3年5年7年 って多分え6年そういうことなのかないう 気はしてますよねまどうもイメージとして 大本神楽は大本神楽で毎年の方のは嫌六 長子っていうイメージが合うんですけど 元々ま内子に移ってからですね毎年社中が 放するのはなんでま元々は大本神楽のよう な形だけが奉納の機会だったっていうこと でしょうかねま基本的にはそうですねねま 一応細かく言うとあの出雲にはあのサ新の ありますよねあいったサ神社かかなり 大きな神社なんですけどあそこはやっぱり

毎年やってますねだから相当 大きな神社じゃなければ基本的には数年に 1度というのがやっぱり江戸時代の様子で シチュっていう言い方も元々新色の仲間の ことを社中って言うんですよそれが結局今 もね組に引き継がれてねあの集団のことを ですねええまそういったとこにも名残りが ありますねなるほどあとまノとですねノト のま神楽の目的が分かるっていうまあの 神田さんはま新色でもいらっしゃいますが あののりとっていうのはあれですかあの いつもえ決まった言葉を言うんではなくて その祭り祭りであのそうですねその祭りお 祭りの目的によってやっぱり内容は違い 書いていくあそうするとやっぱそのその時 その場所でのそうですねものがまそれぞれ 違うもちろんそういうことはいだからその 祭事のま自祭ね春行祭やっぱそれごとに えっと中身ノりとの内容は違いますしま もちろんね似た言葉はいっぱい出てきます けどうんその期間するものが違うので やっぱりねそのお祭りごとにやっぱり違う と思います神社のお祭りも春祭りもあれば 夏祭りもあれば秋祭りもあればっていう ことでやっぱそれぞれにそのなぜこの時期 にお祭りするのかっていう意味が違うので うんそのそれごとのやっぱり意味のある ノりとを皆さんあげておられますよねはい なるほどまその辺から探れるけどまだまに おいては資料が乏しいという現状であると というよりもなかなかこうまだみんなが そこにたどりつけてないというのも現実な のかなとは思いますねだからこれを 呼びかけてえみんなで一気にちょっとそこ に向くと早いかもしれませんねままさに こういった機会でですねああに そうそうそうそうまあのこの後多分動画の 配信もありあると思うんですがまこんな そんなきっかけになってまたさらにま 紐解いて新しい歴史が分かっていくといい ですがはいもねそれのために今回ね西先生 をあの呼びしてあの増田の研究もですね1 つあの含めていただけたらなと思ってる わけでございますよろしくお願いいたし ますまじゃま新あの新あの江戸時代末期の 新色時代のことの荒まをあのお話し いただきましたがまそれからえ時代が下っ てえ新色からあの明治にですねえ新色明治 の初期にえ新色がえ神楽を待ってはいけん という風になっていくわけですがまそれは なんでかというとま国家国としてま新党と いうものをえ中心にえ大事にしていこうと いう中でま新色がですね暗いが高くなって いって え歌ったり待ったり踊ったりしたいけんぞ

ということであの禁止をされていきました がまえそうした中でま民衆に移っていきえ 各神社ごとのえう子たちに移っていきます えそしていろんな地域に神楽の社中ができ ていったわけですがえま増田のえ現状の今 の団体 えのま歴史だったりその辺をですね ちょっとお話しいただきたいと思いますが まあの えま神和会の所属団体を中心にそうですね ちょっとあの全部が全部をあの我々モーラ できてないところもあるもんですからあの 今日はちょっと一応あの新和会所属社中の ですねえ大体の発足期限であったりえもう はっきり発足と分かる社中さんのは発足と いう風に書かしていただいておりますがあ その辺をちょっとご紹介をさせて いただければなと思っており ますは後にしましょうかはいあのパ ポイントのやつを出していただけ たらそれじゃないなあそれじゃないパポ PDFかPDF のはいこれですねはい えっと新話会の所属社中今現在11社中で ございまして えま上からあのこれ一応一応歌われている 古い順番に並べておりますがあ1番上の釧 神楽に関してはあ効果3年1846年頃に え発足の期限があったという風にされて おりますでまこれも先ほど 西さんからあったようにあらこれあの さっきのあれ話をしたでしたっけ下見って いう話をしたんでしたっけまこれはして ないんでしたっけはいあのまこの発足期限 にはですねあの先ほどの新色神楽からあま 新色神楽が次第に え民間にと移っていくわけですけども大体 この効果3年頃先ほど申しましたあの釧路 社中では下本合村 の中島大住神主があ内子たちにに手伝わせ た要はですね神楽を当時はあのまもちろん 新色が舞うだけどさっきみたいにあの組で 言ったら本当に数人4人5人ぐらいしかあ いないとえそういったところでえノマ なんてやってくるとですねやっぱ10人と かぐらいの人数が必要になってくるわけ ですねえそうなってくるとその神社のえ要 はですね数計の熱い内子さんのことを下見 という風に呼んでたそうなんですがあその 下見さんにええ伝授をしてえ神楽のお 手伝いをさせるというようなことがあった ということでございますでそこでえこの 高家3年のこの頃に え釧 の時期住民の方に下見にえ教えて回したと

いうのがこの発足期限であるという風に今 我々は掴んでおりますで種神楽に関しても 火6年にえその発足期限同じですねこれも の種下種座というようなところがお名前も はあの色々調べた出てきましてですねえ宇 座からあ派生したというようなところも あってえその頃に下見に え伝授してえ手伝わせたというような あまこれも苦に近いものはありますがあの 残っているということでございますえそれ でえ次に明治頃になりますとと三谷神楽 さんこちらが明治初年頃発足をしたという お話をお伺いをしておりますでこれはあと あの社中さんがですねあの歴史歴史を書い てられるものを私はあのバスして書いて おりまして えはっきりと我々が調べたわけではない ですが丸茂神楽さんに関しては明治20年 5年頃ですね発足したと正子さん もちょうど同じ年代頃に発足をされたと そこから昭和に移ってくる中でえ道川赤倉 さん昭和27年頃発足でこれあの明治40 年って書いてあるんですけどもこの頃に 一旦 あの1度発足というか習ってえ始めたけど も一旦消滅をしたとそこからまた昭和27 年に改めてえ道川神楽として発足をしたと いうことでま発足の年数としては昭和27 年だろということでございますでえ横田 さんもはっきりとはここも分からない みたいですが昭和30年代の発足であると いうことでえこの後く神楽さん昭和の39 年え上吉田保存会え上吉田神楽昭和44年 津田神楽高塚倉昭和48年という風にです ねえこの昭和に入ってからどんどんと増え てきてるとこれは何かがやっぱ昭和に行く につれて えあったんですかね西先生この辺は何か 昭和の頃にこんだけ流星を極めたというか 増えていく期限は何かそうですねまさっき あの万博言われましたけどちょ万博 1970年ですもねあの頃から岩からまた 脚光を浴びだしてはいはい1番下の2つ なんかはそういった時代早もあるん でしょうねそうですかねうんうんうんま そうですねうこにあの移って今度シジから 真事というかま最初の場の神楽から芸能と して発展していく中でま流星を極めていっ てうんうんやはりまこっちでもやろう あっちでもやろうというあの流れえ西城を 盛り上げようねうあの秋松を盛り上げよう ということがあったんではないかなと思い ますがそううんえっとあとそうですねま 一応新和所属ですけどさっきの京風の図を 出してもらってもいいですかそうですはい

あのこれ昨年あの渡辺智先生の方からあご 提供いただいた資料でございましてえこの フですねこれなかなかすごくあの大変貴重 な譜でなかなか見にくいもうちょっと アップはできればいいかなと思いますが えっと はいで見るとまずあのM8ですねこれま 明治8年とあ読みあの確認してください あのでSが昭和ですねうんでなのでまずは 犬というのが出てきますねえ今のまミ町の イですねはいでこの流れからずっとあの 別れていってるとこ27明治27年ですね はいこの頃からあこれはこのまま行くと種 さんに行く行きつくわけですけどもはい この辺に電波していってるということです よ ねですねなのでまあのま新和会所属じゃ ないですかあの歴史のあるえ梅月だったり 棚だったりえそうね梅月さん でこの中に釧がないですねないんですねで これをあのそれこそと先生にお伺いしたら 釧はなんか全然違うところから来とるんだ みたいなことは言われとってそれ詳しくは 全然教えてくれないのでもしかしたら知ら ないのかもしれませんく教えてくれないん ですよじゃどっからなんですかて言ったら なんか違う話をし出すんですよねいつも それを知るとな俺それ 知なるほどそれを教えてくれよてただま 先ほど言われた下見みそうそうもうなんか チなんだという話はうんさされてましたね なのでま民間にま新色から直で民主に下し たというパターンもありますが下った民主 に降りた神楽がま芸能としての電波でこう 伝わってきたいう感じですかねそううん 確かにそれから広がりをはいがあってま ツワノの方まで行ってますねそうですね ツワノの方ねアキと川はえ あねはいこのまでってる結構あのうじって いうねキーワードがあってうが古いそう ですねあのなんかううえっとだから井から うえまこの辺にうじなんですねここ明治 33年のところはねでそこからあ色々 いろんな派生があるということですねなの で結構ウジの流れっていうのがあるけども ま今は宇では神楽が電子はもうえてるない ですねまそれの景とかね継承されてるのの が種さんであるんじゃなかろうかというお 話でございますねでまここにま三面もない ミカも古いですがみずもないのはこの流れ とやっぱ違ってそううんやっぱりあの石生 もう少しあの山口の流れだったりとか あっちの方のえ流れがあるんでただまその 影響も芸能としてはこっちに電波はある じゃないかなっていう風に思いますねそう

ですあとまえこの中であの一応文化財だっ たりだとかの指定のものていうのはどう いうそうですねあの先ほどもうちょっとお 話がった昭和の44年でしたっけえっと 大阪万博多分ねそれを景気にですねやはり えっと読神楽も文化財を継承していこう 残していこうというようなことで えこの辺は行われてることだと思いますが あの今増田市における文化財の指定がこの 神楽におけるですね指定がこれ辺になって おりますもし足らんことがありましたら 大変申し訳ないんですがえっとこれ文化財 化にちょっとご確認をしていただいてこう こういうことだということに聞いており ますので多分正しいことだと思いますが えっと有文化財としてはあ2つ釧神楽の木 面7点これ昭和46年まちょうど本当ね あの万博が終わった後に文化財に指定をさ れてると で三面神楽堀面22点これ平成14年に なってますけどこれとあの増田に増田市に 合併した時の多分年代だと思いますなので え引見町で指定されたのはもう少し古いん じゃなかろうかなと昭和の時代ですよね 先生多分ねそうですよねじゃないかなと いう風に思っておりますえそれで え増田市今の現現ね増田市の中で行くと 島根県の向文化財として三面神楽さんで これはあの三神楽前ということで全体的 神楽全体的三面の神楽全体というものでえ 昭和50年にえ指定をされてるという ところですえそれと増田市の無形文化財と してえ釧神楽が釧神楽舞としてえ昭和46 年にえまお面と同年にですね指定を受けて おりますえそれと種神楽さんにおいてはあ 恵比寿正記この2目を昭和の52年にえ 向け文化財に指定をされておられますでえ 三谷神楽さん丸本神楽さんえとこれは ちょうどね昭和56年三戸町の時代に指定 をされて県あの増田に合併されてから増田 市の武部課という風にえなっております そしてえ引見の引見神楽さんと三神楽さん これそれぞれ4円目ずつ 引見神楽は神楽柴正神海ジラとこの4円目 が昭和57年にえ引見の指定を受けておら れるとで道川神楽さんに関しては塩払い 余人切り目道返しねえがあ平成12年にえ 指定をされているということでも今これは 全てあの増田市の指定の文化財ということ にえ神楽におきましてはなっております はい はい増田の荒まですね大体よくあのえ 分かったんじゃないかなという風に思い ますがえっとそうするとまそれぞれのあの 得意分野のお話をさせていただきましたが

まこれからちょっとまあのザックバランに ちょっと神楽のえとこ深掘りをしていき たいなと思うんですけどえっとそうですね まずはめまこのレジュメに乗っ取っていき ましょうかあの木彫り面からわし面へと いうことですがま新色時代の面というのは あの木彫りのの面であったということで西 先あのどんなようなあの面が伝わっていた んですかねあの ええちょうどこれが三面三面神楽の面か なですねあのどの辺りが新色新色時代の面 になりますかおちょっと拡大ししてあの立 からを当たりですかね あのすごいですよね立をですねあえ ちょっとあの字が見えるぐらい大きくでき ますかね石州引き引き組とかさっきあの私 ので話した新色組つまりその石州あのあの 面のですねタからの裏に石州引見組八幡宮 これあの東村の引見の 八幡宮のことですけどもねまそういった ことが明記してあるのがな3点ぐらいある んですよねまず1つこれとかその下もあっ たかな大さかなんかの恵比寿大国の面あり ましたねはいはい はいああれば違うかあ違うか な分球2年と書いてあります ねなのでまもうそうですねずっと全部 木彫りの面ですね元々そうです ね木の面の かなりま基本的に明治以降は張子の面が 広がりますもんねそうですね木彫りの面 ってことはもかなりま江戸時代のものの 可能性非常に高いということでま特にあの 一番左のえ大国さの面ですけど裏に木所で 分球2年 1862年明治震の6年前ですね江戸時代 ですねこれもね爆発まこういった面なんか がねこれ三面神楽ですけどもねあの使われ てます あの新色自体の新色引き組の新色が待って たものを電磁を受けてですね三さ明治27 年頃にですねあの新色から斎藤家というま 引見組のあの引きの中心の八幡宮の新色 から習ったということですのその時にま こういった面なんかも一緒に引き継いだと いう可能性がねありますねなるほどで今日 あの持ってきていただいたですけどまず あのま文化罪あの指定になっております けどそうですね後ろの先の斜面の中のうち のこの辺りの面の由来みたいなの由来はね 本当にこれはとてつもなく定かではない あの話もなくではないですねとてつもなく 定ではない話なんですがえっと個人のねお 話によるとえ江戸の末期頃に中国の商人 からあ受けおったというような勝ったと

いうねはいあのお話を聞いておりますがと いうことはあの新色さんが掘ったとかでは なくて中国伝来のだということだそうです よそれはほととてつもなくさないですじゃ ないねええただま形まこちらは確かにま 異国情調はあるかなという感じですがそう です ねこれこれもそう同じ同じ同じですねあの 一の面ですこの辺りになるとまカグの面相 と少しにってくるうんでもこれあの ちょっとえっと復元をね方面の復元を復元 というかレプリカをま文化の面をなかなか ねずっと使い続けるともう見る影も なくなるのでちょっとレプリカを作ろうと いうことで着しの面をこれを一をあの木彫 名主さんの方にお渡ししてえこれと同等の ものをお願いしますということで頼んだら この木は日本の木じゃないねっていう風な ことは言われてました確かにはいはいなん で今これと同じ木を使おうと思うと相当な 金額しますよっていうことは言われてたの で多分これ日本の木じゃないなっていうお 話ですそうると中国いうこともではあるか もしれませんそう重さはどうなんですか 軽軽重さはね軽いです軽軽いあのこの多分 皆さんは予想するよりかは軽いんじゃない かなと思いますねそうですね鬼の面は割と ね重量感あそうですねねええあと今日あの ちょっとお借りしてきました三谷社中さん に伝わるあのこれジューラの木彫りの面 ですが え今日ちょっと三谷の方これあのちょうど ねどれぐらいのあの部長さんが三谷か 先ほどご挨拶いただい たどれぐらいの風に伝わ伝え聞いておれ ますか ねこれもですねあの神田さん言われるよう にとてつもなく全く分からない話なんです けど えそうです ねもう僕の前の前の代表もその詳しい経緯 が全くわからずもう伝わっとる希望面です ねなるほどもう後ろにあのえっと名前もは 目も入ってませんがまあのただ見る ちょっと私のまあの浅式で言うとですね ツワノの方にですねあの同じくえ形がもう ほぼ同じような肌色の面がありましてあれ もやっぱあの江戸の時代の面で多分作者 じゃないかなと思うんであの面をみめて みると結構特徴が似てましたねそうなん ですよねなんでまその辺は面じゃないかな と思うんですがえっとこれなんかもあの 相当古い面今日貴重なお面をいただきまし たがこれはもう本当素朴な形でですねもう あの顔のま絵というか祭式がもうなくなっ

とるので昔昔の人がもう眉をかき髭をかき ともうあの買てに屋さんに怒られるような 顔付きにはなってますけどもうこれを今で も使用してますはい大事に使われてると いうこと1回割れてますが補修をした後が あり ますまこの辺りをま大事に今まであの伝え られとることであのよくあるのがです上 からもう塗ってしまったりだとかあの上 から張って補修するというあの修理の仕方 で元々の顔が分からなくなったりっていう ことがあるんですがあまそのでも一点もと いうか同じ形がないあの面の世界でそれ からまま私ちょっと面をあのやっており ますがあの明治からあのワシメの方がえ できてきて木彫りはま1つ1つ掘りますが ワシメンの作り方というのはあの同じ型を 抜いて同じえ形が数多く量産できますので えその中でまあの今の皆さんが思われる ようなあの神楽ラメンのイメージというの が多分あの作られていったと思うんですが まなのでまこういったものをねあの構成に 残すいうことでさっきあの神田さんも言わ れましたがこれを修理するのも修理して1 つあのこれを使っていくのも1つですが あのもう1つはあのレプリカを作ってと いうことで あのこのジラのあのこの面ですけどまあの 一昨年ですねあのこの面をなんとかあの 使っていきたいんだけどもボロボロで限界 ということで相談を受けましてあのワシの 面の方で復元をいたしまし たでまちょっと手前みそながらこういった 形でまあのこれはワシ面わしえ張り子の 薄い面でこちら木彫りなんですけどまこう いでなるべくまあのその思いをなるべく あの崩さないようにあのえなるべく充実に 再現しようということでま頑張ったんです が少しま故障古いようなあの形にしてです ねあの復元をさせていただいたんですがま あのこういったお面の形を崩さずにえ伝え ていくということでま私の方もですねま あの名詞としてはあの力を磨いていかない といけないなと思うとこなんですがま逆に こうしてあの形を変えずに残していこうと いう心出しを持ってあの社中さんの方がえ 伝統大事に守ろうということであの 取り組んでらね本当にあの反復いたす ところだなという風に思います少し紹介を させていただきました がはいまなのでまそうですねあのもちろん あの和し面になる経緯というのはあの今日 は詳しく触れませんが発長子ができて神楽 のスピードが上がっていったりあの衣装が 重くなったりという中でえ重たい木彫り

よりえワシ面の方がいいんじゃないかと いうとこで生み出されたというお話もあり ますがもう1つはですねやっぱり量産です ねえ1つ1つの面を掘るというとこからも 神楽ダもたくさんえできていってま先ほど マダの神楽が団体がたくさんこうえ生まれ てきたようにえ神楽の車中も増えて団体も 増える中でま1つ1つの木彫りじゃなくて 多くの面を作らんといけというま背景も あったんじゃないかとという風に思います でその中でまあスの飲みことはあの顔とか えハニはあの顔という風にえま同じような あのえ顔がたくさんえできていって闇神の 今のイメージについていくまその中でも 各々のえ車中の色をねあの出していこうと いう流れですがま大体そうですあで そうそうもう1つこれ えこの面ですねこれはですね修理ですえ もう本当あの昔ワシのワシで作られた最初 のゴロの面じゃないかなという風に思い ますがこれはもう表面が本当に剥げて しまってえもすごかったですよね使えない ということでまいろんな選択肢の中でこれ は修理という形になりましたがえこれ なんかですね何枚顔がったですそうなん ですよこれあの修理をするのに上から上 から貼って塗って貼って塗ってと厚化粧し ていまして1cmぐらいになっておりまし たでなのでそのまま修理するとまた重たい のでえ1回じゃああの最初の形を出して みようということでえ1枚1枚吐いていき ますと大体4枚か5枚ぐらい出てきました ねありましたねはいでそれで全部顔が違う んですよでまその時どういう経緯で顔が 変わっていったのかえ同じようじゃなくて ももっとかっこいいようにしてく れっていう注文だったのかどうか分かり ませんがうんうんえ元々はどなたの作品 あのそうです多分えさ木島1000イはい あたり本当に えあのはっきりと分かりませんがあのわし のわしメの霊名期のえほとワシ面を 生み出した頃の作品ではないかと思います がまあのなので1番最初の顔が出てきまし てえでそこを元にじゃあ え1番元の顔になるべく忠実にということ であの直したわけでありますが年代として はいつなんですかそうですもう明治明治 から対象症あのそうですまただあの さや木島自体がですねま何台かありました のでえうんうんうんあどの台で作ったかは わからないけどそう今となっては水作は できますがこれというのははっきり言い ませんがでうんうんやっぱそこで難しいの が今今イメージあのもう今使ってる面です

よねそれでイメージがついていってハで元 の顔に戻すとイメージが変わりますんで はいそれで愛着がある顔から変わったなと なるのか本こうだったなねとですそうなん ですよあの血の面でもねあの何回 か祭式は直してるですよああこれもですね ですねなので怖いのではい出ませんけど元 たどればはいでったら多分元の顔は出て くるんですよねでも今の現状を崩すのは ちょっと怖いのでさすがにちょっとそれは 要しませんが えねも本当は見てみたいところはあります よねそうですねうんただ剥いでしまうと もう はできませんねこのその辺がまあの社中 さんの考え方によるところまどういう形で あれまあのこちらとしてはえ思いに叶う ようにやっていかないといけないなと思う んですけどまこういってま古いものを残す というものですね考え方というのはもう 本当大事じゃないかなと思いますけどはい あちょっと1ついいですかあの今岩倉ね あの大量生産ってことで張り込みなので今 岩三の社中さんは大抵も神楽麺を自前で 持ってられますよねイモの方はあの木彫り なんですよだからあの神楽団体が自前で 持ってなくてだからあのカメ屋ってのが 経営が成り立つんですよねカメ屋貸衣装 そこであの祭りの時に借りに行くとできつ までしてくれるとまそういうところがいも 木彫り面だとやっぱり大量に作れないだ けど岩かはあのハリコ大量生産ですからも 各社中ごとにも全て揃ってるとまそういっ たところがやっぱ出雲と岩見のその岩見の そういった大量接さできるできたところの 違いですかねそうですねといろんな バリエーションが生まれていってそのカメ 屋っていうのはいっぱいあるんですか何車 かそうですね今だいぶもう少なくなってあ もうかつて出雲市なんかにも34件はあっ てましてね林そうそうあもう今やめられた んですけどねもう大量ですね1回あの歴白 で林木の面をああありましたね回はいはい はいはいまそういった形だったんでしょう ね新色組は新色組で持っていたんですか 飛行木彫りは元々基本的には組でまそれも いろんなケースがあると思うんですけどね 各新色ごとにいくらか持ってる場合もある しその新宿組のトップあの平島とか平頭ま 今でも言葉が残ってますよねこの辺ではね が一括して管理してるとかですねそういう 例もあったりしますねはいあのそれこそ釧 も引き組だし三さんも引き組じゃないです かなんかそのねお面の共通点みたいなのも もちろんどっかにあるんでしょうかねある

と思いますねでま浜田においてもあの新色 組で持っていた面をえ民主に移した時にえ こっちの車中にはじゃこの面をあなんか その話こっていうのがあってま今あの新色 時代から伝わってる木彫りっていうのはま そういうところからま兄弟分だなんかうん いう話題が出ますけどあそこの面とこれは 兄弟だぞうんまそんな形のようですね なるほどでま先ほどま出雲神楽との比較で 言わ出雲まちょっと話題を戻しましてあの 歴史の流れの中で出雲神楽のえからのえ 嫌味の影響というかあの辺はまちょっと あのもう時間も押しまってあの駆け足で いかないといけませんが はいまあの神楽ねやっぱりあの 無ですからやっぱり流行ってのがあります よねさっきあの昨年の渡辺智代さんの話も ありましたけども今一応中国地方で1番 確認されてる1番古い神楽台本とのはこの 写真のものでしてですねこれいつものかと いう と見えますかねこ天勝16年って言って豊 吉の時ないなんですよ1588年荒という アヒ舞言葉ですよねまこういうのがまあの 今でも秋12神義の方でやってましてです ねえまこんな感じでかつてはやっぱり中国 産の方で結構あのこういった手元 者が持ってたものがちょっと面をつけて脳 とかにねしていったってのはなんとなく 分かるんですけどやっぱり1つあの世界無 文化遺産の佐田神社のさ新のというこれサ 神社の写真なんですけどもねままこういう 写真見られたことあると思いますあのこの のオロはまた全然違うタイプのねオロチで えこのサシのがもあの保持している遠目で 大野という絵もありますま元々あの脳に あるんですよね脳にある大野をちょっと アレンジしてですねえサ神社の方で ちょっと作り直した遠目なんですけども これがどこに広がってるかで結構あの影響 の度合がよくわかる間違い分かるんですで このサダこの大野っていうのはえっと一応 時代で言うとですね16ま時代話たけど 1650年頃には松江では頻繁にやられて ますそれがこないだえ2019年だけ3年 ちょっと前かなあのこういう山陰長新法で も取り上げられましてですねえ最も古い 岩美神楽の薬座市町が発見されたというえ どこで見つかったかというとあの津市二宮 町のタバ神社と岩見の国の二宮大きな小宮 ですけどそこのえ新色さんの家う巻という ところでま見つかった薬座市長なんですが ま時代はここにちょっと出てますけど法令 4年 1754年なんですよねの記録内容のやつ

どんなものかというとこういうまさっきご 紹介した薬座市長と同じような形なんです けどもこれ見るとその 1754年ののえゴツの千田というところ でやられた遠目がねざーっと出てくるん です薬剤書ま最初の辺はちょっとあの儀式 前なので分かりやすいところで紹介すると この辺からが分かりやすいかな えノマなんかではさっきの村人があって 切目があってこれ8万なんかありますよね で天外とかオ神おろしみたいなのがあって この次のページかな こ見てみると恵比寿がやられてます天人ぱ 今やられてる神結構あの脳がねありますや これが今のオロチになりますねでジーラも あってここにさってあるんですよねだけま 本当さしのの影響というのはやっぱり こっちの方に来てるというのがこっからも やっぱ伺えるかなあと黒塚とかですね千島 今やられてない目もあるんですけど岩とか でえちょ最近ちょっと分かったんですけど も出雲市の方でこんな薬座町これ本当に1 枚の紙切れみたいなもんなんですけどこれ がさっき映したゴツのがあの1754年で それよりちょっと数年前の出雲市のあの 新色の家で見つかった思うんですけど さっきとほぼ同じ地島もあるし恵比寿も あるし黒塚の足立原ジュラまやってて かなりやっぱり横の繋がりというかですね 影響があってるんだろうなだから多分 1700年代っていうのはやっぱりいつも の方から脳の影響を受けてすごく脳の様式 のねストーリー性のある目がやっぱり岩の 方に影響きとるだけどその後岩見で改革が 進んでいって1800年代明治以降ま すごく力勢力がねあ広がっていてまた逆に 出雲の方にもまたオロチのね演出とか影響 を受けたりとかやっぱり無形ですので時代 時代によってあのいろんな影響をし合って るってことがぱこの神楽あの歴史の いろんなこういった資料をえ目にしていく とですね分かってくるまそういった一例が ねなるほどなるほどそうですまあの佐田新 のっていうのでま演劇的な神楽というもの 形で作られたという風に言われてますけど ねでもま佐田新のジューラなんかはどうな んですか佐田新王にない日崎はないですよ ね今はないですねただその江戸時代の記録 だとやっぱり松江の方ではやられて演じ られてるんですよね1650年代ぐらいと いうねうん時代によってまたねあのもう やめていく上もちろんこれ出雲市で 見つかったものなんですけど出雲市では もう地島にしても足立原にしてもやられて ません黒塚ですよねうんだからやっぱ

ちょっとやってま数年でやっぱりあまり 受けなくなったつうかねやっぱ違う遠目に ね変わっていくっていうかあそれはある でしょうね本当にねうん最初あのアヒ舞 言葉ってやつ紹介しましたけどあれは 北広島町のねやつであの頃にはあの辺で 新平なんかのエかすごく流行してそれが 岩美の血とか出雲の山の神にとして今営業 で残ってるんですけどもそれがやっぱり あの辺でその後神楽あまりやらなくなって 江戸時代の終わりになるとこ岩見神楽が 入ってくると時代によってね無形ですから あのねここがルーツっていうわけじゃなく て色々営業しやってね変わってくるって いうあのねその時代ま一方で広島の登場 ですよねあのこのビンゴの辺りの台本が あの古いのが残っとってえこれが半分4年 なんで1600年代ですねでま佐新王が できたのは1630年でそのビンゴ登場の 台本が見つかっとんですけどこれが 1664年ここにですね えあ1664年じゃなくてもう少し下って 1680年にここに天神とか八幡足立原 黒塚ジラ雪女っていうのが残っとってまサ 新の成立からまあ大体50年後ぐらいなん ですけどこの辺りでもあの山を超えて1番 あのこっちの登場の方でもそういう遠目が あったっていうのもあるんでまま四方発砲 やっぱりこうあの電波があったんでしょう ねえその辺りのねそれこそね今日 あの西先生からちょっと資料いただいてね このヤハタあ導師なんかの中にもある ちょっと先生紹介してくださいせっかくな んでそうですねえっとこれはですねや今の 現在の北町になりますかね北町のえ長尾組 神楽団というとあるんですけどもそこのま 伝承ではですね天方年間というかま 1830年代ぐらいかなその医師5等5等 士が え岩美の釧神楽団より伝承したという風に 伝えられてるんですよねえだからまどど どういう経緯なのかてのなかなか分かり にくいとこなんですけどてここですもんね そうそうそうそうそうそうこのルートって いうのがあってはいあとそういうようなね あの特に1800年代明治とかねあの江戸 の終りから明治書てばやっぱり岩見角だっ てのはすごく影響力をね各地に与えてる その芸北にもね1つのあると証ですよね こういうのそうですねでまたラって いう演目がちょっと駆け足てきますねすい ませんあのそろそろどうしましょう1回 あの休憩を挟みましょうかっていう言い たいところですがまちょっと急ぎますすい ませんお付けくださいあのジューラ

ジューラジュラですねジューラマダの代表 的な演目ですねもうマダといえば ラっていうイメージがあるんですがさっき 言ったように出雲にはジューラがあります で え広島の方にもジュラがあってゴツにも あった記録がさっきありましたでゴツから え大知軍大本神楽県を超えて広島の秋田方 にも古い台本が残ってんですよジラがでま ビゴがあってそしてま飛んで増田ですけど でこんだけマダっていうのが人気なんです がそうですねどこの車中もありますね大体 はいそうですねただえもしこういうルート で来たっていうことになると5あのゴツ ありますね浜田あの辺りにジラが全くない うんそうですね全くやられないですじゃあ これはどうあのえ飛びで行ったのかっての は大変興味深いんですけどやっぱりこの 辺りがこうあるのでうんうんうんえもしか したらこういうルートかもしれないですし え浜田にもあって廃れたのかもしれない ですうんうんうんが難いがうん結構ま ジュラてあの新物集合結構仏教要素も高い うんあの遠目ですけど結構もうその辺は どうなんですかねあのえっと増田のまえ 進行状況というか あの仏教と浸透のバランスの中でとかいう そうですそうですねうんどうなのかなそこ まで深く追求したことないですけどもそれ こそ先ほどね西先生のご紹介にあったよう にあの串白姫神社なんかはあねあのお寺の 坊さんがあの見てたということでさっき あの鮭組の中には新宿組の中にはなかった じゃないですかあそういったようにあの 本当にそういう新物集合があのね明確に なっとるところも割とあったというそこで 大事にされたかもしれませんねそうですね そういうことはあったかもしれないですね あともう1つ鈴鹿山っていうのは結構増田 といえば鈴鹿山鬼がたくさん出てござい ます あれも え浜田あの浜田この辺中君にはないんです よね中君というか今の浜田の八丁市にはま 新しくあの遠目として取り入れるっていう パターンあるんですけど伝統的には伝承さ れてなくてえ津からえやっぱ広島の3幹部 ですねえ大朝京北あの辺りは鈴鹿山があり ますうんで飛んで今度増田にあるって増田 ですねうんやっぱりこういうルートも可能 性があるなっていうここがまちょっと今 から気になるところだなうんはいでま1番 増田のあの力を得てる遠目に後人というの がありますねあってこの話が大変面白いん ですが時間となりましたのであのこれは

また次回回しましょうえこれだけで多分3 時間ぐらいは喋れそうなのでえまあのこの 辺りのちょっと課題を残しつつ えですねはいでえ まこうしてですねあの歴史のところ紐解い てまいりましたがちょっと時間の関係上 ちょっと次に進めさせていただきたいん ですがえ今え増田の神楽の過去から現在に 至るまでまちょっと少し手前のところまで え話しましたがまえやはりこういった シンポジウムで考えてないといけないのは ですね過去の深掘りもと合わせてやはり あのこれからのことを考えないといけない ということで え今あこの増田の地において神楽にどう いう方向性でこう取り組んでおられるのか というようなところをえ神田さんの方少し 紹介していただきたいですカグラボの 取り組みですね えはいえもう本当にちょっとお時間が迫っ ておりますので駆け足でご紹介をさせて いただけたらと思いますがえこの今岩見 神楽ウィークということでですねこうやっ てえ1週間神楽の日に制定していただいて えこの神楽の費を前後1週間ということで 岩見神楽ウィークということでえ増田で もう3回目になりますが開催をさせて いただいておりましてえこれを景気にです ねあのこれがままず始まる前段階岩見神楽 という次のページ行ってもらっていいです か岩見カラボというのがですねえ3年前に え発足をしましたでこれはあの行政を行政 と 次のページ行ってもらっていいです か今神楽の保存活用に向けて え将来ビジョンを作成する目的とした検討 チームということでえ増田市を始めとする 増田市観光協会であったりえ岩美神楽新和 会えそしてえ岩神ファンの方々思いを持た れた方々が決をしてえ作った検討チームと いうことでえこの取り組みを始めまして え増田市長またあ岩美神倉新和に対してえ 提言書を作りましょうということでえその 中の企画内容をですねえ考えてえ21年の 3月にですねえ低減省市長並びに新馬会の 方へと提出をしたわけでございますでこれ を元にですねえ増田岩見神楽から増田神楽 と名前を改めましてえこの提言内容を実行 するべく21年の4月から再スタートした わけでございますでその提言の中の1つで あります5月20日この日を岩見神楽の日 に制定していただくようにということでえ 市長様はめ増田市の方にえ掛け合いまして ですねえこの日を制定をしていたいいた わけでございますでえこの前後を今この

岩美神楽ウィークということでえ開催を3 回目の開催をさせていただいており ますでえ次のページえ このカラボの目的といたしましてはあ岩見 神楽による観光進行策の実施ということで え 新しいこの岩見神楽を全国に 広めるためにはどうしたらいいかという ようなことでですねまちょっとプロという ような言葉が使ってありますけどもそう いったあプロの方々に対してえ我々として もすることなく挑んでいくいってままず そのこの神楽がですね全国的にじゃどれ だけ致命度があるかというようなところ からあの我々は今考えておりましてえ岩 神楽この辺りではですね本当にあの有名な 神楽の1つではありますが全国に行くと 本当数%しかあこの岩見神楽という名前は 知られてないということがですねあの本当 に無実に我々も感じておりましてじゃあ そのためには神楽を知ってもらうために まず神楽を岩見神楽を知ってもらうために ということでまそういったあの伝統文化が 響くような方々の元へまずアプローチをし ていくそのためにいろんなところと コラボレーションをしてえまず認知度を 上げていく岩神楽はあ岩かぐすごいなって いうまず認知度上げていくという活動をま 今あ行っておりますそしてえまた新しい 観光のところでは体験コンテンツの喪失 ですとかあこの今ねこの会場でも前毎週 やっておりますが岩見神楽の横倉の魅力化 であったりえ岩見神楽をモチーフにした 商品の開発をして え行くといったところそしてええ 大きなプログラムのとしましてはですね自 世代性のプログラムということでえ未修学 時から高校生までえまた社会人に至る ところまでえ岩見神楽を少しでも好きに なっていただいて強度愛を育むというよう なためにですねえどうしたらいいかという ことでえ教育現場の方にもアプローチして いけたらいいなというような取り組みをし ておりますえそして えっとこの岩神楽を活用した観光進行が ですねえ継続的に取り組んでいける自立し てやっていけるようにということで え松田市の行政と一緒にですね卓を組み ながらあお話を色々進めさせていただき ながらあ今現状進んでいっているところで ございますはいありがとうごブの紹介とし ては今こいた形でございますはいはいえま こうしたようにですねまちょっと本当に ブンと時代をこっちにえ飛びまして ちょっと整理がついてないかも分かりませ

んがまこういう形でですねあの今 え歴史とそして挑戦っていうところですね 伝統を守ることと発展をさせることの バランスをかけ抜けていきましたがまそう した中でですね最後はあのまえ神田さん今 カラボとして発展的な取り組みをされて おりますが一方ではま新色というえお立場 もあってですねえまその振り幅の中で活躍 されてるま神田さんのえこれにおいては 新色としての え視点での神楽への思いそしてえ西高先生 の研究者としての思いそしてえま私あの 産業という闇神楽メを携わっておりますの で産業という立場それから最後にですね あのまあの観光のお立場でえあの担当のえ 方からお話をいただくということにいたし たいと思いますのでまずま神田さんの方 からよろしくお願いいしますはいちょっと ま駆け足でお話をしようと思いますがあの まやっぱりえっと先ほどからずっと言われ ますようにこの岩神楽神楽というもの自体 がえ新色から大々脈脈と続いてることだと あでそういったことでえやはり我々え神楽 を舞う側としても大大受け継いできたもの を次世代に引き継いていく う神楽の根本は神社に対する法のだという 風なあ見識もあるかとは思いますがやはり これはあのなぜえ新色神楽から大衆化が 進んでいたかというところを紐解いていく とやはりこの大衆の皆さん方の おなんて言いますかね娯楽的要さが非常に 強くあったからこそこうして岩神楽って いうのはこんな大きな発展を遂げたんじゃ ないかなという風に思うわけですで やっぱりあのもちろん 神社に奉納するというのは大事な神楽の1 つの使命ではありますでこれはなぜじゃあ あのね今さっきもありましたように母国 ほ場だとかそういった話になってきたかあ やはりですねあの年に1度その神社でえ 秋祭りに神楽を舞うことでえそのうこ中 地域の皆さんがこぞって神社にお参りして いただいてえ神楽を見ながらお酒を飲み ながらご飯を食べながらあワイワイと賑の 姿を神様にお見せいただくとこれがやはり あの岩神楽を奉納する意義であるんじゃ なかろうかということを私としては強く 思うわけでございますはい私はの岩神のね えところはそういったところでえあります はいありがとうございますそうしますと西 先生最後に一言よろしくお願いいたします じゃ私は研究者として今日はま歴史の話を 色々させてもらったんですけどもえっと私 はあのま就職したのが1993年です けれどもねその時県の知事は住田の武義

知事でしたますごく長くやられた知事だっ たんですけどこの住田の武知事ってのは 歴史とか文化をすごく力入れられた知事 でしてえま常に県立美術館を作ったかと 思ったらこの岩見に岩見美術館グラントを 作られてそれからえ出雲大社にの近くに 古代出雲歴史学物館さらにま岩見銀座の 世界遺産にしようとますごくそういった 取り組みされましたこの住田信知事がが あの常日頃言っとられたのがえシシニに とってですね歴史とか文化とのはレゾ デートルだとレゾデートルてのはフランス 語なんですけども日本語に訳すと存在意義 っって意味ですつまり歴島根って言と やっぱり私もずっと島根県に生まれれた 人間ですけどもやっぱ自信がない面もある じゃないですかねあの全国で47ト府県で 人口は46番目でさしたる講義も発達して ないそういった自信がない島根県民にとっ て歴史文を知るそして歴史文化にをあのか てねすごいあの歴史文化長い歴史があ るってことを知るということでやっぱり 島根島根県民としてまた岩美人としての なんていうかなアイデンティティですよね あの兄弟の誇りと愛着まそういったことを えま住田知は訴えていかれましてですね私 もまあの研究者としてそういった歴史特に この岩神楽の歴史なんかをこれから解明し ていく中でやっぱり岩神楽っすごい長い歴 があるんだとそういったところをまあの 弱みの人にも知ってもらってですねあの この京都弱みに対する愛着とか誇りをね 是非持っていただけるようにいろんなこと を解明していきたいなと思いますのでまた 今後とも色々よろしくお願いいたし ますはいありがとうございましたえ私は まあ一の闇カラメという立場なんでま戦列 ながらですね少しだけ思いを言いますとま 思いというかあの産業はどうしても受け身 ですえ社中さんの思いえ社中さんのしたい ことあのまどうしても重要と供給の中で 存在しておりますのでまあのそこに 寄り添っていくということですねえなので え古い形をそのまま残したいあるいは 新しい発想でえ人々が驚くようなあ面を 作ってほしいという幅広いあの受注がある んですがまこれがまさにま本当嫌神楽の今 を表してるなと思いますえ古いものを大事 にする発展をさせていくというえまこうし た中でですねあの神楽をどうしようこう しようというところまではどうしても立場 的にはあの言ありませんがまあ今回のよう にですねえこういう取り組みをえ感じるに つれあの本当に安心しておりますえイ神楽 はこれからもうどんどん発展してく大丈夫

なという風に思っていますえなのでま10 年20年後の神楽がえどうなるかは分かり ませんがまただ足を止めずにですね ちゃんと向き合ってえ惰性でこのままささ れないようにしていただくとえ人生を僕も マトができるかなと思いますのでえ今後も ま皆様にえ神楽の方を応援していただき たいなという風に思うところであります はいえ長時間ではございましたがえお 付き合いいただきましてありがとうござい ましたまた来年再来年と続いてまりますの でお足をお運びいただいてまた神楽 ウィーク明日までとなっております今日も ここで横倉ございますのでねはいえ最後 まで神楽の方神楽ウィーク楽しんで いただきたいと思いますね明はグラントの 方でえ講演の方もですね行いますので よろしければお足を運びいただけたらと 思っておりますえ本日はどうもありがとう ございましたお疲れ様でございまし [拍手] た

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