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【睡眠用】ジャイアンツファン必見!黒歴史として語り継がれる巨人の失敗エピソード集【プロ野球】

by ANNAPOST



▶︎チャプターリスト(目次)
00:00    1.一軍出場0で退団・引退したドラ1位たち
18:26    2.史上唯一の1位指名入団拒否
35:28    3.失敗逆指名史
1:01:19   4.主力VS首脳陣!確執退団史
1:20:28   5.巨人三大暗黒史
1:40:05   6.優勝に届かなかった大型補強史
2:17:26   7.FAで入団するも人的補償で退団した男たち
2:38:30   8.大損トレード史
2:51:41   9.大物確執トレード放出史
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▼巨人
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■格差トレードシリーズ動画
・【衝撃】阪神タイガーズだけが一方的に大損してしまったしくじり格差トレード3選【プロ野球】
→https://youtu.be/NnyAwDFWMc4

・【再覚醒】オリックスだけが一方的に大損してしまったしくじり格差トレード3選【プロ野球】
→https://youtu.be/L8O7cY_IVSw

・【前代未聞の移籍拒否】ホークスだけが一方的に大損してしまったしくじり格差トレード3選【プロ野球】
→https://youtu.be/9StXVIYvnbo

・【横浜を出る喜び】ベイスターズだけが一方的に大損してしまったしくじり格差トレード3選【プロ野球】
→https://youtu.be/PEd7ygENN9k

■過去動画
・【不死鳥】西武を戦力外になった後に他球団で大活躍した選手3選【プロ野球】
→https://youtu.be/ONDeywSyT8g

・【衝撃】新・3大即戦力外ドラフト!優勝から数年でチームに暗黒時代をもたらした悲劇【プロ野球】
→https://youtu.be/vclUp_jzYa8

・【悲惨】あまりにも弱過ぎてシーズン途中で解任された監督3選【プロ野球】
→https://youtu.be/blh4LbVZGR4

こんにちは 霊夢です 魔理沙だぜ今回は1軍出場なく対談した 巨人のドライチたちを紹介するぜドラフト 1位ってお試し必要とかもあるから1軍 出場0で引退って珍しいわよね 故障でそもそも試合に出場できなかった ケースが多いのかしらいや今回紹介する 選手は故障以外にも様々な理由でチームを 退団してる選手も多いぜ 栄光の巨人ドラ1がどんな理由で消えて いったのかかなり気になるわ1軍出場なく 退団した巨人のドライチたち1人目は 1970年ドラフト1位の入り口敏彦投手 だ1970年って半世紀以上も前の話じゃ ない1軍出場したことがない選手ってのも あって名前も聞いたことがないわこの選手 は分け合って名前を出しづらいってのも 若い世代が知らない理由だろうな 訳あってあこの湯口投手はプロ3年目に 20歳の若さで心不全のため救世されてる んだええ20歳の期待のドラ1が病気で 亡くなっただなんてでも不幸にも若くして 病死したとなるととこの話はこれ以上 深掘りすることもできないわねいやこの 湯口選手の救世に関してはそれに至るまで の過程で色々問題があったとされてて一部 では 湯口事件とも称される9回のタブー事件と なってるんだ問題あ 詳しく解説していくぜ 湯口投手は岐阜短大附属高校時代には高校 生サンバガラスとも呼ばれた高校生屈指の 左腕で高校3年時には春夏連続で甲子園に 出場し優勝にこそ届かなかったものの7 試合に登板して防御率1.35の好成績を 残したんだ 潜在能力抜群の素材型投手だったのねその ポテンシャルの高さから当時の巨人内部で 金田2世とも期待されて 純エースナンバーの背番号19を与え られるほどの期待を受けてたんだあの 400勝投手の後継者と目されるなんて かなり期待が高かったのが伺えるわねただ この機体の高さが後に湯口投手を苦しめて いくことになるんだ 湯口投手の1年目はイースタンリーグに 登板して 3.65で5勝6敗まずまずの成績じゃ ないだが問題は制球力の悪さで 投球回数78回3分の2で87奪三振を 奪った一方で7679を与えてしまったん だとんでもないノーコンじゃないいくら 三振が奪えるとは言ってもそれだけ支給を 出すとその魅力も半減してしまうわねそう

思った当時の巨人首脳陣は湯口投手の投球 フォーム改造に乗り出しもともとの オーバースロー東方からノー ワインドアップスリークオーター 果てはサイドスロー気味も試させたそうな んだ待ってまだまだ高卒1年目の選手に それほどの改造を施してしまったのこの 投球フォーム改造によって湯口投手は 持ち味の急速が落ちてしまったらしく1年 目の夏には父まさのりさんに 昔のように早い球を投げられなくなっ ちゃったんだよと嘆いてたそうなんだ 弱点克服を狙った結果せっかくの持ち味 まで奪う結果になってしまったのね制球力 自体も改善されなかったらしいしなまた 投球フォーム以外にも私生活のでも中を2 軍監督にかなり厳しく管理されてたそうで 2年目になるとほぼ外出しなくなり同僚と もほとんど口をきかなくなったそうだぜ もともと社交的な性格じゃなかったのいや もともとは明るい性格で1年目は チームメートとよく焼肉屋に繰り出してた そうだぜ体的にも精神的にもガチガチに 管理されてどんどんその人本来の良さが なくなっていったのね 湯口事件の引き金になったとも言われるの がプロ2年目のファン感謝デーで開催され た紅白戦この紅白戦はファンサービスの 意味合いが強いため当初1軍選手主体で 行われる予定で 湯口投手の登板予定はなかったんだ人気 選手が出場してくれた方がお客さんも喜ぶ もんねそのため寮生は前日には二軍首脳神 の後任のもとで無礼講の飲み会を開き 湯口投手も朝方まで飲み続けてたそうなん だ当然試合なんてできるような コンディションじゃないわねところが当日 になって 川上哲治監督が急遽若手主体で紅白戦を 行うことに決定 湯投手はこの紅白戦で2本のホームランを 含む打者一巡の猛攻を浴びてしまい試合後 は川上監督からお前は2年間も無駄飯を 食っていたのかと叱責されたそうなんだ そんな無茶苦茶なこと言われてもって感じ よね落ち込んだ湯口投手はこの日は宿舎に も帰れず朝方に起業したそうなんだが帰っ てくるなり中を2軍監督からいわゆる教育 的指導を受けたとされてるんだ今と比べて 当時はより厳しい体育会系を通り越した 軍隊式の指導が当たり前の時代だった でしょうけどそれにしてもひどい話ね実は この頃から湯口投手に異変が起こってたと され当時の同僚選手の証言によると 話しかけても返事がない目の焦点が定まっ

てないなど 異変が生じてたそうなんだなんか野球やる 以前の問題って気がしてきたわね 果ては1年ぶりに会った父の前で俺どうも 頭がおかしいねんと自らの不調を訴えた そうなんだ単に自信喪失したっていうより 精神的な異常をきたしてる感じね 結局紅白戦から約1週間 今後 湯口投手はチームドクターからうつ病の診断を受けて 杉並区の精神科病院に入院することになったんだ 高卒 2年目のドラ1 投手がうつ病なんて大問題よね事態がマスコミに漏れることを危惧した巨人は入院理由をあくまで風をこじらせたためとして 湯口投手の父にも口裏を合わせるように指示したとされてるんだ いわゆる 隠蔽工作ってやつね 入院生活中に湯口投手は川上監督に悪いことをしてしまった 川上監督に悪いことをしてしまったと 繰り返し 呟いてた そうなんだDV や幼児虐待を受けた人が自分に責任があるように感じる現象に似てるわね あくまで風であることを押し通したかった 巨人サイドはよく1973年の 都城キャンプに入り口 投手を同行させたんだがそこで チームメイトもビックリの気候を繰り返してた そうなんだ聞こう 何でも部屋の壁をただただじっと見てたり外の物音に対して異常な反応を見せて 怯えたり深夜の宿舎を大声を上げながら 徘徊したそうなんだええ ちょっと待ってあまりにもかわいそすぎて もう話聞きたくなくなってきたわさすがに 事態を重く見た巨人は湯口投手を東京の 病院に戻すことを決断ただ到着した 羽田空港のロビーで規制を発しながら 走り回ったりし空港警備隊に取り押さえ られる一幕もあったそうなんだもうこの話 やめましょうよ 辛くて聞いてられないわ東京に戻って約1 カ月後の1973年3月22日 湯口投手は心不全のため帰らぬ人となって しまったんだちょっと話が急すぎないどう して亡くなっちゃったのよこれは当時医療 ミスや自ら死を選んだのではないかなど 様々な憶測を呼んだんだが 父まさのり氏が警視庁の司法解剖要請を 断ったこともあり 病死ということで片付けられたんだなんだ かもやっとする話ねご遺族が痛い解剖を 望まれなかったってのも大きな理由らしい からな 息子が切り刻まれるのは嫌がる方も いらっしゃるでしょうしねこの湯口投手の

休止によって 巨人はマスコミから激しいバッシング報道 を受けたんだかなりのイメージが悪くなっ たでしょうねその影響もあってかこの年 行われたドラフトで巨人は7名の選手を 指名したが1位の小林秀和2位の黒坂行き を3位の中村雄二語彙の鬼しかかずおの4 名もの選手に入団拒否されたんだ4名 しかもドラフト上位選手全員から断られ てるじゃない ちなみに2021年現在でも巨人が唯一 ドラフト1位指名を拒否された事例なんだ ぜそれだけ与える影響が大きかった事件 だったのね1軍出場なく退団した巨人の ドライチたち2人目は1979年ドラフト 1位の林康弘投手だ1人目のインパクトが 強すぎて気持ちがついていかないわさすが にあれ以上の心を痛める話はないから安心 してくれると助かるぜ今回のテーマ的に 巨人ファンは何一つ心が安らがない でしょうけどね話を林投手に戻していこう 林投手は私立尼崎工事代は甲子園出場こそ なかったものの 潜在能力を高く評価されて指名されたんだ 林投手もまた素材型投手だったのね400 勝投手の金田正一氏からは当時行けるで 稲尾2世と期待されてたそうだぜなんだか さっきと導入が似てるじゃない 期待を受けた林投手だったがプロでは請求 何に苦しみ 投球フォームを再度スローに変更するなど したがプロ4年間で1軍での登板機会は ゼロ1983年オフには金銭トレードで 近鉄に移籍してるんだたった4年間で高卒 ドライ値を放出しちゃったのねその近鉄で もわずか1年で自由契約となり 太陽ホエールズに入団テストを経て移籍し たもののここでも1年で自由契約となり 1985年には現役を引退してるんだ3 球団に拾われるほど潜在能力を評価され ながらプロ6年間で1軍登板の機械すら得 られなかったのね引退後は異例の証券マン になり大勇者先物車上む 晩成プライムキャピタル証券取締役を経て 2005年6月にはエリア晩成証券の社長 にまで上り詰めたんだプロ野球選手から 証券会社の社長だなんて 華麗なる天津じゃない何なら 野球選手時代よりも稼ぎが大きかったでしょう しあFX 損失補填と2億円を超える 脱税の容疑で逮捕されちまったがなへっ 2020年2月12日に金融商品取引法違反と法人税法違反で懲役3年と執行猶予5年の有罪判決を言い渡されてるんだ ボールも己の欲望もコントロール しきれなかったのね

1軍出場なく引退した巨人のドライチたち3人目は 2005年高校生ドラフト1位の辻打ち 隆信投手だ一気に 四半世紀ほど時間が進んだわねこの間は 原辰徳桑田真澄松井秀喜高橋由伸上原浩治 安倍 晋之助などそうそうたる面々が続いたからな 栄光の巨人ドラフト1位って感じの 豪華すぎる面々ねこの時期は 逆指名制度などもあってアマチュア ナンバーワン選手を獲得しやすい時期でもあったからな 裏がね栄養費契約金違反えーっと 話が長くなってしまうのでその件は今回 触れないとして辻打ち についてね 辻打ち投手は高校時代に岡田隆弘平田涼介 らとともになにわの四天王と呼ばれ注目を 集めたんだそれだけの選手が同じ年の1つ の府に集まってたなんてさすが大阪って 感じね 辻打ち投手は高校3年の夏の甲子園1回戦 でなんと156キロを計測これは今なお 甲子園歴代2位の記録で左腕は史上最速の スピード記録なんだ最近は投手の球速が 上がってきてるけどそれでも先発左腕で それだけのボール投げられる選手なんて 貴重だもんね2回戦の藤城戦では大会記録 となる1試合19奪三振も記録しチームを ベスト4に導く活躍で一躍ドラフトの目玉 候補として注目を集めたんだスペックだけ を見ても現代のドラフトでも上位候補の 逸材って感じよね大きな期待を集めてプロ 入りした辻打ち投手だったがプロ生活は 打者よりも怪我と戦う時間が増えていくん だ体ができてない状態でスピードボールを 投げ続けた代償が大きかったのかしらまず 1年目の キャンプはカタツの影響で2軍スタートと なり6月にも方の炎症を患い選出されてい たフレッシュオールスターも事態プロ1年 目はファームでも防御率6.04と苦しみ 投球回数53回3分の2で39支給と散々 な内容だったんだ 期待された姿からはほど遠い結果になった のねプロ2年目の春季キャンプでは肘に 違和感を持ちながら投球練習をしてたそう なんだがそこに原監督が視察に訪れたそう なんだコンディション良くない時に アピールせざるを得ない状況になったのね そこで無理して投球練習を続けたそうなん だが声を出せないくらいの激痛が肘に走り ボールは変なところに行ったそうなんだ 完全に壊れてしまってるじゃないその後 病院で検査を受けた結果内側人体の断裂と 診断され4月26日にはトミージョン手術

を受けることになったんだまさにケガとの 戦いのプロ野球人生ね手術から復帰後も 痛みが治まってはまた再発するを繰り返し 満足に投げられない日々が続いたんだいつ でもリハビリでは周囲の目も冷たくなって いったでしょうねあ実際辻打ち投手も周囲 のプレッシャーを常に感じながらプレイし てたと振り返ってるぜ 結局プロ8年間で1軍公式戦での登板は ゼロに終わり2013年に戦力外通告を 受けて現役引退2013年には急速 129kmがやっとの状態まで低下してた そうだぜかつての甲子園のスターにとって は本当に辛い状況だったでしょうね引退が 決まった時にはようやくこの方と肘の痛み から解放されてホッとしているというのが 正直なところですと心境を語ってるぜ ドラフト1位の重責から解き放たれて むしろ肩の荷が降り立って感じだったのね それにしてもプロ入り後に故障しちゃった のが痛かったわねいやどうやら土方の痛み はプロ入り前からあったそうで中学時代は 肘の痛みで半年投げられない時期があっ たり高校でも肩を痛めて1ヶ月投げられ ないなど 肩肘の故障は頻繁にあったそうなんだ アマチュア時代からもうボロボロじゃない 当時はまだまだ気合と根性で乗り切る指導 が主流だったこともあって本人も自然治癒 に任せて無理してでも投げるのが当たり前 だと思ってたそうだぜ 休ませてくださいって言いにくい風潮が あったのね 辻打ち投手はふるい日本野球界の監修の 被害者とも言える存在だったのかもな高校 時代の活躍が強烈だっただけに 怪我がなかった世界戦の辻打ち投手を見て みたかったわね1軍出場なく引退した巨人 のドライチたち4人目は2007年大学生 社会人ドラフト1位の村田徹投手だ 村田投手ってメジャーでプロ初登板して 日本ハムに逆輸入された投手よね 巨人にも在籍してたことがあったの 村田投手は上原投手と同じ大阪体育大学 出身のドラ1で 巨人では上原2世と期待された投手だった んだ知らなかったわただプロ入り3年間で は2軍でも十分な成績を残せず戦力外と なったんだ大卒とはいえまだ3年目の投手 を戦力外行って早すぎない普通のドラ1と 考えれば早すぎかもしれないがこの次は 分離ドラフトだったからな確か2005年 から2007年までは高校生と大学社会人 のドラフトを分けてたもんねそうなんだな のでこの制度のドラフトでは1年で24名

のドラ1が生まれるので中には例年 ドラフトなら注意くらいのポテンシャルの 選手でも1位指名になる可能性があったん だドラフト1位って言葉が一人歩きしてる けど通常なら1位レベルってほどでは なかったのねもともと巨人が大葉翔太 篠田純平投手の抽選を外しての外れ外れ1 位でもあったからな言い方悪いけどどうし ても欲しくて獲得した投手ってわけでも なかったのねとはいえ巨人もドラフト上位 選手に対してただ戦力外にしたわけでは なく 球団職員としての再雇用の道を用意してた そうなんだスポーツ選手ってセカンド キャリアの方が長くなるケースが多いから ね多分セカンドキャリアより現役の方が長 いってサッカーの三浦カズくらいだろう からなでも村田選手はメジャーに挑戦した わよね実は村田選手は戦力外語のトライ アウト前のメディア対応で 巨人ではファームでもほとんどチャンスを もらえませんでした正直 納得していません 育成の巨人というならもう少しチャンスが 欲しかったですねそう思っていますと発言 して巨人再度を怒らせたそうなんだ言い たいことはわからないでもないけど9回の 名手相手にそこまで言うなんて結構強気な 性格ねその後 村田投手は2011年からインディアンス とマイナー契約をし2015年には メジャーで初登板残念ながらメジャーでの 登板は1試合のみに終わるが2017年 から日本ハムでプレイ2018年には先発 ローテの谷間を埋めるシーズン6勝の活躍 なども見せドラ1投手の片鱗を見せたんだ 身体的に衰えてくる30代でもそれなりに 日本で活躍したことを考えると普通に ドラフト中尉クラスのポテンシャルは持っ てた投手だったと言えるわね1軍出場なく 引退した巨人のドライチたち5人目は 2011年ドラフト1位の松本祐也投手だ この辺で動画視聴やめちゃう巨人ファンが 後を絶たないでしょうね ファンにとって忘れたい不祥事というだけ でなく他球団ファンにも広く知られるプロ 野球史に残る汚点だからな動画も長くなっ てきたし手短にお話ししてちょうだいよ 松本投手は高校時代に 英名のランディジョンソンと言われた大型 左腕で 英名高校を2年連続となる夏の甲子園出場 に導いたんだ話全然違うけど素材がたわん の育成って難しいのね単純に左腕の分母が 少ない分

成功事例が少ないだけって気もするがな 2011年のドラフト会議で日ハムとの 競合で菅野智之を逃した巨人と 藤岡隆弘を逃した横浜がはずれ1位で松本 を指名 抽選の結果巨人が松本投手を獲得したんだ あの菅野を逃したドラフト会議の影響が別 の意味でも巨人にとって大きな痛手になっ てたのねしかしハズレとはいえ 即戦力投手を狙った球団が2球団も松本 投手を1位指名って考えると 潜在能力は高く評価された投手だったん じゃないそこを面の潜在能力はきっちり 調査できてなかっだったみたいだがな早速 その話をしちゃうのね2015年10月 21日松本投手は同僚の福田聡 笠原彰二とともに2014年のプロ野球の 試合で野球賭博に関与していたと発表され たんだ当初は福田投手だけが報道された けど 芋づる式に関与者が発覚して衝撃的だった もんねしかもこの3名は賭博の証拠となる メールを削除した上にメールが復元された 後の調査に対して 冗談だったと虚偽の説明を繰り返す悪質性 もあったからな 口裏を合わせて乗り切ろうとしたって話 だったもんねこの騒動を受けて唐沢敦司 専務取締役研究団代表が引責辞任 球団の指導 管理が不十分だった巨人は1000万円の 制裁金が課せられたんだ正直9回全体の イメージを損なったことを考えると 1000万円でも足りないくらいよね一応 八尾町行為はなかったみたいだが 巨人球団内で賭け事が横行してたことも 明るみになったしな何でも賭け麻雀に賭け トランプ高校野球の勝敗を使った ギャンブルもあったっていうじゃない 野球賭博が明らかになった3名を含む合計 10人くらいで賭け事してたって話だから などうせかけるなら野球人生をかけた血の 滲む努力をして欲しかったわね 結局賭博に関与した3選手は2014年 限りで巨人から契約を解除されNPBから 無期失格処分の厳罰が下されたんだトカゲ のしっぽ切りみたいでちょっとうやむやに なった部分もあるのが納得いかない思いが あるけどね 今回は巨人の暗黒 ドラフト紙を紹介するぜ あれ 今回は 新3台にまとめないの本当はそのつもりだったんだが3つに絞るのが難しいくらい暗黒 ドラフト

がいくつもあったんで な ドラフト制度が導入されたのが1965年からって考えると何度か 暗黒はあるもんだし ねむしろ今回紹介する巨人は 他球団と比べて少ないくらいだからな 過去にやった 3大 即戦力外 ドラフト 以外にも悲惨な ドラフトを経験した球団がたくさんあるのね その辺はこの企画が人気であればやっていくとして まずは今回の本題について話していくか お願いするわ 巨人の暗黒 ドラフトし一つ目は 1991年のドラフト だ ちなみに 1991年 というと プロ野球の歴史でもかなり 豊作の部類に入る年なんだが どんな有名な選手がいたか知ってるか うーん ちょっとわからないわね 1991年 って言うと今の監督とかやってるアラフィフ 世代の人たちの選手よね その通りだぜ2022年 楽天の石井一久 横浜の三浦大輔監督がプロ入りした年だぜ 平成のプロ野球を代表するレジェンド投手 2人じゃないその他にも 投手だと斎藤孝志野手では金本智昭 中村憲広 片岡篤史桧山進次郎 田口壮そしてイチロー選手がプロ入りし てるな待って待ってとんでもない当たり年 じゃない 特徴的なのはドラフト上位だけでなく注意 回のどの順位からでも名選手が誕生してる ことが挙げられるぜ有力選手以外にも金の 卵がいたってわけね 巨人はそんな中で暗黒ドラフトをやって のけたのああ巨人はこの年最多の4球団が 指名した駒沢大学の若田辺健一投手に入札 若田べ投手ってダイエーで活躍した投手よ ねああ先にあげた選手たちほどの活躍では なかったが4度の二桁勝利に5度の規定 投球回数到達と 十分活躍した投手だったなでその選手の くじを外しちゃったのねそうなんだその後 巨人は外れ1位で天理高校の谷口

投手を指名 合計6名の選手を獲得したんだその中で 一番活躍したのはどの選手だったの2位で 獲得した小原沢重成より投手の通算3勝が 一番の活躍だな山椒ってことは他の選手は それ以下の成績だったってことあまず1位 の谷口投手は2年目に3試合救援登板した だけに終わり97年に戦力外 逃した若手投手とはかなり大きな差がつい てしまったのね3位以下の選手だと 伊藤選手が9試合に出場したが他の3選手 は巨人で1軍出場することなく退団6年で 全選手が退団し 移籍後に活躍した選手もおらずわずか8年 で全員がNPBから姿を消してしまったん だこれだけの当たり年で全く戦力を強化 できなかったのねしかも3位の松岡正樹 選手は現役引退後の2004年にビデオ店 で現金強奪その後は連続強盗事件を起こし 2006年に懲役20年の判決を受けてる ぜ引退後の騒動は巨人は無関係とはいえ ない暗黒ドラフトになったのね 巨人の暗黒ドラフトし2つ目は1989年 のドラフトださっきのドラフトから2年前 にも暗黒ドラフトをやってたのねこの年も また先ほどの1991年にマサルとも劣ら ない大豊作ドラフトと言われており 即戦力候補が期待通りの活躍をしたって点 ではこの1989年の方が前評判通りの 方策ドラフトと言えるだろうな 代表作って歌われてて実際数年経ったら そうでもなかったってドラフトもあるもん ねこの年は史上最多の8球団から強豪で 指名されたのも秀雄投手以外にもドラフト 1位では笹岡真司 佐々木和弘小宮山悟 潮崎哲也 与田剛といった早々たるメンバーが1位で プロ入り 投手に逸材が多かった年だったのね いやいやそれ以外にも古田敦也前田智則 石井郎新庄剛志など 野手の大物も数多くプロの扉を叩いてるぜ 迷宮海選手が4名も生まれてるなんて本当 に大豊作の年だったんじゃない そんな中で巨人は誰をドラフト1位で指名 したの 巨人は慶応大学の大森岳選手を単独1位で 指名してるぜ 野茂選手の強豪を回避して指名したって ことはよほど活躍の見込みがあった選手 だったの実際この年の野手の中では アマチュア時代の実績は飛び抜けてて東京 六大学では3年の春にリーグ史上6人目の 3冠王を獲得

1988年に行われたソウルオリンピック では19人のうち大学生はこの大森選手を 含めて3名その他の2名は後にプロでも 活躍した野村健二郎 富樫の検事選手しか選ばれてなかったんだ ドラフトでも上位指名されたのもフルタラ の社会人組もいる中で大学生でも選ばれる なんてすごいじゃないしかも大会では5番 で起用されて 打率3割5分1本塁打4打点の活躍で日本 の銀メダルに貢献してるからなそれだけ 活躍してたとなると 競合回避しての1位指名も頷けるわね ちなみにドラフト前には上宮高校の元木 大介が強烈な巨人を死亡してたんだが大森 選手は高校生より下の指名なんて受けない 一位指名でなければ巨人にも行かないと 暗に元木以下の評価なら巨人入りを拒否 することをほのめかしたんだそれだけ実績 も自信もあったんでしょうしね ちなみに元木選手はノモの抽選を外した ダイエーから外れ1位指名を受けたが入団 を拒否して野球留学し 翌年巨人にドラフト1位で入団してるぜ そこまで巨人の計画を狂わせた大学野球の 手法はどんな成績を残したのよ 巨人の8年間で通算123試合で27安打 5本塁打で97年に退団してるぞ月刊 MVPの選手が1月で残しそうな案だと 本塁打数じゃないこの時期の巨人は一塁手 に落合博満 清原和博といった大物選手を次々にFAで 獲得し外野手も松井秀喜広沢克巳 清水敬之らがいたためポジションが重複 する大森選手はほとんど出番がなかったん だ少しでも結果を残せないとライバルが 次々に入ってくるのが巨人の選手 宿命だもんね一応大森選手は2軍で3度の 本塁打王都にどの打点王を獲得してるが1 軍では結果を残せずいつしか2軍の帝王と いう不名誉な称号がつけられてしまったん だ 結局最終的に大森選手はどうなっちゃった の97年のドラフトで大学の後輩である 高橋由伸がドラフト1位で入団したことも ありトレードで近鉄に移籍してるぜ 皮肉なことに大学の後輩高橋選手は1年目 から大活躍だったし プライドはズタズタよねその他の選手は どうだったの2位の川辺4位の佐久間6位 の朝の選手は1軍出場なく退団5位の鈴木 選手も出場わずか4試合で退団してるぜ ほとんど戦力的な実りがないじゃない同じ リーグのヤクルトがこの時期のドラフトで 獲得した古田石井西村龍司横浜が佐々木

三浦 齋藤隆を要してリーグ優勝してるがこの 時期のドラフトで差が生まれたことが優勝 を明け渡す一因になったとも言えるだろう なドラフトって短期的な影響非常に中長期 的な影響の方が大きかったりするもんね しかも後からじわじわ効果が大きくなっ てくし子供の頃に勉強や努力してこなかっ た影響が後でじわじわ出るみたいな感じだ な話をこのドラフトに戻すと実は巨人は3 位で後に近鉄で活躍する吉岡裕二選手を 獲得してるんだが 巨人での通算本塁打はわずか5本に終わっ てるぜ以前巨人のしくじり大型補強しで トレード後に花開いたって話したもんね ああ 詳細はそちらを見ていただくとして大森 選手は近鉄移籍後にこの吉岡選手と一塁手 のポジション争いをして敗れてるぜ先に 退団した動機と別の球団で争って敗れ るって本当にメンタルやられるやつよね 実際ふてくされた態度をとったため当時の 近鉄の首脳陣からそんな態度では何をやっ ても成功しないぞと苦言を呈されたそうだ ぜ 挫折知らずのエリートにありがちなしくじ リレーって感じね戦力的には何の強化も得 られなかったこのドラフトだが実は意外な 形で後に巨人にをもたらすことになるんだ え指導者として実は優秀な選手がいたとか いや大森選手は現役引退後は巨人の東北 関東地区担当スカウトとなり青森県の構成 学院坂本勇人選手に惚れ込んで2006年 の高校生ドラフト1位候補として球団に 積極的に推薦してたそうなんだ 伝説のどの上 坂本っていう要求団の運命を大きく分けた ドラフトに関わってたのね 結局清武代表と原監督の意向でどの植え 直道選手の1位指名は変わらなかったもの のはずれ1位なら坂本を指名という条件を 取り付けたそうなんだ当時全国的に無名 だった坂本選手にそこまで惹かれるものが あったのね結果的に巨人はプロ野球史上 最高の遊撃手を獲得できたわけだから大森 スカウトは本当に大仕事をやってのけたわ ね 巨人至上ワースト9のドラフト1位が巨人 史上最高のドラフト1位の1人を生み出す 敏腕フロントになるなんて ちなみに2016年にメルセデス投手を 海外トライアウトで合格させたの大森 スカウトだと言われてるぜいつどの タイミングでどんな仕事で才能が花開くか わからないから人生って面白いものね

巨人の暗黒ドラフトし3つ目は1978年 のドラフトボイコットについてだドラフト ボイコット 巨人に一体何があったのよほど許せない ことがあったのねその許せない何かがあっ たのは巨人だけでなく他球団もだったんだ えどういうこと普通ボイコットってする側 が何かに抗議するときに行うものよね実は このボイコットは 巨人が1978年のドラフト前に江川卓と 入団契約したことを連名とコミッショナー から認められなかったのに対して行われた ものだったんだ話がよくわからないわどう して入団を認められなかったのよこれは いわゆる空白の1日事件に関係してて話す と長くなるので今回は手短に話していくぜ 詳しくはまた別の動画でってことで ボイコットした理由に焦点を当てて話して よ簡単に言うと前年の19777年の ドラフトで法政大学4年だった江川投手の 交渉権はクラウンライターが獲得したんだ クラウンライター今の西武の前身にあたる 球団で当時はまだ拠点が福岡にあったんだ ところが江川投手は九州は遠いという理由 でクラウンライター入りを拒否 翌年宇宙の球団へ入団するために1年間の アメリカ留学の道を選択してたんだあれ だったらおかしいじゃない交渉権は クラウンにあったんだったら 巨人が江川投手と契約する権利はなかった んじゃないそこがこの 江川事件の面白いところで実は野球協約上 ドラフトの交渉権が有効なのは翌年の ドラフト会議の全然実までつまりドラフト 会議の1日前は交渉権がどの球団にも属さ ない空白の1日が生まれたんだそれで空白 の1日とも呼ばれるのねでもそれじゃ クラウンの交渉権が失効してるだけで 巨人が契約していいってことにはならない んじゃない当時の野球協約上ではドラフト 対象者は日本の中学高校大学に在学して いるものまたは学校中退者や社会人野球 選手だったんだ 江川投手は大学卒業後に社会人野球に入ら なかったため 野球協約の文言上ではドラフト対象外選手 に該当すると巨人は解釈したってわけさ 確かにルール上は問題ないわね 江川サイドも意図したわけではないけど 偶然ルール上の抜け穴が生まれてたって 面白い話ねそこで巨人側は江川と契約して 強引に選手登録を進めようとしたが他の 11球団は契約を無効と主張 素直に受け入れるわけがないもんねこれに 対する抗議として巨人はドラフトを

ボイコットし 史上初の11球団によるドラフト会議が 行われたんだ 江川事件についてはなんとなく知ってた けどそんな大騒動になってたのねてっきり 巨人はこの時もドラフトの抽選を外した もんだとばかり思ってたわ 江川と巨人の契約は無効という前提で ドラフト会議が行われた結果4球団との 競合の末に半身が江川の交渉権を獲得した んだそんな獲得できるかどうかもわから ない状況で 球団も指名したのねここで江川との契約は 正当なものだと主張する巨人とドラフトで 交渉権を獲得した阪神とで大きな揉め事に なってしまったんだ ルール的には問題なかったわけだから 巨人を罰するわけにもいかないしどう 折り合いをつけるべきか難しい問題ねそこ で当時の金子としこミッショナーが仲裁に 乗り出して一旦は江川を半身に入団させる ことにしてその後 阪神江川卓と巨人小林繁をトレードする ことで 江川の巨人入りを成立させたんだ 江川さんって巨人生え抜きOBかと思って たけど 厳密には違ったのねよくライバルであり 親友でもあった掛布雅之さんが 阪神OB会に江川を誘ってるんだけど来 ないんだよなてネタにしてるぜ 宇宙の選手を獲得できたなら 巨人の暗黒ドラフトとも言い切れないん じゃないトレード相手となった小林投手は 当時のエース格で 沢村賞も獲得経験あった投手だったんだ 巨人も戦力的にはかなりの痛手が大きかっ たのね加えて世間からは猛烈なバッシング を受けて 球団のイメージを損ねたし実質に以下の 使命はできなかったことを考えると 編成的なダメージも少なくないしなその前 に紹介した2つとは別の意味で 暗黒度の高いドラフトになったのね 巨人の暗黒ドラフトし4つ目は1973年 のドラフトだ1973年どこかで聞いた ことがあるようなそうだこのドラフトに ついては1軍出場なく退団した巨人の ドライ達で簡単に紹介させてもらってるぜ 思い出したわ確か大量の選手が入団拒否を したよねああ 詳細は過去動画を見てもらうとしてこの年 に湯口事件と言われる問題で湯口敏彦選手 が亡くなったこともあり当時巨人は世間 から猛烈にバッシングを受けてたんだ高卒

ドラ1の投手が20歳の若さで亡くなっ ちゃったらそれは印象悪くなるわよね 1973年というと巨人がV9を達成した 年だったがポジティブなイメージばかりの 年ではなかったんだ 湯口事件で巨人に不信感が生まれたことで で大量に入団拒否選手が生まれたってこと ねいや全員が全員そうだったわけでもない そうだぜあれだったらどうして大量入団 拒否になったのよまずこの年のドラフトに ついて簡単に話すと 巨人は7名の選手を指名だが1位小林秀和 2位黒坂ゆきを3位中村ゆうじ 五井鬼しかずおの4名もの選手に入団拒否 されてしまったんだ確か巨人がこれまでに ドラフト1位の選手に入団拒否されたのは この時が最初で最後なのよねああ 球団の使命を拒否してまで入団を懇願さ れるほどの人気球団巨人において 史上最大級の汚点ともいえる使命になった な小林選手はどうして指名を拒否したの 原因はいろいろあるとされるが小林選手が 将来的なアマチュア野球の指導者を志して たことが大きな理由の一つとされてるぜ えっ巨人より現役引退後のアマチュア野球 指導者を優先したの指導者なら現役引退し てからでも遅くないのにどうしてそんな 選択を実は今でこそ元プロ野球選手でも 高校地球の指導者になれるが当時の野球界 ではそうではなかったんだあれそうだった の今だったら元プロ野球選手が高校野球や 大学社会人で監督を務めたりしてるじゃ ない実は1961年に起こった柳川事件と いうトラブルによって 元プロ野球選手が高校 大学社会人野球を指導できないルールが あったんだえっもともとそんなにルールが 厳しかったんだっけ2013年から研修を 受ければアマチュア指導の資格を回復させ られるようになったがそれまでは元プロの 甘指導は禁止されてたからなそうなると 小林選手は巨人のドラ1か元々の夢である アマチュア野球指導者かのどちらか一方を 選ばざるを得なかったのね今でこそ スポーツ選手の社会的地位が向上してるが 当時野球選手はまだまだ不安定な職業と 認識されてて 野球選手になることはあくまで職業選択の 一つの選択肢に過ぎなかったんだ 昔は職業としてのプロ野球選手の位置付け が今ほど高くなかったのね実際小林選手は 指名に川上哲治監督と対面した際 熊谷組は本業の仕事があり次に野球だが うちは野球で君を欲しいと思っていると 口説かれたそうだが仕事として野球を選ん

だわけではないと考えていた小林選手は逆 にこの言葉で迷いが消えて 断る決心がついたそうなんだ今では考え られないけどそんな選択をした選手がいた のねまあ2位で指名されながら拒否した 黒坂選手に関しては 湯口事件の影響もあったことを示唆してた らしいがなやっぱり多少なりとも影響は あるわよね ちなみに入団した3選手はどうなったの6 位の新谷有事7位の金島正彦選手はともに 1軍出場なく現役引退4位のサコマル 金次郎選手は巨人では通算21試合出場に 留まり83年には広島に移籍してそこで 引退してるぜ7名も指名して出場試合数は そこまる選手の21試合出場だけって平成 の即戦力外ドラフトがまだマシに思える ほどの悲惨な結果だろう戦力的にほとんど 実りがない上に不名誉って 巨人史上最悪のドラフトじゃない 今回は巨人が逆指名で獲得するも体制せず に終わった選手たちを紹介するぜ 巨人は逆指名で得していたイメージだけど うまくいかなかったケースもあるのね何事 も光と影があるからな 過去の動画でも紹介した通り 巨人はアマチュアの有力選手を逆止名で 獲得するために多額の裏金を支払ったこと が大きな問題になったこともある高橋由伸 上原浩司nioka知宏安倍晋三助内海 哲也など後に9回を代表するレベルの選手 たちを次々に獲得してたもんね 注目してほしいのは最初に裏金を渡すよう になったとされるのが97年のドラフト1 位高橋由伸選手に対してからというものだ 逆指名制度は93年のドラフトから導入さ れていることを考えるとちょっと遅いわね 最初からゴリゴリに札束で法をひっぱたい てるのかと思ったわそもそも逆指名制度が 導入された背景には80年代の西武が ドラフト候補選手とその選手周辺の関係者 へ多額の裏金を提供し関連企業にさせた上 でドラフトがい入団という手法で選手を 獲得しその結果黄金期を築くことができた ことが大きな問題として取り上げられた からだ戦力の一極集中と裏金を防止する ためだったのねそれで巨人も最初は おとなしかったって側面もあったわけだ それともう一つは制度導入直後は アマチュアナンバーワン選手たちの獲得に 失敗することが多かったことも挙げられる だろう90年代なんてまだまだ巨人人気が 高かった時代なのにジャイアンツを逆指名 しないケースもあったの逆指名制度が 初めてドラフトに導入された1993年の

注目選手は 投手では大学ナンバーワン左腕の関東学院 大学河原隆一東北福祉大関根裕之神奈川大 渡辺秀和らが挙げられるまた野手では92 年のバルセロナ五輪日本代表に大学生で 唯一選出された青山学院大学国母開きも その進路に注目が集まっていたんだ今あげ た選手たちはいずれも巨人に入っていない じゃないそうなんだ 渡辺秀和 ヒロキの二人はダイエーを逆指名し ホークスが投打の目玉選手の両取りに成功 渡辺投手はルーキーイヤーに新人王を獲得 し 即戦力となるまた国母選手のその後の活躍 はあえて紹介するまでもないだろうその後 のダイエー黄金時代到来を予感させる1年 目だったのね少し話をこのまま続けると その後もホークスは逆指名制度を利用して アマチュアの大物選手を次々に獲得94年 は駒沢大学への進学が決定していた別府大 附属高校の城島健司を強行指名して強引に 入団にこぎつけたまた96年はアマチュア ナンバーワンや種の井口忠人社会人 ナンバーワンスラッガーの松中信彦を獲得 しホークス王朝の礎を築いていったんだ わずか4年の間に国保 城島 井口松中を獲得なんて 夢のようなドラフトじゃないこれは あくまで推測だがこの時期にダイエーが 有望選手を乱獲していたことに 巨人が歯がゆさを覚えたことが97年の 高橋由伸への裏金問題をはじめとする 規約違反のドラフト活動の加速の一員と なったのではないかと思っている80年代 は西武90年代はダイエーにドラフトで 有力選手を奪われたことで 火がついちゃったのね逆指名制度が開始さ れた当初 巨人は逆指名を利用して優れた選手を獲得 できなかったの93年に話を戻そう大学 ナンバーワンの川原投手獲得に乗り出し ライバルの横浜以上の金銭条件を提示した が本人は地元の神奈川でのプレーを希望し ベイスターズを逆指名その後は関根投手に アプローチをしたものの関根投手は日本 ハムを逆指名してしまったんだ次々と有力 選手たちに振られちゃったのねその他にも この年の逆指名された選手の中には西武 医師たかし 阪神矢部圭一 ヤクルト山部ふとしらの後にプロで活躍し た高騰したちがいた 野手も中日鳥越裕介

横浜晴敏を日本ハムイで辰哉など粒揃いな 選手たちが顔を揃えてたんだぜなんか後の 脱税問題の関与者が多い気が話どんどん それていくのでその件は無視させてもらう ぞ有力候補の入団先が続々と決まっていく 中で 巨人は当初獲得予定のなかった東北福祉大 のみのかつひろ投手の逆指名での獲得に こぎつけたんだあれ確か日本ハムが獲得し た関根投手も東北福祉大じゃなかったっけ そうなんだミノ投手は関根投手との2枚 看板として活躍した投手で3年春には リーグ最優秀選手ベストナインを獲得した こともあったただ関根投手が完成度の高さ から先発を務めることが多かったのに対し ミノ投手は荒削りな面も多かったため 比較的としては2番手投手だったそうだ そもそも即戦力と言えるかは微妙だったの ねとはいえ巨人は実の投手に対して 契約金1億5000万円年俸 1,200万円という破格の待遇で 迎え入れたんだ本命ではなかったとはいえ さすがにドラ1にケチ臭い契約を提示する ことはなかったんだポテンシャル込みで プロ入りしたミノ投手だったがプロ最初の 3年間はまさかの1軍なしに終わって しまう97年のシーズン終盤にプロ初登板 を果たすがこれが巨人での唯一の登板と なってしまったんだえっ4年間でたったの 1登板 結局99年のシーズン途中に金銭トレード で横浜へ移籍したため 巨人在籍6年間での登板は前述した1試合 だけに終わる 移籍先の横浜でもほとんど登板の機会は なく2001年に戦力外通告を受けて現役 を引退してるんだ全くと言っていいほど 戦力になってないじゃない何気に巨人の 歴代はアストドライチ候補なのでは支払っ たコストを考えれば ワースト10には入るだろうなまあこの 球団はグラウンド外で不祥事を起こした けしからんドラ1もいるのでそれと比べれ ばあまり責められないがな実はこの93年 のドラフトで 巨人はもう1名逆指名で選手を獲得して いるそれは2位で大学ナンバーワン保守と 言われた明治大学の柳沢雄一選手だなんだ かんだ大学生の有力選手を複数名獲得でき てたんじゃない93年の巨人は歳の村田 真一選手が正捕手を務めており 柳沢選手はその後釜として見込まれていた んだ戦力事情にマッチした使命だったのね 期待が高かった柳沢選手だが 打撃力の低さがネックとなりプロ3年間で

の出場数はわずかに3試合97年は村田 選手に衰えが目立つようになっていたため 57試合に出場したものの135打席で 打率2割1分5厘OPS492本塁打と 打点はゼロに終わったんだ135打席も 立って0打点なんてことあるの 結局この97年が巨人でのキャリアハイと なり98年以降は再び出番が激減し99年 のシーズン途中にオリックスへトレードさ れてしまったんだ 身の選手と同じ年に放出されちゃったのね 90年代後半の巨人は村田選手の衰えが 目立つようになり保守の打力がチームの アキレス腱となっていく安倍選手が加入 するまでは捕手の人材難が続いたもんね 90年代のセリーグは古田敦也を筆頭に 谷繁元信西 習字中村剛志らの優秀な捕手が多数いた 時代であった 巨人は捕手の部分で他球団に水をあけられ ていたのね 選手本人だけが悪いわけではないが高い リソースを割いてまで獲得した柳沢選手が 戦力にならなかったことはその後チーム 状況を苦しくするものとなってしまったん だ逆指名概念はほとんど成果を上げられ なかったことがよくわかったわここからは 逆指名制度で獲得しながら 活躍しなかった選手個人に絞って話を進め ていこうその年ごとのドラフトレビューで はなくあくまで選手に絞るってことね大 失敗に終わった93年のドラフトの翌年 94年のドラフトでも巨人は2人の逆指名 選手を獲得する 懲りずにまた高いリソースをぶっこんだの ね1位で獲得した川原純一投手はキャンプ にパートナーを凝縮させていたことが判明 し 球団から厳重注意と罰金200万円を 受けるなど私生活でのトラブルが多々あっ たが2002年の日本一になった時に 守護神を任されるなど一定の成果を もたらした 途中にめちゃくちゃ気になるトピックあっ たけど今日は触れないでおくわ2位では 早稲田大学の織田純也投手を獲得している 巨人と早稲田大学って 桑田選手の時のドラフトで因縁がある イメージだったけど逆指名で選手を獲得 できる関係だったんだ降りた投手は6大学 時代に降りた降りたまた降りた1周挟んで また降りたと言われるほど毎試合のように 登板した鉄腕で4年間で527回3分の1 を投げさせられているそれってどれくらい 多いことなの6大学リーグ史上6番目に

多い数で平成以降では最多の投球イニング だなとんでもなく酷使されてるじゃない また打者としても優れた選手で通算9本塁 打をマークこれは投手登録の選手としては 6大学リーグで最多の記録でもあるんだ6 大学史上最強の二刀流選手だったってこと 大学4年時にはエースで4番でキャプテン を務めることもあり 投手として登板しないときは野手としても 出場していた織田選手だがやはりメイン ポジションは投手だ大学通算で歴代10 位隊の10勝を挙げ防御率2.83で ベストナインも2回獲得している 打撃では通算で209打数47安打で打率 2割2分と 突出した成績を残してるわけではないから な 野手の練習をどれだけしていたかは分から ないけどプロで活躍を見込めるのは投手の 方って感じね降りた投手のプロ1年目は1 軍での登板はなし2年目にようやく初登板 を果たすが全試合救援で16登板し防御率 4.57と目立った活躍はできなかったん だ大卒のドラフトに意図してはかなり物 足りないスタートねここから降りた投手の キャリアは迷走を辿るようになる96年は 1軍での登板機会がなくシーズン終盤には 長嶋茂雄監督の発案で捕手に転向えドラに 投手をキャッチャーにしちゃったの前述の 通りこの時期の巨人は捕手の人材なんだっ たことと降りた選手の打撃センスを見込ん でのコンバートだったんだ 肩に囚われないミスターらしいいっちゃ らしいけど前例のない選手起用ねただ捕手 の守備は難易度が高かったようでそもそも 守備がままならずコンバート早々に一塁手 へと転向 結局98年のシーズン途中に再び投手登録 となるも1軍での出場機会は与えられず 99年をもって現役を引退 結局1軍での出場は95年の15登板だけ とほとんど戦力にはなれなかったんだ あまり多くは語られない二刀流の負の歴史 って感じねまあ投手としての戦力化が望み づらいことからの苦肉の策って感じだから 球団を責められない部分もあるでしょう けどよく95年のドラフトでは日本生命の 西都を逆指名で獲得これが巨人史上最初の 当たり逆指名選手と言ってもいいだろう1 年目に新人王を獲得するとその後は長らく セカンドのレギュラーを務めオールスター 5回ゴールデングラブ賞4回の実績を残し ている 巨人の平成最強二塁手と呼んでも過言では ないわねその翌年の1996年に

巨人は2年ぶり3回目の同1年度に2名の 逆指名選手をを獲得することになる1年に 獲得できる逆指名選手は2名までだから ほぼ毎年のように枠を上限いっぱいまで 使ってたんじゃないFA含めて使える精度 があるなら最大限フル活用するって球団だ からな 賛否両論あるけどそれだけどこよりも勝つ ことに本気であることの証明でもあるよね この96年はアトランタオリンピックが 行われた年で日本の銀メダル獲得に貢献し た五輪メンバーの進路に注目が集まってい たこの時の日本代表には前述した井口松中 の他にも今岡真琴 谷義ともらの逸材野手がおり 投手も河村たけを三沢光一 森中正雄らの粒ぞろいな人材がいたんだ さすがにオールアマでもメダル獲得する だけあって 豪華な面々じゃない 余談だがこのほかにも黒田大樹 森進一 森のまさひこ岩村明憲関本健太郎和田一浩 小笠原道弘 磯部公一小坂誠といったそうそうたる メンバーがプロ入りした年でもあったんだ 上位から開始明でこれだけ多くの選手が後 に1軍で活躍したんだから 巨人もそれなりに成果があったのよねまず 1位で獲得した入り木優作投手は1年目 から1軍で活躍し2001年には13勝4 敗を記録するなどやや活躍が短期的では あったが 即戦力投手として貢献ミサは鈴木隆弘と1 軍の選手層を厚くしてくれた選手も複数 獲得できたため一定の成果はあったと言っ ていいだろうただこの都市逆指名で獲得し たオのひとし投手はかなり期待を裏切る 結果となってしまったんだそんなに前評判 が高かった選手だったの小野投手は秋田 経済法科大附属高校2年次に春夏連続で 甲子園に出場2年春の鳥取西線で1試合 15奪三振を記録するなど本格派 サウスポーとして常に注目を集めたさらに 3年生の時には史上初の高校生で全日本 代表に選出されて世界選手権に出場当時 世界最強と言われたキューバ相手に高騰し たことで小野投手の評価はうなぎ上りに なったんだ これだけの逸材となるとプロからも相当数 の声がかかったんじゃないの 身長187cmの超高級左腕には8球団 以上が競合するのではと噂されたが小野 投手はオリンピック出場を目指して 日本石油に入社目論見通りアトランタ五輪

に出場し 銀メダルを獲得したものの自身は故障の 影響で不本意な社会人生活を送ったんだ 伸び悩んでしまったのね社会人での低調な パフォーマンスで評価を落としてしまった が 巨人は小野投手のポテンシャルを買って逆 指名で獲得することを決断評価が下がって たってことは逆に言えば獲得しやすい状況 でもあったわけだしうまく再生できれば 儲けものじゃない 期待が大きかった小野投手だが1年目は わずか1試合のみの先発に終わり防御率も 6.75と散々な結果となる2年目は後半 戦から1軍ローテで起用されたものの59 イニングを投げて防御率5.19と 打ち込まれ2勝7敗に終わったんだいくら 素材型とはいえこの成績では来季以降自体 が持てないわね2年目のオフには背番号 12を剥奪され47に変更となったこと からもわかる通り 球団内での序列は大きく下がってしまう3 年目以降はほとんど1軍での出場機会は 与えられず2002年のオフにはトレード で近鉄A移籍することになったんだリスク は承知だったとはいえまさかここまでもの にならないとはって感じだったでしょうね 余談だが小野投手は2軍では実績を残して おり2000年は最多勝最高勝率 殊勲賞を受賞2001年にはノーヒット ノーランを達成し2002年には防御率 1.68で最優秀防御率も獲得しているん だよく打者で2軍の帝王って話は聞くけど 投手版もいたのね小野投手は近鉄移籍後に 一度も1軍に登板することなく2003年 オフに戦力外通告を受けて退団その後は アメリカのマイナーリーグでプレーした もののメジャー契約は勝ち取れず現役引退 となっているそういえば最近似たような 名前の人が捕まってニュースになって なかったっけ残念なに引退後の小野さんは ネガティブな話題で世間を騒がせることが たびたび起こってしまう2021年には スーパーなどでお酒をセットし 懲役3年保護観察付き執行猶予5年の判決 を受けたさらに2023年にまたもお酒を 窃盗した疑いで 逮捕されている ちなみに犯行の同期は生活費のためで 逮捕された当時の職業は負傷であった せっかく盗むのなら現役時代に先輩投資 たちの高い技術を盗んで欲しかったわね しかしこれだけ逆指名選手を外したとなる と 巨人がこの頃から裏金を払ってまでも逸材

を獲得しようとしたのも辻褄が合うわね 決して褒められることではないけど他球団 も行ってた中で悪い意味で競争が激化して しまったんだろうな 冒頭紹介した通り97年以降のドラフトで 獲得した逆指名選手たちは9回の趨勢を 変えてしまうほどの活躍を見せる97年の 高橋由伸98年の上原99年の高橋尚成 2000年の阿部2003年の内海といっ た具合にだ結果論ではあるけど 如実に選手の質が上がってるわねただそれ でも逆指名選手の失敗がなくなったわけで はない99年に田村コピーの谷ひろや投手 を兄で獲得したが他に投手はプロ3年目に 1軍で2試合登板しただけで戦力外通告を 受けて対談しているんだえった3年で逆 指名選手を解雇したの何か大きな故障でも しちゃったの真相は分からないが 巨人を戦力外になった直後にロッテが獲得 しているため 怪我の戦は薄いだろう 純粋に戦力としては見込みなしって思われ たのね 移籍したロッテでは登板機会がないまま わずか1年で戦力外となり現役を引退当時 田村投手のことで記憶に残っていることと いえば長島監督に谷コピーの田村君と呼ば れてることが 選手名鑑に書かれていたことくらいだ ジョニーデップだかデニージョップだか 怪しくなるおじいちゃんみたいじゃない 続く2000年に逆指名を受けて2位で 獲得した立教大の上の幽閉投手もまた即 戦力になった選手の一人だアマチュア時代 から超トップレベルだった選手は戦力に なってるけどそれ以外はあまり戦力化でき ていないのね上野投手は金沢辰巳丘高校 時代から注目された投手で高校時点で ドラフト1位もあるのではと騒がれていた んだそんな投手がなぜ大学を経由してプロ 入りしたの一説によると 巨人が2位での指名を検討していたがこの 年の巨人は逆指名で入りき小野投手の獲得 が決定していたそのため巨人は上位指名で 獲得することができなかったので大学卒業 に獲得するという密約を交わして上野投手 は進学したとされている 横浜ベイスターズ大失敗ドラフトの時にも 紹介したけどこの当時は高校生の逸材が 将来の上位指名を確約されて進学したり 社会人に進むケースもあったのよねその 密約のせいで進んだカテゴリで思うような 結果を残せてない選手を上位で指名せざる を得ないケースもあったんだがなひょっと してこの上の投手もそうだったの真相は

分からないがそういう噂もないわけでは ない上野投手は大学3年生の秋のシーズン でリーグ戦4勝を挙げチームを17期ぶり の優勝に導きベストナインにも選出された んだだが4年の春の時に型を故障して しまいパフォーマンスが低下多くの球団が 手を引く中 巨人だけは上野投手を高く評価しこの都市 逆指名で獲得したわけだ 故障が言えれば使えると判断したのか 密約があったのかは当事者のみぞ知るだ けど普通に考えたらかなりリスキーな使命 だよねまして八尾の投手の時に停滞思いを してるわけだから上野投手はプロ1年目に 1軍で初登板を果たしたものの 投げたのはこの時の1イニングのみ2年目 の自主トレ中に右足室外機2さらに夏場に は右肘 靭帯の部分断裂を発症しオフには手術を 行ったんだプロ入り前もプロ入り後も怪我 との戦いだったのね2004年に2軍で 手術後初の実戦登板を果たしたものの その後再び右肘痛が再発現役続行を悩んで いたため 異例となる契約今回を延期し自主トレに 励んでいたが2005年1月に引退を決意 したんだ 結局プロでの登板はルーキーイヤーの1 試合だけに終わっちゃったのね上野投手は 引退後スコアラーとしてチームに残留その 後は広報データ分析室 育成ディレクター兼医療 コンディショニング室長補佐など様々な 役割を歴任し チームに貢献しているもちろん人柄とか 仕事っぷりもあるんでしょうけどこれだけ 引退後に手厚いフォローを受けてるのを 見るに入団時に何かあったのではと勘ぐっ てしまうわね最後に紹介するのは2004 年の自由獲得枠で指名した2人の投手だ また同1年度に2人も戦力にならなかった 選手を獲得したのこの年はシダックスの 間口たかひこさらに八戸大学幹人志投手を 獲得している 野間口投手って裏金問題で話題になった 選手よね結果的にその事件は野間口投手の キャリアで最も注目された出来事となって しまったな 野間口投手は高校時代から注目されていた 投手で関西創価高校時代にはの選抜で チームをベスト4に導いたんだ 卒業後の進路が注目されたがプロからの 誘いを断って 創価大学に進むことになったしかし大学 野球とは水が合わず

退学を決断し当時の村克也監督が率いてい た社会人のシダックス野球部に入社したん だどうせ教わるなら日本球界最高峰の指導 者に支持することにしたんだ入社1年目の 都市対抗野球ではエースとしてチームを 牽引し 準優勝に貢献若獅子賞を獲得し大会優秀 選手にも選出されるなどこの時点ですでに アマチュアナンバーワン投手として評価さ れるようになったんだドラフトまで2年を 残した段階でこれだけの実績と知名度が あるとなるとそれは裏で体操な額のお金が 動くでしょうよ事実の間口投手を巡っては 巨人 阪神西武の3球団が熱心に動くようになる 阪神が2003年のドラフトでシダックス の庄田隆弘選手を6巡目で指名したかと 思えば 巨人は野村監督の息子である克典選手を 金銭トレードで獲得したんだわかりやすく 堂々と 野間口投手を獲得するためのレールを敷い ていたのね最終的に野間口投手を射止めた のは巨人になるドラフトイヤーとなった 2004年の7月の時点ではシダックス側 から西武と阪神に正式な断りの連絡が入っ たそうだ 札束構成の効果が出たのね2012年に 朝日新聞が報じたところによると 野間口投手への契約金は7億円にまで達し ておりそれとは別に数回に渡り200万円 が渡されていたそうだそれだけ多額の コストを支払ってまで獲得したんだから 即戦力の活躍をしてくれないと困るわよね 非常に前評判が高かったの間口投手は1年 目の5月には1軍登板を果たすことになる 5回4失点と打ち込まれてしまったが雨天 後回コールドとなり非常に珍しい形でプロ 初登板初勝利初完投を達成したんだドラ1 らしい持ってるスタートにも見えるけど後 の結果を知って聞くと 暗雲立ち込めた船出だったようにも思える わねその後は交流戦で投手の岩本ボトムに 本塁打を浴びるなど期待とは程遠い投球が 続き 故障もあったためシーズン終盤は2軍 暮らしが続くことになる最終的に1年目は 47回3分の2を投げて防御率6.61と 3単体たる結果に終わったんだ支払った コストを考えれば物足りなさすぎる1年目 だったのねその後は毎年のように先発 ローテ候補として期待を寄せられるものの 結果を残せないシーズンが続いていくある 試合の後には 原監督から彼を先発で起用した私が間違っ

ていましたときつい言葉をもらうことも あったんだ 期待の裏返しではあるんでしょうけど なかなか辛辣なコメントね2009年から は救援に転向し2011年にはフォームを 再度スローに変えるなど試行錯誤を続けた がドラフト前の期待値を考えれば物足り ないシーズンが続く2013年には トミージョン手術を受けたためプロ入り後 は初めて1軍での登板機械0に終わって しまいオフには育成契約選手となって しまったんだ 故障で当面はリハビリが続くからとはいえ 逆指名で入団した投手が支配下登録から 外れるなんてね2015年シーズンには 再び支配下登録選手へ復帰したものの2軍 でも防御率7.11と打ち込まれ1軍での 登板機会はなしオフには戦力外通告を受け たためこの年限りで現役引退となったんだ これまでに紹介した選手たちと比べれば1 軍でそれなりに登板機会を得てる分マシに 思えるけど裏金問題があったことを抜きに してもドラ1投手としてはかなり物足り ないキャリアになっちゃったのね 野間口投手がドラフトされた2004年は 大学社会人投手ビッグ3と称された日大 ナスの匠明治第一話康弘らもいたが彼らも またプロでは前評判通りの活躍には至って いない 契約金や栄養費だけを考えればプロ野球の ドラフト史上最高のビッグ3ではあった けどね同じ年にドラフトされた投手の中で は 契約金が高騰してない高卒のダルビッシュ や和久井秀明投手の方が大成して るってのは何だか皮肉な結果に感じるわ なぜ当時はの 獲得競争があれだけ過熱したのか今となっ ては不思議なものに思えるよなそうそう もう一人の自由枠で獲得した幹ひとし投手 のキャリアはどうだったの実はこの年の ドラフトで 巨人は野間口市場の両取りを画策していた んだだが市場投手を巡る栄養費問題を受け て 獲得を断念その代わりに逆指名で入団と なったのがこの幹投手だったんだあの事件 で損したり 被害をかぶった人もいる一方で得をした 選手もいたのね三木投手の1軍実績はプロ 1年目と3年目にともに4試合に救援登板 ただ両面とも防御率10点台を超えるほど 打ち込まれるなどプロでは全く活躍ができ ず4年目から育成契約選手となってしまう 怪我でもなく単に実力が伴わずにわずか3

年で支配下選手登録から外されるなんて なかなかシビアな世界ね 育成契約となった2008年は2軍ですら わずか5試合の登板に終わりオフには2年 連続2度目の戦力外通告を受けて 巨人を対談になったんだプロで活躍する 糸口をつかめずに終わってしまったわけか 93年に導入され2006年まで14年間 続いた希望入団枠制度のドラフトで 巨人を逆指名した選手は延べ22名こうし て振り返ってみると3人に1人は全くと 言っていいほど戦力にならなかった選手も いるわけだなこれを多いと見るか少ないと 見るかは判断が分かれるところだけど 巨人の場合はものすごく活躍した逆指名 選手もいる分キャップの大きさですごく 目利きが下手に感じちゃうわね 余談だが2005年の希望枠で獲得した 福田聡投手は2015年に発覚した野球 賭博事件に関与したとして無機失格の処分 を受けているな22人しかいない逆指名 選手の中に 窃盗裏金 賭博事件に関与してた選手がいるって 率高すぎじゃない 今回は新三大編成巨人で首脳陣フロントと の確執が噂されて主力が退団した事例を 紹介していくぜ新3台の跡がかなり長いわ ねなんだかライトノベル小説のタイトル みたいだわ正直うまくまとまらなくて冗長 的になってしまったんだがそこは勘弁して くれ確執が噂されてってことは中には不 確定な情報もあるって事あぁ引退後に確執 の噂が本当だったと暴露した選手もいれば 当時の週刊誌やマスコミが騒ぎ立ててた けど実際は確実はなかったと語る選手も いるのでそのあたりの真相がどうだったか も含めて紹介していくぜお願いするわ新3 代平成巨人主力の確執退団劇一つ目は 1993年の駒田憲仁選手と中畑清コーチ との確執によるFA対談劇だ 巨人からFAするってあんまり聞かないわ ねあ松井秀喜選手や上原浩治投手のように メジャー挑戦を目的したFA移籍はあるが 他球団に移籍するって令和かなり珍しいな 実際2022021年時点で 巨人の生え抜き選手で移籍したのはこの時 の駒田選手だけなんだ人気球団の巨人に 移籍したいって人は多いけど自ら望んで出 ていきたいって選手は少ないでしょうから ねしかも93年といえばまだまだ巨人人気 絶頂の時代だったでしょうしこの巨人史上 唯一の生え抜きFA対談には当時の中畑 打撃コーチとの確執があったと噂されてた んだ中畑さんって暗黒時代のDNAを

雰囲気から明るい方に変えていった イメージがあるからそんな確執があった なんて意外だわ 駒田選手のキャリアを紹介しながらこの 確執騒動について話していくぜ 駒田選手は1980年にドラフト2で入団 桜井商業高校時代はエースで4番を務めて て 巨人は投手として駒田選手を指名したんだ しかし投手としての素質に限界を感じてた 駒田選手はプロ入り後すぐに打者転向を 直訴してるがな 投手として目論んでた高卒ドラ2が いきなり打者転向を懇願するなんて 編成からすればたまったことじゃないわね 本来ならとりあえず投手でってなりそうな ところだが当時の藤田監督が受け入れた ことで1年目の春季キャンプから野手転向 することになったんだ 藤田監督は度量の大きい監督さんだったの ね 駒田選手はプロ3年目に日本プロ野球史上 初となるプロ初打席での満塁本塁打という 華々しいデビューを飾るとプロ7年目には 初めて規定打席に到達して初の二桁となる 15本塁打をマーク 翌88年には自身初の打率3割を記録する とそこから5年連続で2桁本塁打とOPS 80.0声を記録し続けたんだバリバリの 長距離砲ってわけじゃなくてコンスタント に3割二桁本塁打を記録する中距離砲だっ たね 1992年にはキャリアハイとなる27 本塁打でOPSも888を記録しシーズン オフには腹立つのり 斎藤正樹とともに日本人としては巨人史上 初の年俸1億円プレイヤーになってるぜ 人気スター選手の原2年連続で20勝する などして平成の大エースとも言われた斉藤 選手と年俸なんてかなり高く評価されてた のねそんな順風満帆な巨人でのキャリアに 影を落としたのが1993年この年は股 関節痛の影響もあって開幕から調子が 上がらず5月22日の大阪神戦でスタメン 落ちこれによって37試合連続フル イニング出場と450連続試合出場記録が 同時に途切れることになったんだ34年も 不動のレギュラーだった選手にとっては かなり悔しい一日だったでしょうね実は5 月9日のヤクルト戦で駒田選手は送り バントを命じられたんだがそのことについ てあの場面で2番に打たせて3番に送り バントをさせる野球がどの世界にあるん ですかと 首脳陣批判とも取れる発言をしてしまって

たんだそんな采配批判しちゃえば関係も 悪くなっていくわよね 翌日の練習中に中畑コーチからバントの サインを出されたくらいで何をふてくされ てんだ面白くないのかと聞かれこれに駒田 選手はそういう聞き方をされると 面白くないですと回答 売り言葉に買い言葉 って感じで 険悪 状態 ね 記録が途絶えることとなった 前日の試合では1対8の5回にタイムリー 失策をしてしまったんだが大敗だから体制に影響ないでしょ と発言しこれが スタメン落ちの決定打になってしまったみたいなんだ スタメン外しは懲罰的な意味合いもあったってことね 実は中畑 コーチとの食い違いは シーズン開幕前から始まってたそうで キャンプでは日頃 練習してねえから バテるんだと怒鳴られたり オープン戦では試合に出場するかどうかで口論になるなどとにかく 食い違いが多かった そうだぜ 完全に馬が合ってない犬猿の中って感じね 9月になると 中畑 コーチ の このまま オフになったらえらいことになるという トレードを匂わせる 発言が新聞にのり 駒田選手の去就が注目を浴びるようになったんだ こんな時こそ誰かが間に立ってくれたらとも思うけど 監督は 仲裁してくれなかったの 駒田選手は噂の真意を確認するために マネージャーを通して 長嶋監督との話し合いの 受けてくれるようにお願いしたんだが シーズン中だから話せない10月19日に は今は忙しいからダメ周期練習の時は日本 シリーズというビッグイベントの前だから などと 期間をあけて3回も頼み込んだが全て断ら れてしまったそうなんだそんなことされ たら不信感が募るばかりよね周期キャンプ の練習中に思い切って自分から声をかけた そうだが新聞記者にお前と一緒の写真を 撮られたら大変だと逃げられたそうだしな 何よそれ

功労者の主力に対してそんな対応する なんてひどいじゃないこの1993年プロ 野球界で初めてFA制度が導入され3度の 三冠王を獲得し中日で4番を打ってた落合 博満選手が早速FA宣言 巨人が駒田選手と同じポジションの落合 選手を獲得することが濃厚になったことも あり 駒田選手もFAの権利を行使したんだ同じ 一塁手を獲得してる時点で自分は必要とさ れてないとさらに感じたんでしょうねこの 時巨人からは牧原ひろみ投手も防衛宣言し たんだが長嶋監督は槇原投手の背番号17 と同じ数だけのバラの花束を持って自ら 遺留交渉に乗り出したんだそこまで精油を 尽くしてくれるなんて選手料理に尽きる じゃないその一方で巨人がわからの駒田 選手への遺留は一切なかったんだがなそれ はあまりにも寂しいことねFAを宣言する 前に元監督でもある恩師の藤田さんに相談 したところこのままだとトレードだ 巨人を出る勇気と根性はあるかと聞かれ 巨人対談を決意したらしいぜトレードって 直前で破談になることもあるしもし移籍 できなかったら買い殺される可能性もある から自ら退団する道を選んだってことだっ たのねああその当時の横浜の監督をされて た近藤明人さんは藤田政権下の巨人で ヘッドコーチをされててその縁もあって 横浜移籍を決断したそうなんだ 藤田監督って 巨人のしくじりトレードの時には蚊取り 投手に対して冷たい対応をとってたから 少しイメージが悪かったけど 印象が変わったわセーブのより自由契約の 時にも話したが人間性や人間関係は一面 だけを見ててもわからないところがある からな 横浜移籍後の駒田選手は一塁手の レギュラーとして活躍98年にはマシン ガンダ戦の中軸としてベストナインと ゴールデングラブ賞を獲得する活躍を見せ チームの38年ぶりのリーグ優勝と日本一 に貢献したんだ半ば喧嘩別れしたような 巨人を倒しての優勝は格別なものがあった でしょうね2000年には通算2000本 安打を達成して現役を引退引退後は楽天 横浜 独立リーグなどでコーチや監督を歴任し 2021年11月に巨人の3軍監督に就任 し29年ぶりの巨人復帰を果たしてるぜ 移籍先でも結果を残したし時間はかかった けど巨人との関係も修復できたし最終的に はハッピーエンドになりそうで良かったわ 新三大編成巨人主力の確執退団劇2つ目は

2006年の西年久選手と原辰徳監督との 確執によるトレード放出について紹介する ぜこれは結構よく耳にする角質話よね実際 のところはどうだったの 結論から言ってしまうとこの件に関しては 西本人が確実をきっぱり否定してるぜあれ そうだったの西選手の略歴を紹介しながら この噂について解説していくぜ西選手は 1995年に巨人を逆指名してドラフト2 位で入団 少年時代に検証で原選手のサイン入り バットが当選したこともあり台原ファン だったそうなんだもともとは憧れの存在 だったのねなんせ背番号も原監督がつけて た8番を継承してるしな西が8 原8分目とか巨人の背番号8はなんかゴロ が良かったのを覚えてるわ西選手はプロ1 年目からレギュラーに定着するとなんと 巨人では原選手以来となる15年ぶりの 新人王を獲得したんだ2年目以降は二塁手 に転向すると以降は不動の一番セカンドと してチームを牽引20002001年には 一番打者ながら2年連続で20本塁打を 記録し 守っても99年から2002年にかけて年 連続でゴールデングラブ賞を獲得してるぜ まさに順風満帆なキャリアを送ってたのね そんなに四選手に転機が訪れたのが 2002年98年からコーチを務めていた 原さんが監督に就任いよいよ憧れの人の もとでプレイすることになったのね 漫画みたいな話じゃないところが原監督は 就任後にそれまで2番を打つことが多かっ た清水崇之選手を1番で起用することにし たんだ 巨人の1番打者といえば西って時代が長嶋 政権下では続いてたから当時かなり話題に なったわよねその1番に抜擢された清水 選手がシーズン191安打の活躍で最多 安打のタイトルを獲得し チームの日本一に大きく貢献したのとは 対照的に西選手は不慣れな2番起用もあっ てか深刻な打撃不振に陥ってしまい 打率2割4分4厘OPS656で新人以来 6年連続で続いてた規定打席にも到達でき なかったんだもともと積極的に売って出る タイプの選手だから制約が多い2番は向い てなかったって当時言われてたもんね 結局よく2003年も調子を取り戻せず2 年連続で規定打席不足だったんだがこの 年原監督が退任2004年から就任した 堀内恒雄監督が西野再生を掲げ再び西選手 を一番で起用するようになったんだ一番 打者は監督によって色が出やすい ポジションだもんね西選手はこの機体に

応えて自己最多の28本塁打を記録し OPSも二塁手としては破格の804を マークして3年ぶりの規定打席に到達した んだぜ 監督が原さんじゃなくなった途端に息を 吹き返したのねところが2006年に再び 原監督が就任するとまたもや原監督は一番 清水2番にしに戻すことを明言したんだ 一番と2番のどちらが上とかではないけど 西選手は一番に強いこだわりを持ってた みたいだから内心は複雑だったでしょうね 開幕戦では移籍してきた小坂誠選手が2番 セカンドで起用されると以降は併用が続く も西選手のスタメン時には甲斐打で起用さ れることが多くなったんだ 起用法を見る限りどうも原監督からは信用 されてない感じがするわね 結局この年は手首の骨折も影響しキャリア ワーストのわずか64試合出場に止まり 打率1割8分5厘本塁打1本と散々な シーズンとなったんだ 憧れの原監督のもとでは全然成績を残せて なかったのねこの頃から周囲では原監督と 西選手の不仲や角質が噂されるようになっ たんだ 起用法を見るに良好な関係だったようには 思えないわねそんな中で2006年11月 6日西選手は横浜小田島正に内野市プラス 金銭でトレード移籍することが発表された んだ 交換相手の小田島選手って有望株の選手 だったのうーんまず実績だけで言うとこの 時点でプロ6年間で105試合に出場して 通算5本塁打年齢もすでに27歳に到達し ており有望株とも言えない中堅選手だった んだいくらプラスして金銭の支払いがあっ たとはいえ2人の実績を考えると 巨人側にメが少ない不釣り合いなトレード よね若手有望株だったってわけじゃない ならなおさらだしこのトレードにより2人 の不仲を噂する声がさらに大きくなって いったんだ 腹監督就任後の西選手の起用法や 結局遺跡に至ったことを考えるとそう憶測 を立てる人がいても不思議じゃない でしょうね本当のところはどうだったの 実際の関係は外部からはよくわからないが 実はこのトレードに関しては西選手本人が 希望してのものだったそうだぜあれ 厄介払いされたわけじゃなかったのあー 地震が抗争外になったことを悟ってた西 選手は当時の清武秀俊球団代表にトレード を直そしてたそうだぜ西選手の面目を保つ ためにそう言わせてる感じがしないでも ないわねまあ調べても調べても決定的な

証言は出てこないし西選手本人が確執は なかったって言ってるからなでも原監督は 西選手を欲したりしてるじゃない確かに 当時は一番から外したことや試合に使わ ないことをいろいろ書きたてる声もあった が今冷静に振りと 原監督の采配に納得できる部分も結構ある んだぜ 納得できる部分あーまずもともとにし選手 は二塁手としては破格の長打力を誇る一方 で一番打者に求められる出塁率自体はそれ ほど高くなく出塁率のキャリア配話 2000年の3割4分8厘1番打者なら 理想は3割7分くらいは欲しいもんね 2001年以降は出塁率3割を切ることも しばしばで通算でも3割1分7厘しか なかったんだえっそんなに低かったの年度 によるけどリーグ平均よりやや劣るくらい の数字じゃない加えて原監督が最終任した 2006年時点で西選手の年齢は35歳と 2週間を守る選手としてはかなり高齢に 達してたんだ普通に考えたら世代交代を 意識する年齢というか むしろ取り掛かるのがかなり遅れてる くらいよねそうなんだなので一番を外した ことも主力として起用されなくなったこと も 監督としては当然の采配だったようにも 思えるけどなそう考えると巨人で構想が意 になったこともと頷けるし むしろ回殺されるよりは横浜に移籍させて もらって良かったくらいよね実際横浜移籍 後2年間はレギュラーとして活躍できたし 実はこのトレード誰も損してないからな 西野呪いなんて言われるけど当時の状況を 考えると両者にとって合理的な判断がなさ れてたわけね西選手が引退後に出版された プロフェッショナルという著書でも キャリア初の2軍落ちを言い渡された時も 原監督自ら監督室に呼んで 練習してきっかけをつかんでくれ何かあっ たらいつでも電話してこいと激励されたと 綴ってるぜ何よ普通にいい監督と選手の 関係じゃない 原監督はあくまで勝利にこだわって采配を 振るっただけで特別な感情があったわけ じゃなさそうねまあ人の不幸は蜜の味だ から誰かが勝手に妄想して脚色しただけ だったのかもしれないな新3代平成巨人 主力の確執退団劇3つ目は2008年の 二岡智浩選手のスキャンダル発覚からの トレード放出について紹介するぜこれは今 までの監督と選手の不仲ではなくて フロントがブチギレしたって噂の話よね ああ

巨人軍は紳士であれて伝統に背いたことが 逆鱗に触れたっても言われてるな空白の 1日 野球賭博裏金問題その辺は巨人のドロドロ しくじりしでまとめるとして今回の仁岡 選手についてだ 坂本選手の前のショートのレギュラーだっ た選手よね今の若い人たちにはわからない かもしれないがその坂本選手に勝るとも 劣らない人気を誇ったスター選手だったん だぜ二岡選手とドラフトで同期の上原選手 が女性ファンは二岡と慶喜ばっかりって ぼやいてたもんね実際当時の人気発車間近 だし実力も伴ってたからなに岡選手は 1999年にドラフト2で巨人に入団する と1年目からレギュラーの座を掴んで18 本塁打 OBS794の好成績をマーク大卒とは いえ1年目でこんな成績残すショートが出 てきたらそれは人気になるのも頷けるわね 2年目以降も不動のレギュラーで2003 年には打率3割で29本塁打を記録し地震 初のベストナインも獲得年度ごとにやや 成績にムラがあったものの強打の遊撃手と して活躍し 移籍する前年の2007年にも打率2割9 分5厘20本塁打をマークして リーグ優勝に大きく貢献してたんだ 改めて成績を見返すと遊撃手としては破格 の打撃力を誇ってるわねこんなスター選手 がまさかあんなことになっちゃうなんて 2008年に選手会長に就任したに岡選手 だったが右ふくらはぎの肉離れで開幕早々 に戦線離脱 故障離脱してから約3ヶ月が経過した7月 6日に岡選手は復帰が待たれる状況にも 関わらずあろうことか五反田のラブホテル 街に出入りしていたことを週刊誌に すっぱ抜かれたんだただでさえ不倫って イメージが悪いのにしかも故障中の選手 会長がとなると 印象最悪よねこの時利用したホテルが1泊 9,800円だったようだがこれを聞いた 巨人OBのソフトバンク王監督がプロ野球 選手が98500円のところに行くのは いかんわなと的外れな苦言を呈し ネット上では逆にネタ度が加速してしまっ たんだ 王さんだから特に問題にならなかったけど 今こんな発言したら大炎上ものよねこの 騒動により元々7月11日に復帰する予定 だったが1軍復帰は延期に岡選手は謝罪 会見にマルガリで登場したんだ何度も例に 出して申し訳ないけど 坂本選手が丸刈り謝罪会見したって考え

たらかなり衝撃的なことよね 結局に岡選手は7月20日に1軍復帰した ものの 遊撃手の座には坂本勇人選手が定着してた ため三塁手として起用されることに帰って きたらかつての定位置はなくなってたのね その後は右足首を捻挫などもあり再び2軍 落ちなどもあった影響でキャリアワースト の31試合出場で本塁打はわずか1本 チームはリーグ連覇して日本シリーズに まで進出したものの二岡選手自身のポスト シーズン出場機会はなかったんだ前年 キャリア配給の成績を残して年俸に億円に までに到達した選手会長がこんな悔しい シーズンを送ることになるなんてねそして 2008年11月14日 巨人に岡林正則と日本ハムマイケル中村 工藤隆仁との2対2の電撃トレードが発表 されたんだ 騒動からわずか4ヶ月で放出されるなんて 異例中の異例の出来事よね ちなみに岡選手は巨人史上15人目の選手 会長だったが 任期中にトレードされたのは史上初のこと だったらしいぜ当該選手には失礼だけど ちょっとトレード選手の実績が釣り合って ない感じもこのトレードが懲罰に近い印象 を受けてしまうよね 例えるなら今でいう坂本選手と中川幸田 投手が日本ハムの杉浦投手と浅間大輝と トレードされたに近いものだからななんか 巨人と日本ハムてこういう試合以外の ところで騒ぎを起こした選手を引き取り 合ってる印象だわ ちなみに巨人から移籍となった林投手も 2007年に元交際相手の女性に対して ほぼ全裸の字がメールを送ったことが週刊 誌に掲載されて話題になったんだ 球団のイメージを下げた2人が左遷され たってことまあこれ以上にイメージ下げる 騒動を引き起こす投手がこの2008年の ドラフトで入団してくるんだがな 今回は新三大巨人の暗黒時代死を紹介する ぜ 巨人ってずっと強いイメージだけどそんな 3つもまとめるほど暗黒時代があったの 確かに巨人は球団創設以来85回の シーズン中47回のリーグ優勝と22回の 日本一に輝いてる名門中の名門だからな2 年に1回はリーグ優勝して4年に1回は 日本一になってるペースじゃない強い イメージはあったけどまさかそんなに 強かったなんてねますます暗黒時代があっ たのか興味が湧いてきたわ数少なくでは あるが

リーグ最弱レベルまで成績を落とした時期 が数回あるぜ早速紹介してちょうだいよ新 三大巨人の暗黒時代し一つ目は球団史上 唯一の再開となった1975年だ 球団史上唯一引退した長嶋茂雄が監督就任 1年目ということで大いに期待されたが大 惨敗を喫したことで記憶に残ってる オールドファンは多いだろうな 史上唯一の再会ってことは逆に言えば85 回のシーズンで1回しか最下位になって ないのそうだぜそんなに負けたことがない から道理でファンも球団も負けの体制が ないわけね基本的に少しでも弱体化すると えげつない補強で戦力を立て直すからな 巨人は勝ってても戦力補強を怠らない イメージだけどこの年はどうして最下位に なったの一言で言えば上昇軍団の宿命 ネットで受ける言い方にすると末路って やつだなどういうことご存知の方も多い だろうが 巨人は1965年から1973年に9年 連続日本一を達成いわゆるV9と言われる プロ野球史上最高の黄金時代を築いたんだ 連続優勝でもすごいのに一度も日本 シリーズを落としてないってのもすごいわ ねこの前陣未到のV9を達成できた大きな 要因として挙げられるのが 各ポジションの主力を固定化できたことだ と言われてるぜ onコンビ以外にも不動のレギュラーがい たのねああまずV9が始まった1965年 時点のスタメンがこちらだぜ主力選手の 多くが20代とまだまだ若くて数年は栄光 の時代が続きって感じね当時はまだFAや 外国人獲得などの戦力強化の手段が乏しく 短期的に戦力を整えるのが非常に難しかっ たんだなるほどだから逆に言えば一度他 球団に差をつける戦力を整えられれば長く 黄金時代を築きやすい状況だったのね25 歳の王貞治選手以外にも後に2,000本 安打を達成する切り込み隊長の柴大佐を 選手は21歳二塁手の土井創造選手は23 歳で V2の時にドラフト1位で獲得した高田茂 選手も1年目から新人王を獲得する活躍 など非常に若くて強力なチーム編成で9 連覇を果たしたんだそれが1975年の 再開とどう関係してるの V9機関の巨人は勝つことを宿命つけられ たためなかなか思い切った世代交代がし づらい環境が生まれてたんだそもそも主力 のレベルが高いから若手が取って代わるの は難しい状況だしねその結果V9を達成し た1973年の主力はほとんどが30代と いう非常に化した編成になってしまったん

だ長島選手が37歳で大選手も33歳と かなりベテランの域に達してるわね主力の 20代が28歳の高田選手と29歳の柴田 選手ってなかなか厳しい編成じゃない近年 だと落合政権の黄金時代以降の中日が似た ような状況になってたななんだか既視感が あったと思ったら確かに2010年代前半 の中日に似てるわね若手の主力選手が20 代の大島選手と平田選手しかいないって点 も酷似してるしこれはどのスポーツの世界 でもそうだがある程度黄金時代が続くと チームは短期的な結果を求めすぎてしまい 編成が高齢化しやすい傾向にあるんだ ドラフトなどの戦力強化でも素材が他の 高校生じゃなくて 即戦力の大学生やベテランとか中心に獲得 したりするもんねファンも常に勝ち続ける チームを求めてしまいがちだからなこうし たうまく世代交代を図れなかった編成事情 のツケが一気に回ってきたのが 球団史上最初で最後の最下位に繋がって くるたわけだ9連覇もしたチームがなぜ2 年後に最下位になったのかと思ったら 伏線がきっちりあったわけね以前紹介した 巨人暗黒ドラフト氏でも話したが1973 年のドラフトで大量入団拒否されたことも 編成事情を苦しくした要因の一つだ確か この時期は機体のドラ1が急逝したりと いろいろゴタゴタがあったんだもんね 1974年にはミスターコトナガシマシゲ を正捕手の森昌彦 遊撃手のクロエ雪の村の多くの主力が引退 してるんだ4番とセンターラインの要が 2人も抜けちゃったなんてきついわね 巨人も長島の穴埋めとして1974年オフ にバリバリのメジャーリーガーだった デービージョンソンを獲得という手を打っ てるんだそんなにメジャーでの実績がある 選手だったのあ何せメジャーで4度の オールスター選出に3度のゴールドグラブ 賞を獲得 巨人に入団する2年前の1973年には シーズン43本塁打を放った実績を誇って たからなNPBの歴史の中でもトップ クラスのを持った助っ人じゃない V9時代は準決主義を貫いてた巨人が 球団史上初のMLB選手を獲得したわけだ が 1975年は故障もあってわずか91試合 のみの出場に終わり 打率1割9分7厘で13本塁打のみに 終わったんだ飛んだ期待外れの助っ人じゃ ないセリーグ記録の8打席連続三振を 喫するなどさっぱりだったから ジョンソンなんて揶揄する声もあったから

な当時からメディアは辛辣だったのね おまけにこの年は手法の王選手が開幕前に 足を故障した影響で打撃不振 打率打点本塁打率などほとんどの成績を 落としてしまい13年続いてた本塁打王の タイトルも逃したんだ 落とした割にはとんでもない成績だけど 王さん比では確かに物足りない成績ねこう した戦力低下の影響もあってこの年の巨人 を4月終了時点で首位と5.5ゲーム差の 再開でスタートすると9月には球団市場 ワーストの11連敗を喫してしまったんだ 開幕から最後までずっといい なしって感じね7月には前年 最優秀防御率を獲得した主力投手の関本氏が 長嶋監督の投資起用 を週刊誌で批判するというゴタゴタ 劇まで起こってしまったんだ結果が出ない 上に 主力と首脳陣が揉めるなんて最悪じゃない 結局4月以降 一度も再開を脱出することなく 球団史上最下位に終わってるぜ 全くいいところがなく終わってしまったのね ああ優勝した広島とは27ゲーム差の乾杯 わずか47勝に終わり勝率 はなんと3割8分2厘 勝率3割台ってなかなか見ない弱さよね この勝率3割8分2厘首都27ゲーム 差は現在でも巨人の球団市場ワースト の成績だぜ巨人史上最弱の年だったってわけね そんなに弱い年があったなんて知らなかったわ この屈辱的な退廃劇を受けて巨人 フロントは大型補強を敢行 お決まりのやつが始まったのね トレードで日本ハムから 7度の首位打者を獲得した張本勲選手を獲得すると その他にも 太平洋から加藤一と伊原春樹 阪急から水谷隆志広島からおまた進むを 次々と補強したんだなんよさっきこの時期 は補強手段が限られるって言ったじゃない 手段が限られる中で今あげた選手たちを トレードだけで獲得したってことからも 巨人の本気度が伺えるだろう1年で4球団 とトレードって確かにかなり積極的な血の 入れ替えをしているわねその補強が実り 1976年のシーズンに張本選手は打率3 割5分5厘23本塁打93打点の活躍で 長嶋が引退して落ちていた攻撃力をカバー さらには前年不振のジョンソンも26本塁 打 OPS904の構成績で実力の片鱗を見せ たんだ ジョント君になってるじゃない

投手陣でも移籍1年目の加藤投手が15勝 4敗の活躍で最高勝率のタイトルを獲得 するなど 遠田ともに補強効果が大きく実を結んだん だ 補強手段が限られたこの時代にそこまで 劇的に戦力を整えられたなんてさすが巨人 ねその結果1976年の巨人は前年最下位 から一転して勝率6割2分8厘でリーグ 優勝に輝いてるんだ 球団史上初の最下位からわずか1年で本来 いるべき場所に帰ってきたのねこの年は5 月24連勝した後に8月にも13連勝する ほどの強さを見せてるからないつの時代も 巨人を怒らせるととんでもない大型補強 からの巻き返しが待ってるのね新三大巨人 の暗黒時代し2つ目は球団最多敗戦を喫し た2005年だ 史上最低勝率の次は最多敗戦ねこの年は 交流戦初年度だったこともあって試合数が 146試合とかなり多かったのも最多配線 数となった一因だなこの年の巨人はどうし てそんなに弱かったのよ 原因は色々あって前年強みであった野手人 の不調 球団市場ワーストの防御率 補強選手が次々と結果を残せなかったこと が挙げられるなペナントで勝てない要素 全てが出てしまってるじゃない一つ一つ 解説していこうまず前年リーグダントツの 738得点を記録し最強打線とも言われた 野手陣はこの年得点数がリーグ4位の 617へと低下試合数は8試合増えたのに 100得点以上も減少してるじゃない 原因は何だったの今回のケースも先ほどの 1975年と同様にベテラン変調な編成の デメリットが書に出た格好だな主力選手の OPSを見てみると前年本塁打王で37歳 のローズはOPSを955から8153歳 の小久保は1.013から 88434歳の西都は804から 67038歳の清原和博は954から 753とベテラン選手たちが軒並み成績を 下げてしまったんだそもそも成績が一気に 下がるリスクを抱えたベテラン選手を多数 抱えてたのねおまけに働き盛りのはずの 30歳高橋慶喜も966から 86826歳の安倍晋之助も1.016 から863へと下げたとあっては得点力を 維持するってが土台無理な話だったんだ それで得点力が平凡な数値まで落ちて しまったのね加えて基本的に野手は ベテランになればなるほど 守備範囲が狭くなる傾向がある中で34歳 の西ヶ瀬間ぞ37歳のローズがセンターを

務めるなど 守備面もかなりチームのアキレス腱となっ ていたんだショートのに岡選手も決して 守備範囲が広かったとは言えなかったしね 守備のまずさと先発のコマ不足もあって 失点数も前年の677失点から リーグ5位の737失点へと大幅に増加し てるぜ当然投手自体が振るわなかった影響 も大きいでしょうけどあの主人を見るに 守備に足を引っ張られた側面もある でしょうしねその結果得点差は前年リーグ 2位の61だったところから5位の マイナス120まで悪化してしまったんだ 1年で得失点がマイナス181点も悪化し てるじゃないこれだけチームが高齢化して たのに 編成は何も手を打たなかったのこの年は 就任2年目の堀内監督のもと開幕前はの メモリの野球を標榜してたんだ 守れる選手がどこにいたのよ実はこの年の 巨人はゲームキャプラーというメジャーで も活躍した外野守備の名手を獲得してたん だあれでも主力打者一覧に名前がなかった わよキャプラー選手は開幕こそセンターの レギュラーとして起用されたが開幕から 連続17打席ノーヒットと打撃に苦しみ 結果的に120打席に立って打率1割5分 3厘と期待に応えられずシーズン途中の7 月8日に本人合意の上で契約解除されてる んだ 期待の外国人選手が計算通りに働いてくれ なかったのねおまけに守護神候補として 期待していたダンミセリ投手も計算外に 終わったんだミセリ投手は知ってるわ 巨人史上最悪のダメスケットって話をよく 聞くわミセリ投手は前年メジャーで74 試合に登板して防御率3.59で24 ホールドの成績を残し通算でも579登板 の実績を持ったメジャーリーガーだったん だそんなにすごい投手だったのねところが 蓋を開けてみると開幕戦で いきなり セーブ 失敗 続く 横浜戦でもさよなら 安打を喫して 開幕から2試合連続で敗戦投手になったんだ 確かその翌日の西武 シチュエーションでは相手の横浜からミセリコールが起こったのよね 相手チームに登板を期待されるほどの 打たれようだったからな 日本での3試合目の登板は 5点ビハインドでの調整 登板になったが1回を3失点とまたも打たれた上に

試合後にはこんなリトルリーグみたいに 狭い球場でやっているからだと発言して 物議を醸したんだ結果は出ないけど文句は 出るっていう最悪の助っ人だったんじゃない巨人 首脳陣は2軍での調整を希望したが ミセリ 投手はこれを拒否 結局 首脳陣 と話し合った結果 4月19日に 球団史上最速で解雇されることになったんだ キャプラー 選手といい シーズン前に期待してた外国人2人が異例の速さで 途中 退団しちゃったの ねこの年は その他にも選手と首脳陣のゴタゴタが相次ぎ 4月のヤクルト戦では 広田すみをコーチがローズの 守備について緩慢だと指摘 たことにローズが月光 投手があれだけ打たれるのも俺のせい ピッチャーも悪いみんな悪いジャイアンツ 下手くそジャイアンツ大嫌い東京に帰ると 記者に不満をぶちまけたんだかなりの怒 りっぷりね当時の巨人は守備も悪かったと か言ってる私たちも噛みつかれてしまい そうじゃないその他にも清原選手が阪神戦 で藤川投手に対して暴言を吐いたり7番に 打順を下げられたことを不服として本塁打 後の堀内監督とのハイタッチを拒否したり と 成績面以外でも チームにネガティブな要素がたくさんあっ たんだ チームが全然1枚岩になってなかったのね 結局チームは開幕から状態が上がらずに8 年ぶりのBクラスに転落前述した通りこの 年に喫した年間80パイは今でも巨人市場 ワーストの敗戦数なんだこの時期は巨人 人気に陰りが出てた時期で 球場も空席が目立ったりと言葉では 言い表せない暗黒感がかなり漂ってたもん ね実際本拠地最終戦の試合後には巨人 ファンからお前が悪いぞコールが起こって しまい予定されてた試合後のセレモニーが 中止される前代未聞の事態になったからな 最下位になったのが30年前だから当時の 巨人ファンのほとんどがこんなに弱い巨人 を経験するのが初めてだったんでしょうね 結局堀内監督は在任中に一度もリーグ優勝 がなくかつ通算成績も負け越しでこれは いずれも巨人史上初の出来事だったんだ

結果的には巨人史上最悪の監督になって しまったのね長嶋さんも現場を去って松井 秀喜選手もメジャー挑戦で対談という 過渡期のチームを任されて難しい側面も あったからやや同情する部分もあるがな この泥沼から巨人はどうやって立て直した の 端的に言えばドラスティックな血の 入れ替えだなまたも本機の補強が始まっ ちゃったのね2005年オフには清原 ローズが対談よく2006年はひとしお トレード放出国母がFAでホークスに復帰 する一方でロッテからスンヨプ日本ハム から小笠原道弘オリックスからたに よしともなどの大物選手を次々と獲得 2006年こそリーグ4位に終わったが 2007年には5年ぶりのリーグ優勝を 果たしそこからリーグ3連覇を達成してる ぜ 潔いくらいの補強で定位置に戻ってくる 感じは9回の名手の維持を感じるわね新三 大巨人の暗黒時代し3つ目は球団史上最多 連敗もあった2017年だ 厳密にはこの年を含めた2015から 2018年までの4年間トータルで暗黒 時代と呼ぶのが適切だろうなこの時期は 記憶に新しいところで高橋由伸監督の表情 がどんどん暗くなっていって心配する巨人 ファンが多かったもんね広島にリーグ3 連覇を許したこともあってこの間の記憶に 乏しい巨人ファンは多いからなオール ブラックスの時といい都合の悪いことを 忘れるのは得意なのねこの年の巨人につい ては過去に 巨人3大失敗大型補強の解説動画で説明し てるので手短に話していくぜ 史上初の同一年度でFA選手獲得した上に 大物外国人も補強しながら 集団史上最長の13連敗を喫してしまった のよねそうなんだその結果チームは 2006年以来の11年ぶりのBクラス 転落2017年オフにもFAで西武から 野上龍馬前年本塁打王の中日ゲレーロ メジャー帰りの上原など多くの選手を補強 したものの67勝71敗と負け越しての リーグ3位 結局高橋由伸監督が辞任することになっ ちゃったもんね先ほどの堀内監督以来の 優勝がなかった監督になってしまったんだ 高橋監督の引退の経緯が経緯だけにもう 少し続けさせてもいいんじゃないかって声 もあったよねまあ4年連続V1は球団 ワースト記録で高橋監督自体もやや停滞感 が漂ってたし 球団としては何かを大きく変えたかったん

だろうな 球団史上最長の13連敗はしたけど ものすごく負けたシーズンがあるわけじゃ ないから新3台の1つにまとめるにはやや インパクトが弱いわねいやそうでもないぜ どうしてそう思うのこの時期の巨人は チーム成績が伸びなかったとともに グラウンド街の不祥事が非常に多かったん だ1軍出場ゼロで退団した巨人のドライチ 氏の時に現役選手の賭博行為があったって 話してたもんねあその他にも原監督が元 暴力団員に1億円を支払ったとされる金銭 問題のトラブルで巨人の敗訴が確定したり 山口俊投手が暴行事件 川の元気 篠原慎平両選手がSNSでわいせつ動画を 流出して出場停止などこれでもかと不祥事 が発覚したからな2018年には柿澤隆弘 選手の接頭事件なんてのもあったしね 紳士たれなんてチーム検証がある球団とは 思えない事件の数々だなそういえば清原 さんの覚醒剤所持が報道されたのもこの 時期だったわよね 霊夢はこの手の話はよく覚えてるもんだな こうして考えるとその前の2つの試合で 勝てなかったとかが可愛く見えるほどの 暗黒っぷりね 球団のイメージが著しく損なわれたって 意味ではこの時期の方がある意味悲惨だっ たからな 賭博 暴力団 覚醒剤わいせつが流出暴行事件 窃盗ってプロ野球の話をしてるとはとても 思えないもんねここから巨人はどうやって 建て直したんだっけ 例によって例のごとく 補強をうまく使ってるな確か2018年 オフにFAで広島から丸吉弘選手を獲得し たのよねそうなんだ実は2018年の巨人 の得失点差はリーグ2位の50と優秀で 優勝した広島の70とは大差なかったんだ 戦力的には2018年の時点で十分リーグ 上位クラスの戦力があったのねああそこ から丸選手を引き抜いたこともあって 2019年の巨人は得失点さをリーグ1位 の90へと改善に成功逆に丸選手が退団し た広島は得失点様-10と大幅に成績を 下げてしまったんだ当然丸選手以外の部分 でも得失点さ増減の要素はあるけど2年 連続リーグMVPの移籍が同一リーグ内で 起これば当然セリーグ会の趨勢は大きく 変化しちゃうもんね 巨人のすごいところはたとえ暗黒機が来て も大型補強で一の状況をプラスに変え

られるところだろうな今回見てきた中でも いずれも補強をうまく使って暗黒機を脱出 してるもんね 暗黒機があった後には7677年と 20192020年は連覇2007から 2009年は3連覇と 暗黒期分を取り返すように連覇してるから なまるで大手金融機関が借金の取り立てに 来て 根こそぎ資産を持っていくかのごとくね いつか巨人のえげつないほどの大型補強し なんてのも解説してほしいわね登録者数が 1万人を超えたら 巨人以外のセリーグ球団ファンが忘れて しまった加工蒸し返していくかあなた結構 性格悪いわねという 今回は新三大巨人の失敗大型補強を紹介 するぜ新3台って3つも失敗大型補強が あるなんていかにも巨人らしいわね そもそも大型補強したことない球団だって 資金力に乏しい球団の貧乏エピソードは別 のお話だ最初に紹介するのは1995年の 巨人だぜ大型っていうくらいだから巨人は かなりお金を使ったの94年オフに巨人は 約30億円の大型補強を敢行したんだ 30億ってすごい数字ね単純計算だけど今 の坂本選手を5人も雇える金額じゃない 95年の最高年俸は落合選手の 3億8000万円だったことを考えると今 以上にインパクトある数字だからなそんな に補強したってことはその時期の巨人は 弱かったのいや94年の巨人はリーグ優勝 を果たし当時日本シリーズ5連覇だった 西武に勝って日本一になってるぜだったら 大型補強の必要はなかったんじゃいや リーグ優勝って言ってもいいの中日との ゲーム差はわずか1.0 遠慮率こそリーグ1位だったが得点数は リーグ4位と得点力不足でおまけに4番の 落合選手はすでに41歳だった上に 打率2割8分で本塁打15本と衰えが隠せ なくなっていたんだまだ松井選手も20歳 と本格化する前だったしちょっと打線が 心配ねあしかも他にレギュラーで20代は 23歳の元木選手だけとかなり高齢化して たんだ 野手人に不安を抱えていたのねああそこで 巨人のフロントは大型補強に乗り出したん だまずはFAでヤクルトの4番だった広さ は勝巳広島の左のエースの川口和久を一気 に獲得してるぜいきなり同じリーグの4番 と左のエースを奪うなんてのっけからフル スロットルねあFA以外にもヤクルトを 自由契約になってた92年のせ本塁打王の ジャックハウエルとも契約したんだ

9293年と連覇してたヤクルトの主軸を 2人も獲得するなんてなかなかえげつない わねしかもその後もトレードで近鉄から 最多勝経験もある泡の秀行を獲得してるし なタイトル獲得経験者を一気に4人も獲得 するなんてとんでもない資金力ね 補強の仕上げは2年総額8億円の超高額 契約でバリバリのメジャーリーガーだった シェーンマックを獲得したんだ最下位が やったとしても引くくらいの補強を日本一 の球団が下なんていくらなんでもやりすぎ なんじゃ実はこの頃の巨人は7677年 8990年に連覇はしたものの連続日本一 はなかったんだ V9こと9年連続日本一なんてした球団に とっては物足りなく感じる成績かもねあ おまけに当時バチバチのライバルだった 西武が黄金時代を築いてたのも 歯がゆかっただろうしなたった1年の日本 一じゃ喜べない状況だったのねこれだけ 補強したんだから 巨人は連覇できたのいや結果から先に言う と圧倒的優勝候補だったのにも関わらず 優勝したヤクルトとは10ゲーム差つけ られて3位に終わったんだえ二人も 引き抜いたヤクルトに大差をつけられてる じゃないどうなってんの実はの目玉だった 広さはハウエル川口は全員が加入した前年 よりも成績を落としてしまったんだ当てに してた戦力が思惑通りにならなかったのが 伸び悩んだ原因だったのねあハウエルに 関しては成績の質自体は悪くなかったんだ が 離婚訴訟問題があって8月に途中帰国した 影響で66試合の出場にとどまってる 4億円の大物メジャーリーガーはどうだっ たのマックは一応本塁打20本を打ったん だが OPSは796と年俸4億円に見合った 活躍とは言い難かったな当時のプロ野球 最高年俸ってことを考えると物足りない 数字ねああ 結局得点数は前年からたったの11点しか 増えずにリーグ4番目と 補強は微妙な結果に終わったんだお金を かければ優勝が保証され るってわけじゃないのねこの大型補強で 獲得した選手はいずれも年齢が30代半ば と高齢化しててそもそも全盛期は過ぎてた しな 衰えが始まった選手を割高で掴まされて しまったなのね新三大巨人の失敗大型補2 つ目は1997年の巨人だぜ一つ目から まだ2年しか経ってないじゃない 巨人も節操がないわね勝つことが宿命付け

られたチームだからな今回はさっきより さらに金額が増えて33億円の超大型補強 になったぜそんなに金かけたってことは 96年の巨人は戦力が整ってなかったの いや96年の巨人はかの有名なメイク ドラマもあって225ゲーム差をつけて リーグ優勝してるぜはまたまたリーグ優勝 した翌年に大型補強したのあーただこの年 の巨人はリーグ優勝こそしたものの日本 シリーズではイチロー率いるオリックスに 敗れてたんだ 巨人軍は日本一以外は優勝じゃないみたい な風潮があるもんねメイクドラマって言葉 は聞こえはいいが一時広島に11.5 ゲーム差つけらたくらい安定感にはかけて たからなシーズンの大半は生きた心地がし なかったでしょうしフロントとしては 強かった実感はなかったのかもねあ 編成面で見ても課題がなかったわけじゃ ないこの年の巨人は優勝したものの得点数 はリーグ4位と平凡な数字だったんだ しかも4番の落合選手は43歳といくら この年3割20本してたとはいえ 翌年急に成績を落とすリスクを抱えてたん だ 打線が弱点になる可能性があったのねあ 投手陣も防御率はリーグ唯一の3点台で トップと数字の上では申し分なかったんだ が 桑田投手がトミージョン手術を受けた影響 で96年は全休してたんだ今でこそ トミージョン手術から復帰する投手も 珍しくないけど当時は復活した前例も 少なくてどこまで復活できるかは未知数 って感じだったもんね 桑田投手とともに平成の3本柱と言われて たエース斎藤正樹が31 牧原ひろみが33歳と主力は高齢化してた しなそんな感じで実は遠田ともに不安要素 があったこともこの年の巨人が大型補強に 踏み切った要因の一つだで巨人はこの年誰 を獲得したの 巨人はこのオフに阪神との争奪戦の上に FAで西武から清原和博選手をを獲得し てるぜ 衰えが懸念される落合の代わりに当時まだ 29歳と若かった同じ長距離砲を獲得した のね戦略としてはアリじゃないのかしらあ 巨人はこれだけで補強の手を緩めず トレードで94年のパリーグ打点王の石井 博夫ロッテで2年連続2桁勝利を挙げた エリックヒルマンなどを次々獲得したんだ 前回とは打って変わってパリーグから 引き抜きまくったのねこれだけの大型補強 とあって当然巨人の連覇は硬いと見る向き

が強くなったんだこれで巨人を優勝予想し ないのはちょっとひねくれすぎてるわよね ああだが3台失敗大型補強に選んでること からもわかる通り97年の巨人は優勝でき なかったんだ簡単に振り返ると 巨人は開幕から波に乗れず5月には月間8 勝14敗とボロボロで再回転転落 結局8月終了時点でも再開と低空飛行が 続き最終的に優勝したヤクルトと20 ゲーム差の4位で6年ぶりのBクラスに 沈んだんだまたまたヤクルトに優勝を奪わ れてるじゃないこの時期は野村ヤクルトと 長島巨人が交互に優勝しあってたからな 補強した選手はどうなったのさ 補強の目玉だった清原選手は32本塁打 95打点と悪くない成績だったんだが三振 数はリーグワーストの152をも喫し 期待外れだと当時の巨人ファンからは かなり批判されたんだ 成績自体は良かった落合選手を解雇して までも獲得してたふん 期待を裏切ったことの反発がすごかったの ねその他の野手でも石井選手は元々近鉄 時代に手首を故障してた影響などもあって わずか25試合だけの出場台湾リーグの 打点王で開幕前に長嶋監督からサードで ゴールデングラブ賞を取れると期待された ルイスも124打席で本塁打ゼロ 守備もお世辞にも上手いとは言えず6月 以降は2軍暮らしと散々な有様だったんだ 今見たら台湾時代の276試合で62失策 って上手いはずがないじゃない 結局大型補強の効果も実らず得点数は前年 から増えるどころか13点減って リーグ4位止まりだったんそういえば投手 の目玉だった2年5億円のヒルマンはどう なったのたった2試合で6イニングだけ 投げただけでほぼ戦力にならなかったぜえ 1イニング投げるだけで約4100万円 なんてなんて羨ましい仕事なの実は ヒルマン投手は左肩を痛めてた影響で 翌年はシーズンを全休してるんだ 結局2年間で6位ニング投げただけで 5億円もらってるから 厳密には1イニングだけで8200万円だ な 巨人は金をドブに捨てたようなものじゃ ない 故障はスポーツ選手の宿命だとはいえ ヒルマン投手はジャックナイフが刺さって いる方に意識が乗っているようだとか常に 違和感を訴えて登板拒否したりと心証も 悪かったしで 巨人史上最悪の外国人と呼ぶ声もある くらいだ

チームは勝てないわ 給料泥棒もいるわで最悪の年になったのね ああ 余談だが当時の球団オーナーだった渡辺 恒雄氏はヒルマンに金をやるから出て行け と激怒したらしいぜ新三大巨人の失敗大型 補強3つ目は2017年の巨人だぜまた 連覇でも狙ったのいや今回は3年ぶりのV 奪還に向けての大型補強だったんだこれ までの2つとは状況の違う補強だったのね ああ2016年の巨人は高橋由伸政権1年 目だったんだが広島27.5ゲーム差を つけられてのに2位なら悪くないんじゃ ないいやニートはいえ貯金はわずかにと 貯金37で独走優勝した広島とはかなり 戦力差がある状況だったんだセリーグの 貯金をほぼ広島が独占してたものねああ そんな状況もあってオフに巨人フロントは かなり本気を出したんだまた節操ないこと をしたのねまずFAで日本ハムから陽岱鋼 横浜から山口俊ソフトバンクから森福政彦 と 史上初のFAトリプル補強を行ったんだ いまだにFA補強したことない球団もあ るっていうのにおっと広島の悪口はそこ までだ話を戻すとその他にも13年に楽天 の日本一に貢献したKCマギーを年俸役に 置く 抑え候補としてアルキメデス神音色を年俸 13億円で獲得してるぜ先発中継ぎ抑え 手法リードオフマンと一気に各ポジション の強化を図ったのね加えて16年は故障の 影響でわずか14登板だった15年の13 勝投手マイコラスが開幕から使えることも あって 巨人を優勝候補に押す声も少なくなかった んだたまに大外しすることもあるけど 巨人は大型補強で成績をV字回復させた こともあるからそう考える人がいても 不思議じゃないわねあかなり期待が 大きかった巨人だが5月25日にかけて 球団史上最長の13連敗をしちまったんだ えかなり早い段階から優勝は絶望的な状況 じゃないその後は調子を取り戻して7月 以降は41勝28敗3引き分けと勝率6割 近く買ったんだが13連敗が響いて 2006年以来の11年ぶりのBクラスに 終わったんだ 補強で優勝どころからCSにすら出られて ないじゃない何のための補強よこれはいけ ませんこの年の補強はメイド安打くっきり 別れる形になっしたんだマギー選手は打率 3割18本塁打でOPS897の大活躍 抑えを任された神ネロ投手も防御率 2.42で29セーブと外国人選手は揃っ

て活躍したんだそんな上澄みがあったはず なのにどうしてBクラスに沈んだの 肝心のトリプルFA組がほとんど機能し なかったのが痛かったな特に目玉だった よう山口の両選手は故障の影響で初出場が 6月にずれ込み チームの13連敗期間の時にはほとんど 出場できてないんだ一番いてほしいときに いてくれないんじゃしかも山口投手に至っ てはシーズン中にも関わらず プライベートの飲酒によるトラブルで 障害と器物損壊の疑いで書類送検される 始末だからな戦力にならない上に 球団のイメージを下げるなんて 結局騒動のペナルティで出場停止処分を 受けた影響もあってわずか4試合の登板に 終わりシーズンオフには長期契約の期間を 1年短縮される処罰を受けたんだそういえ ば森副党首はどうしたの怪我してたわけ じゃないんでしょ 森服投手は開幕当初からセットアッパーと して起用されたんだが開幕7試合で早くも 2敗を喫して2軍落ちその後は昇格と降格 を繰り返して 遺跡1年目は三重試合で防御率3.05を 1勝3敗に終わったんだ めちゃくちゃ悪いわけじゃないけど年俸に 億円って考えるとかなり痛いわね ちなみにオフの契約更改では年俸 8000万円ダウンで1.2億に下げられ てるぜ 結局補強って大して戦力上がらないのね そんなことはないぜ 補強で戦力を上げて順位を上げた球団は 過去にいくつもあるじゃあどうして今回 みたいな大失敗が起きたりするの日本の 場合戦力補強の手段はFAや球団を自由 契約になった外国人選手がメインなので 獲得する時点ではベテランになっている 場合が多いんだ特に今回紹介した9496 年当時はFA取得にかかる年数が今より 長かったしねベテラン選手の場合は年齢に 伴う成績悪化や故障増加のリスクを孕ん でるから 成績を大幅に落とすケースも珍しくないん だ確かに今回紹介された選手の多くは30 代以降の選手ばかりでそのほとんどが成績 を落とすか 怪我で満足に試合に出られてないわねああ 補強は短期的に戦力を高められるメリット がある一方で年齢リスクや高額年俸による 編成コストの増加などのデメリットが出る ケースもあるんだ今回紹介したのはその デメリットが色濃く出たケースだったのね 何事もメリットとデメリットがあって

リスクが存在するってことだなという 今回は優勝したけどどっちだけ他球団 ドン引きの大型補強優勝史を紹介するぜ なんだか特定の球団 しか出てこなさそうな企画ねお察しの通り 実質防球団の大型補強しであり他球団 ファンの恨み節でもあるな以前失敗 大型補強に関する事例を取り上げたけど今回紹介するのは一応 優勝してはいるのね あただ優勝したとはいえあまりに他球団 ファンがドン引いてしまう 大型補強をしたためあまり祝福 ムードが出なかったケースも過去にはあるんだ スポーツファンは単に結果だけでなく それに至る ストーリーを大切にする人も一定数いるもんね 特に日本では生え抜きを重視する風潮は根強く 外様 選手が多すぎると素直に喜べない人もいるんだ そもそも 大型補強して優勝する球団が出てきたのは1993年の オフにFA 導入されてからのイメージだけど合ってるかしら そうだなFA制度導入以前のプロ野球では 主な補強手段がドラフトトレード 外国人選手他球団を自由契約になった の獲得しかなかったんだドラフト外国人 自由契約選手は目利きの問題だし他球団 から戦力を引き抜くわけじゃないから 短期的にリーグの趨勢を変えるほどの補強 をすることがそもそも難しかったのね 唯一大きく戦力を変える手段だったのが トレードだな痛みを伴う覚悟でリスクと 引き換えに大きなリターンを目指す作戦ね この場合は獲得した球団もそれなりに リスクを負っているため 仮に補強が成功しても他球団から恨みを 買うということは少なかったわけだつまり 遺跡によってた球団のファンから不満を 集めるようになったのはごくごく最近の ことってことね21世紀のスポーツ界では 日本のプロ野球に限らず資金力のある チームが小規模マーケットのチームから 優秀な選手を高額な契約金で引き抜くと いう動きが一般的になっていったからな 優秀な人材を留めておくには一定以上の 資金力が必要資本主義が加速したことで スポーツのチームビルディングの形も変化 していったのねただFA制度導入直後から 補強をうまく使って優勝した球団が出てき たわけではない以前 巨人の大型補強失敗しとか 球団別のfa士とかでも紹介したけど90 年代のFAでは選手の目利きに失敗してる ケースも多かったもんねFA制度導入直後

は選手も球団もまだ手探りだったからな それに市場に出てくるのは30代半ばの超 ベテラン選手ばかりで 選手としてのピークはすぎかけてた選手が 多かったんだ今でこそベテラン選手との 高額契約はリスクがあるってのは一般常識 だけどこの頃はまだベテランの力を重視 する風潮があったもんね 野球も進化し続けてて特にピッチングの 球速が早くなるなどの変化によりベテラン 選手が進化に追いつくのが難しくなる環境 が形成されているという影響も無視でき ないな話を戻そうそんなNPBのFA補強 しに大きな変化をもたらしたといえるのが 1994年オフの西武駆動機見やすの ダイエーの電撃移籍だろう西武の痛すぎる FA流出死でも紹介したけど リーグ最強のエースが当時万年Bクラス だったホークスに移籍する前例のない遺跡 劇だったのよねこの補強は革新的なもので それは単に獲得したチームの戦力が増強さ れただけではなく同一リーグのライバル チームの戦力を大幅に削げたという点に その特異性があるんだそれまではトレード など自給弾の戦力を下げる覚悟も必要だっ たけどほぼその必要がなかったわけよね ダイエー移籍後の駆動投手の活躍はここで 詳しく語るまでもないだろうホークス在籍 中の5年間で2度の最多奪三振一度の最 優秀防御率さらには99年にチームを日本 一に導き リーグMVPまで獲得したんだプロ野球で 最初のFA成功事例となったわけね次に FAのエポックメイキングな出来事となっ たのは1996年オフの西武清原和博の 巨人移籍だろうどの辺が革新的な出来事 だったのFA当時の清原選手の年齢は29 歳これは当時の最年少fa権講師だったん だ20代の選手が初めてFA市場に出てき たってわけねそれまでのFAは30代の ベテラン選手ばかりで ピークを過ぎていたり 元の球団との関係が悪化した選手が多かっ たんだそのため高額な金額で遺留する ケースは少なくそもそも残留を諦めてる 場合もあったんだところが清原選手の場合 は西武と揉めたわけではなく単純に新たな 球団での活躍を求めての移籍だったわけね もともとドラフト時点では巨人に入り たかったっていう 夢も叶えられたわけだしそれまでのFAは 短期的な戦力強化を狙ってのものが多かっ たがFA選手を中期的な編成の軸として 獲得できるようになったことはプロ野球の 編成のあり方を劇的に変化させることに

つながっていくんだ逆に言えば出ていか れることが多い資金力に優れない球団に とっては中長期的な観点で編成を考えるの が難しくなっていったわけね例えば今の 西武や日本ハムのようにって90年代の 革新的なFAにどっちもセーブが関わっ てるじゃないのそうなんだ 防衛を利用して獲得する球団と流出して しまう球団の枝分かれがこの辺から始まっ ていったわけだなてっきり巨人の大型補強 しが中心になるかと思ったら 意外にも西武の悲痛なFA流出の歴史の 起源を探ることになるとは思わなかったわ 前置きがいつも通り長くなったがここから は本題のドン引き大型補強優勝史を紹介し ていこう他球団ドン引きの大型補強優勝し 1つ目は1999年オフの巨人だ早速第1 弾は巨人になったのね前述した通りまだ 手探りだったFA補強を最大限にうまく 使って最初に優勝したのがこの2000年 の巨人なんだどの辺がうまく使ったと思う 点なの ズバリゼが非でも優勝したい球団が 即効性重視の補強で劇的に戦力を強化でき た点にある基本的fa権利を行使した選手 は中堅ベテラン選手ばかりでどんなに若く ても20代後半の選手しか市場に出てこ ないゆえに選手としてのピークはかなり 短く戦力として計算できるのはかなり短い 期間が想定されるわけね 補強手段の性質としては 短期的な利得を狙うことに適したチャネル というわけだ90年代の巨人といえば93 年から指揮を取っていた長嶋茂雄監督にぜ がひでも勝たせたいという 球団ファンの思いがかなり強かった時期だ 長島監督本人の熱量はもちろん長嶋さんに 恥をかかせてはならないみたいな風潮も あったもんねただ第二次長島政権の巨人の 成績は決して安定していたとは言い難く 9496年にリーグ優勝したものの連覇は なし97から99年は3年連続V1と 期待されたほどの成績を残していなかった んだ現役時代にV9を経験した人からすれ ば物足りなさすぎる成績水位だったのね 大型補強を敢行することとなる1999年 の巨人について簡単に振り返ろう99年の 巨人は貯金15とまずまずの成績を残して いたが優勝した中日とは6ゲーム差で2位 特典 失点療法でリーグニート好成績を残して おり得失点差65と決して弱くはなかった んだそれくらいの得失点さなら年度によっ ては優勝できちゃう戦力だもんねただ優勝 した中日は得失点差110の好成績で

巨人とは倍近い差をつけてたんだまたこの 年3位に終わった横浜は自慢のマシンガン 打線が再生機であり得点数はリーグ ダントツの711 失点数がリーグ5位と多かったものの特質 点差では巨人を上回る72とかなり自力の ある球団だったんだ 投手力では中日特典力では横浜と 攻守それぞれで巨人を上回る武器を持った 強いチームが同一リーグにいたわけねそこ でまず巨人は広島からFAとなっていた 江藤明選手を獲得 巨人FA移籍後に人的補償放出でも紹介し たけど90年代セリーグ最高の三塁手だっ たのよね広島時代の江藤選手は2度の本塁 打王に 打点王最高出塁率をそれぞれ一度ずつ獲得 ベストナイン5回ゴールデングラブ賞1回 とまさにリーグを代表する三塁手だったん だ移籍することとなる99年も27本塁打 OPS953の好成績を残しており年齢も まだ29歳と若く向こう数年間の活躍が 見込めるFA市場の目玉なんだとんでも ない魅力的な人材ねしかも同一リーグの カープの戦力を削れるし一石二鳥の補強 じゃないのこの時期の巨人の三塁手は元木 大輔がレギュラーを務めることが多かった が99年は打率2割2分9厘6本塁打 OPS626とかなり物足りない成績に 終わっていたんだ チームにとって弱点のポジションに 江藤選手が入る意味はかなり大きいわね ちなみにこの江藤選手は当初横浜入りが 有力視されていたが最終的には巨人が獲得 できた意味は大きいなただでさえ強力だっ たマシンガンダ戦に江藤選手が加わってい たらと考えるといろんな意味で巨人が獲得 できた意味は大きいわね続いて巨人は99 年12月14日にダイエーからFA宣言し ていた工藤公康投手を獲得さっきも紹介し たけどこの年は最優秀防御率最多奪三振 シーズンMVPを獲得したパリーグ最高の 投手だったのよね工藤投手の去就をめぐっ ては地元愛知の中日もかなり獲得にご熱心 だったが最終的にはFA交渉に直接 乗り出した長嶋監督のジャイアンツに来て 男の花道を飾ってくれという口説き文句が 幸いして 巨人入りとなったんだ中日 横浜の戦力補強を阻止した上で 投打の新たな柱を獲得できたなんて なかなかえげつない補強ね 巨人はその後も補強の手を緩めず同年12 月17日にはノムさんと揉めて阪神を自由 契約となっていたダレる名投手を獲得

阪神時代の4200万円を大きく上回る 1億5000万円という高額な契約を提示 したそうだ結果的には広島中日 横浜 阪神の戦力強化の阻止と弱体化に成功した わけね99年の巨人は失点数こそリーグ2 位だったがこれはこの年に重傷を挙げて 新人王を獲得したルーキーの上原浩治の 活躍による部分が大きいあの時の上原投手 の活躍はセンセーショナルだったもんね ただその一方で 斎藤正樹 桑田真澄 牧原ひろみといった90年代を支えた先発 投手たちは成績を落とした上にいずれも 30代と高齢化いつまでも頼っていられ ない状況だったわけね 極めて上原依存度が高かったチーム状況を 考えると工藤メイの両投手を獲得した意味 はあまりにも大きかった2000年の巨人 は7月以降は一度も首位を譲ることなく2 位の中日に8ゲーム差をつけて独走優勝 得点数689 失点数497はいずれもリーグトップで なんと特殊点差192を記録するほどの 圧倒的な戦力を見せつけたんだ特殊点差が 前年から約3倍にまで向上してるじゃない の 攻撃面では 江藤選手が32本塁打91打点OPS 847の活躍でベストナインを獲得広島 時代と比べればやや成績を下げてしまった がサードの攻撃力のグレードアップに つながった影響は大きく 野手陣はミレニアム打線とも称されるほど の破壊的な攻撃力を誇ったんだ優勝決定 試合で見せた伊藤選手の同点グランド スラムはこの年の巨人を象徴するほどの ミラクルだったもんね 投手陣の方でも工藤投手は防御率 3.112勝5敗の好成績でベストナイン ゴールデングラブ賞最優秀投手賞を獲得 する活躍でチームを牽引名投手も来日3年 目で初の規定投球回数に到達し防御率 2.9512勝7敗の活躍でSQの働きを 見せたんだ2人ともエースクラスの活躍し て先発陣の強化に大きく貢献したのねこの 年は前年大活躍だった上原投手が故障の 影響で成績を下げただけに 補強の意味は非常に大きかったわけだ ちなみにこの年は99年ドラフト1位の 高橋尚成投手が新人ながら規定投球回数を クリアし防御率3.189勝をマークする 活躍っぷりだったんだFA外国人選手だけ でなくドラフトで早速戦力補強に成功した

なんて リーグトップクラスの成績を残す選手を 一度の補強で4名も獲得するという 稀に見る大成功を収めた補強となったわけ だな ルールの範囲内とはいえちょっとやりすぎ に感じちゃうわね心から巨人の優勝を喜べ ないというアンチ巨人ファンの反感を買っ た優勝となったわけだ他球団ドン引きの 大型補強優勝し2つ目は2007年オフの 巨人だ 伝説の大型補強から7年後にまた9回を 震撼させる大型補強を行ったのね 悲劇の大量流出死で紹介したヤクルトの 大量流出が行った年でもあるな確か ヤクルトが最下位だった上に 投打の主力をこれでもかと引き抜かれた1 年だったのよね 順を追って説明していこう2007年の 巨人は80勝を挙げる好成績で2002年 以来となる5年ぶりのリーグ優勝を達成 巨人暗黒氏でも紹介したけど 巨人は2000年代半ばに低迷期を迎えて たのよね長島監督の優待松井秀喜の メジャー挑戦など2000年後半に転換期 を迎えていた巨人だがうまく世代交代を 図れずにチームは低迷2005年には球団 市場ワーストとなるシーズン80杯を記録 するなど 泥沼の暗黒機を迎えてタイタンだ年間80 杯で泥沼の暗黒機なんて真の暗黒時代を 経験した球団のファンからすればぬるいわ よね 謎のネガティブ自慢大会が始まりそうだな でその低迷期を脱出すべく 巨人は2006年オフに日本ハムからFA となっていた小笠原道弘選手を獲得さらに はFAで門倉健トレードで谷良しとも無償 トレードで大道 らを獲得するなどの積極補強が2007年 のリーグ優勝につながったわけだな小笠原 の獲得は大きかったけど2000年と 比べるとド派手というほどではないわね 2007年はリーグ優勝こそ達成したもの のクライマックスシリーズでは第2 ステージで中日に3連敗を喫しまさかの 日本シリーズ出場を逃したんだ 巨人にとってみれば リーグ優勝した要因が全て消えてしまう ような屈辱を味わったのねこれが2007 年オフの大型補強につながってしまうわけ だな 怒らせちゃいけないやつを怒らせちゃった わけねこの年最初の補強となったのが12 月5日に横浜を自由契約になっていた

マーククルーン投手を獲得クルーン投手は 横浜時代の2005から2007年にかけ て3年連続で26セーブ以上を記録この 2007年は自己最高となる31セーブを 挙げ防御率は2.76最速161キロを マークする速球が武器の救援投手だ今で こそ160キロを超える急速の投手が 当たり前のようにNPBにもいるけど当時 は破格の急速帯だったもんね2007年の 巨人は上原浩治が抑えを務め防御率 1.7432セーブを上げる活躍だったん だただ上原投手は先発への強いこだわりを 持っていたためよく2008年からは先発 に採点する方針だったため 巨人は新たな抑え候補が必要だったんだ 編成的にはかなり重要な補強だったんじゃ ないのさらに同年の12月11日には ヤクルトからセスぐらいシンガー投手を 獲得ぐらいシンガー投手はNPB1年目と なる2007年に リーグ最多の16勝209イニングを記録 する活躍を見せた リーグ最強投手の一人だったんだ上原投手 が先発採点する見込みだったとはいえ 活躍できるかは未知数な状況の中にあって より戦力として計算しやすい選手を獲得し たのね 巨人の勢いはとどまることはなく年末の 12月29日にはまたもやヤクルトから アレックスラミレス選手を獲得したんだ ヤクルトから投打の柱を引っこ抜くなんて ファンからすれば受け入れがたい補強ね この年の巨人はFAでの補強こそなかった が同一リーグの球団からリーグ最強クラス の外国人選手を3名も獲得する戦略を取っ たんだ超速攻性重視の戦略で 是が非でも日本一奪還を目指したわけね 2008年のセリーグといえば 阪神が伝説的なV1使用した年でもあり 巨人が最大13ゲーム差を逆転したメイク レジェンドの年でもあるわけだ 巨人は大型した割に結構苦戦したシーズン でもあったのね言い換えれば大型補強が なければリーグ連覇は厳しかったとも 言えるな2008年の巨人は前年を上回る 84勝を挙げて勝率5割9分6厘の好成績 でのリーグ優勝得点数はリーグ1位で 失点数も2位となり得失点差99はリーグ 1位だったんだ 十分優勝にふさわしい戦力を有してたのね 遺跡組ではラミレス選手が打率3割1分9 厘45本塁打125打点の活躍で 打点王とシーズンMVPを獲得この年の 巨人は前年OPS982の活躍を見せた 高橋由伸選手が

故障の影響もありわずか91試合の出場で OPS783と成績を大きく下げたんだ 普通リーグ最強打者がそれだけ成績を下げ たら大きく得点力を下げそうなものだけど ラミレス選手がカバーしてくれたわけね 投手陣でもグライシンガー投手が2年連続 でリーグ最多の17勝206イニングを 投げてベストナインと最優秀投手賞に輝い たんだの補強の目玉がそれぞれリーグ最高 クラスの成績を残してるじゃない ヤクルトファンのことを思えば神獣複雑で はあるけどさらにクルーン投手も61試合 に投げて防御率2.21でリーグ最多の 41セーブを記録し最多セーブを獲得した んだ 補強した助っ人外国人選手が揃いも揃って タイトル獲得なんてあまりにもできすぎた 補強ねこの年の巨人は先発採点こうした 上原投手が開幕から不調だったこともあり 先発陣がかなり手薄になっていたんだ確か に投手陣の成績を見るにぐらいシンガー 投手と内海投手以外はお世辞でも褒められ ない成績の先発しかいないわねもし仮に 外国人選手を補強できてなかったら優勝は 厳しかったでしょうねもしヤクルトと横浜 が居住できていたら 阪神の歴史的な部位逸話なかったかもしれ ないな他球団ドン引きの大型補強優勝し3 つ目は2011年オフの巨人だこのまま じゃ新3台他球団ドン引きの巨人大型補強 優勝しになっちゃうわよ本当はあと2つ 紹介したかったが 尺的な問題で新3台にするかもしれないな 毎度毎度の尺読みの甘さよ時間がないから すぐに本題に入ろう2011年の巨人は 優勝した中日と3.5ゲーム差の僅差 ながら リーグ3位に終わったんだただ3位に 終わったものの得点差54はリーグ1位と 好成績で中日の特使って9を大きく上回る 値だったんだ戦力的には十分優勝できる だけのものを持ってたのねただ当然そんな ことで納得する球団ではない勝てるなら 勝つまで取ろうジャイアンツこの年は いわゆる統一球が導入された年だったとは いえ得点数はリーグ3位の471点と低迷 そこで巨人は横浜をFAとなっていた 村田秀一を2年総額5億円の大型契約で 獲得したんだまたもや同一リーグの球団 から貴重な戦力を引き抜いたのねこの時期 の巨人の三塁手事情といえば長年小笠原 選手が務めていたんだしかし小笠原選手は この年打率2割4分2厘5本塁打FPS 653と移籍5年目にして初の大不振 その代役として亀井吉行古き重幸が

スタメン出場することが多くなっていたが どの選手も攻撃力不足でサードは大きな 弱点となっていたんだ 江藤が衰えたらすぐに国母選手を獲得して 国母選手が退団したら今度は小笠原 そして今回は村田選手 この時期の巨人のサードは移籍組の大砲 選手が務めることが多かったのねまた 失点数リーグ 2位の417と優秀だった投手陣の強化も怠らなかった この年のパリーグ最多勝となる 19勝をマークしていたソフトバンクのデニス ホールトンと2年総額6億円で契約 さらには ソフトバンクのフロントと関係が悪化し FA 宣言していた 杉内俊哉投手とは なんと4年 総額 20億円の超大型契約を結んだんだ 悲劇の大量流出 死の時にも紹介したけど この年のホークスはその他にも和田毅 川崎宗則がメジャー挑戦するなど多くの主力選手がチームを去ったのよねまあまだ 当時のソフトバンクフロントは盤石の管理 体制というわけではなかったそうだからな 後述するがこの時の反省で選手査定や選手 との向き合い方を改めたことで 既存にも優しい球団になっていくわけだが 話を巨人に戻そう大型補強を敢行して臨ん だ2012年の巨人は86勝を挙げて2位 の中日20.5ゲーム差をつける独走 っぷりで3年ぶりのリーグ優勝を達成日本 シリーズでも日本ハムを下してこちらも3 年ぶりとなる日本一に輝いたんだ大型補強 をしてきっちり目標を達成したわけね ちなみにこの都市記録した勝率667は 平成の巨人では2番目に高い勝率だったん だ 球団死に残るような独走っぷりだったのね なにせ得点数534 失点数354話ともにリーグ1位で当然 得失点差もトップの180と圧倒的な戦力 を見せつけたんだ 失点数354ってかなり少ないんじゃない の チーム防御率2.14というとより直感的 にわかりやすいだろう個人成績でもかなり 優秀な部類なのにそれがチーム全体の成績 ってとんでもないわねこの年まで統一球が 採用されていたとはいえ 傑出度も非常に高い投手陣だったなこの 優れた防御率は多くの優秀な投手陣を有し ていたために成し得たことだが

遺跡組の活躍も賞賛されるべきだろう 杉内投手は交流戦でのノーヒットノーラン などエースとしてチームを牽引し防御率 2.0412勝を挙げて最多奪三振の タイトルも獲得したんだ本来国内FA市場 に出てくることが極めて稀な人材なのに FAしてくれたなんて 巨人にとっては棚からぼたもちだったわよ ねホールトン投手も規定投球回数をクリア して防御率2.4512勝を挙げる活躍で チームの優勝に貢献してるなこの防御率で もこの年の巨人の中では防御率を押し上げ てる存在になっちゃうのが笑っちゃうわ もともと内海 沢村と優秀な先発はいたものの ローテ3番手以降の人材が手薄だった巨人 にとっては最高の補強になっただ対照的に 村田選手はそんなに活躍しなかったわよね ネット上では優勝受け取り人なんていう 別称も生まれてたし 村田選手の移籍初年度の成績は打率2割5 分2厘12本塁打OPS690と 期待されてた数字には及んでないなただ この年の村田選手は三塁手部門でベスト ナインを獲得するなど リーグ内では上位の三塁手だったんだこの 時期のNPBは特に三塁手の人材不足が 顕著で2010年代後半に宮崎敏郎 岡本和真村上宗隆といった選手が台頭する まで目立った三塁手が存在していなかった という状況が続いてたんだ三塁手の 人材不足の市場にあってともすればサード が弱点になり得た中で 村田選手を獲得したことで 平均以上の攻撃力を保てた点は評価すべ きってことねもともとはサードが弱点だっ た巨人比では 十分大きなプラスになったわけだしそうだ なまた村田選手はよく2013年には打率 3割1分6厘15本塁打OPS896の好 成績で大復活 巨人加入後はやや成績にムラがあったもの の 退団する2017年までにベストナインと ゴールデングラブ賞を3回獲得する活躍を 見せたんだトータルで見た時に 十分成果のあった補強となったのねという わけで今回は新三大他球団ドン引きの大型 補強優勝史を紹介していったぜあれ最初に 言ってたことからタイトル変わってない 尺の関係で今日はここまでとさせてもらう ぜ次回はパリーグ市場最も豪華な補強で ある2014年のソフトバンクの大型補強 について紹介する予定だそんなに凄かった の

ざっとあげるとイデホ サファテウルフスタンリッチ中田健一 岡島秀樹 鶴岡伸也を同じ年に補強してるなええ いろんな球団から戦力を奪いまくってる じゃないのどういう経緯でそれだけの補強 に至ったのか 興味 今回は巨人にFA移籍しながら数年後に 人的保証でた球団に移籍した選手を3名 紹介するぜFA選手って3個の例で 迎え入れられた選手よねそんな選手がFA のプロテクトリストに入らないケースって あるのfagにどんなに必要な戦力だった としても新たな選手を獲得した時に必要 戦力でなければプロテクトされないことは あるだろうなプロ野球って厳しい世界なの ね今回はそんなFAの水も甘いも経験した 選手たちを紹介していくぜ新3大巨人FA 移籍からの人的補償放出一つ目は2005 年オフの江東晃のケースだ ちなみにこの江藤選手がFA移籍と別の 選手のFA移籍に伴う人的保証移籍の両方 を経験した史上初の選手なんだFA移籍の 華やかな一面と残酷な一面の両方を経験し たってわけねまずは伊藤選手の経歴を 振り返っていこう 江藤選手は1988年にドラフト5位で 広島カープに入団プロ2年目に1軍で5 本塁打をキャストその後は1116本と 毎年本塁打数を増加させるとプロ5年目の 1993年には初の規定打席に到達して 34本塁打82打点OPS916の好成績 でなんと初の本塁打王のタイトルを獲得し たんだプロ5年目でホームラン王になる なんてなかなかのエリート選手じゃない しかもドラフト5位の高卒ってことを 考えるとかなりすごいわねあまり語られ ないが90年代最強打者の一人だからな 95年には39本塁打106打点の活躍で 2冠を獲得この94年から96年にかけて は3年連続でOPS1.0000を超える など リーグ最強打者の名を欲しいままにしたん だ今で言うヤクルトの村上宗隆選手クラス の選手だったのねその後も安定した活躍を 見せてた衛藤選手はFAを宣言した 1999年も打率2割9分1厘27本塁打 OPS953の好成績を残してたんだぜ これだけ実績十分でまだまだバリバリで リーグトップクラスの三塁手となるとどこ の球団も欲しがるでしょうね99年オフに 江藤選手がFAを宣言すると 横浜中日 阪神そして巨人の4球団が獲得に名乗りを

上げたんだ同一リーグの広島の戦力を 削れることも考えるとセリーグの球団から したらぜが非でも欲しい人材よね一番熱心 だったのは横浜だったが 江藤選手は最終的に巨人入りを決断年俸 変動型の4年契約を結んだんだなかなかの 長期契約ねFA宣言時点でまだ29歳と 若かったし 常に安定した成績を残してたからな 江藤選手の広島時代の背番号は33番で 奇しくも巨人の長島監督の背番号も33番 だったんだが長島監督はその33番を江藤 選手に譲ることを発表したんだ当時9回で 最も影響力があった選手の背番号を変えて まで迎え入れてくれるなんて 選手冥利に尽きるわね 江藤選手が巨人移籍を決断した理由は マンネリを嫌ったこととあえて重圧の かかるところで自分を追い込みたかったと いうのもあるそうだぜ 巨人にとって伊藤選手は補強ポイントだっ たのああこの年の巨人は優勝した中日とは 6ゲーム佐野2得点力はリーグ2位の 618得点とチームの強みだったが三塁手 のレギュラーだった元木大輔は打率2割2 分9厘本塁打6 OPS626と 打線の中では弱点になってたんだ三塁手の 攻撃力がそんなに低くて618得点も取れ たなら 元木選手から江藤選手に入れ替わるだけで もかなり得点力上がりそうね当時は キンマン補強と揶揄されたが 十分チーム状況にあったピンポイント補強 だったんだ 江藤選手の移籍1年目は32本塁打91 打点OPS847の活躍でベストナインを 獲得またこの年は優勝決定試合で9回に 同点満塁本塁打を放つなどの活躍もあり 最多勝利打点の特別賞も受賞したんだ 昔はそんなタイトルもあったのね 江藤選手の活躍もあってこの年の巨人は1 位の689得点を記録し チームも4年ぶりのリーグ優勝と日本一に 輝いたんだ 補強効果ばっちりじゃないよく2001年 も30本塁打87打点OPS898の活躍 で2年連続ベストナインと 巨人でのチーム盤石かと思われたんだ30 代になって 衰えが来ちゃったのね2002年は序盤 から不調が続き 規定打席に到達しながらも18本塁打56 打点と散々な出来でレギュラー定着後では キャリアワーストとなる

OPS728に終わったんだ三塁手として は物足りなさすぎる成績じゃない2003 年も引き続き不調が続き2軍落ちした時期 もあり11年ぶりに規定打席に到達せず 2004年からは同じ三塁手の国保弘紀 選手が移籍してきたこともあってスタメン 出場はわずか15試合に止まったんだ 完全に序列が下がっちゃったのね何成績し てきた国母選手が打率3割1分4厘41 本塁打を記録しちゃったもんだからな数年 不調に終わっただけでですぐにだいたい 選手が補強されるってのも巨人の選手の 宿命よね自分もそうしてポジションを奪っ たようにな2005年は81試合の出場中 スタメンはわずか5試合と 完全に代打要因となりその肝心の打撃面で も打率1割7分 OPS503キャリア初のシーズン本塁打 0本に終わったんだ代打の切り札にも慣れ てないじゃないオフには野球協約の限度で ある40%を超える現行で契約更改最盛期 の2002年には2億8000万円もらっ てた選手にとって 寂しい結果になったんだ 野球協約の限度額いっぱいって時点で半ば 抗争外だったことが伺えるわねそしてこの 2005年のオフ 巨人はこの年さだまらなかった抑えの座を 固定すべく西武の守護神トヨタキヨシを FAで獲得その人的保証で 江藤選手が移籍することになったのねああ 西武への移籍が決まった直後は気持ちの 整理がつかないと戸惑ったそうだが決まっ た以上はどうにもならないとセーブでの プレイに気持ちを入れ替えたそうだ 巨人に残ってても出番もらえたかは微妙な ところだから 案外あっさり切り替えられたのかもね当初 セーブ側は財政難のため金銭補償のみを 要求する方針だったそうだが当時の伊藤 つとむ監督が右の大砲として期待している まだ老け込む年齢ではない若いチームなの で彼の経験や功績はいい刺激となると高く 評価したことが決め手になって回答期限 間際の1月6日に移籍が決まったそうなん だ自分を求めてくれる人がいるってのは 幸せなことよね 移籍した西武で輝きを取り戻すことは なかったがそれでも2006年は146 打席で5本塁打 OPS769-2008年は111打席で 7本塁打OPS730と主力選手の不調や 故障時に穴を埋める活躍を見せたんだ 腐っても90年代最強打者の一人って感じ がする

渋い働きね2008年にはリーグ優勝と 日本一も経験し 在籍3球団で優勝を経験することになった んだ 巨人での晩年は振るわなかっただけに結果 的には放出されて正解だったのかもね人間 必要とされる場所で働くに限るからな新三 大巨人FA移籍からの人的補償放出2つ目 は2006年オフの工藤公康のケースだ 江藤選手の翌年にも同じケースが発生して たのねそれだけ巨人が数多くの選手をFA で撮ってるって事だな実はこの駆動投手は 1999年オフに 江藤選手と一緒に巨人に入団した選手なん だ同じ年に加入したFA選手が 揃って人的保証で放出されるなんて数奇な 運命ねご存知の方も多いだろうが工藤投手 は西武大英で活躍した左腕で西武大英時代 には重度の二桁勝利4度の最優秀防御率 3度の最高勝率2度の最多奪三振を獲得し た平成初期のNPB最強左腕の一人なんだ なんかとんでもない実績の持ち主ねすごい のは個人タイトルだけじゃないぜ西武時代 には11回のリーグ優勝に8今回の日本一 ダイエー時代の99年には チームを26年ぶり13度目のリーグ優勝 に導いたんだ西武時代の優勝回数もすごい けどダイエーを久々に優勝に導いたっての もかっこいいわね所属したチームを次々に 優勝させることから優勝請負人とも言われ た選手で99年も防御率2.38-196 奪三振で投手に感を達成し西武時代の93 年以来となる2度目のリーグMVPを獲得 したんだ1回MVPを取るだけでも難しい のに 異なるチームでってすごいわね ちなみに同一リーグの別々の球団での受賞 は史上唯一なんだぜFAで移籍して リーグMVP獲得して日本一に導くなんて 最高に気持ちよかったでしょうねそんな 工藤投手だったが99年オフに2度目の FAを宣言 古巣の西武地元愛知の中日はたまた メジャーに挑戦するのではないかと様々な 憶測を呼んだが工藤投手は巨人入りを表明 したんだ 結局みんな巨人なのね 福岡では工藤選手の残留を願って 17万3000人もの署名が集まったそう で工藤投手自身もダイエー残留を基本線と していたそうなんだじゃあどうして巨人に 移籍したのよFAする前の交渉で 駆け引きをしてきた球団に誠意を感じ なかったもうダイエーに残ることはないと 球団に不信感を募らせたことが原因だった

みたいだなファンには見えない裏側の部分 で信用置けない言動があったんでしょうね その点巨人の長嶋監督はストレートにお前 が必要だとラブコールを送ってくれたから なおまけにかなりいい契約が打診されたん でしょいや実は巨人は当初3年9億円 +1年のオプションをつけた大型契約を 打診したそうなんだが工藤投手は単年に 置く1000万円プラス出来高払いの契約 で入団してるんだ金額も契約年数の両方の 条件を自ら下げて契約するなんて何を考え てるのよ何でも長嶋監督が自ら自宅訪問し て 巨人で男の花道を飾ってほしいと言われた ことに体の感銘を受けて入団を決めた らしいぜやっぱりお前が必要だって言わ れることが 選手にとっては何よりの原動力なのね 大きな期待を受けて入団した2000年は 開幕から飛ばしまくって前半戦だけで10 勝を挙げる活躍でチームを牽引最終的には 防御率3.112勝5敗で最高勝率の タイトルを獲得しベストナインゴールデン グラブ賞最優秀投手賞も受賞するなど 期待に違わぬ投球を見せたんだ絶対に活躍 してもらわないと困ると大きな期待を 背負ってその通り活躍するなんて素敵ね 江藤選手のところでも話した通り チームは6年ぶりの日本一に輝き見事3 球団目の日本一を達成したんだ確かこの年 はonシリーズって話題になったのよね何 の運命か工藤投手はフルスダイエットの 日本シリーズになったんだ持ってる人には 必然的に面白い部隊が回ってくるのねこの 活躍があったためオフには2年総額6億円 の大型契約を勝ち取ってるぜ自らした契約 と同等の契約を結果出した後にきっちり 受け取ってるのかっこいいじゃない工藤 投手は2002年もローテの柱として防御 率2.919勝の好成績を上げると日本 シリーズではまたも古巣の西武と対戦また 別のフルスと対戦なんてドラマチック すぎるでしょ工藤投手は第3戦に先発し8 回に失点8奪三振の高騰で勝利投手になり チームを2年ぶりの日本一に導いたんだ 想像以上に優勝請負人をしてたわ2003 年は7勝を挙げると 20042005年は2年連続で2桁勝利 を記録2004年には通算200勝も達成 してるぜ工藤さん 息が長すぎない36歳の年に移籍してきた のに5シーズンも活躍してるじゃないの 移籍後6年で44勝と 衰え知らずの働きを見せてた工藤投手だっ たが2006年は肩のコンディション不良

もあったため 夏場以降は1軍当番なしさすがに40代に なって体調を維持するのは難しかったのね 13取り合いに投げて防御率4.50 参照に終わってしまい 契約更改では限度幅を超える大幅な ダウンテージを受けてこれを保有 越年交渉となったためアリゾナに自主トレ に行ってる際に 悲劇の一方が入ったんだ人的保証が決まっ たのね 巨人がFAで横浜の門倉健投手を獲得した ため 横浜は人的保証で駆動投手を獲得すると 決めたんだしくじり失踪士で紹介した 門倉さんの遺跡がまさかこんな影響を 及ぼしてたなんて 巨人フロントもまさか43歳の工藤投手を 指名するまいと 踏んでたようだがそこを横浜がついてきた わけね当時の清武秀俊球団代表はこのよう な投手を移籍させることは苦渋の選択とし て言いようがないとコメントしたが工藤 投手も自分がフロントだったら43歳の 選手はプロテクトしないと 理解を示したそうなんだまあ普通に考え たら先は長くない大ベテラン投手を指名し ないわよねこの遺跡によって駆動投手の 年俸は前年の2億9000から2億円減の 9000万円ダウン 越年交渉するつもりがだいぶばっさりいか れたわね ちなみにこの2億円ダウンは当時のプロ 野球史上最大の減俸額だったんだぜ大幅 減法士を教えてもらったから感覚麻痺し てるけど普通に考えて2億円ダウンって かなりショッキングな出来事よね本人は新 天地でなんと呼ばれたいかの質問に対して 浜のおじさんでいいですと気さくに答えて たがなまあここまで金も名誉燃えた人から すると必要とされて現役を続けられるなら お金は気にならないのかもね 駆動投手獲得には当初会議的な見方もあっ たが工藤投手はまだまだやれることを1軍 のマウンドで証明するんだ当時すでに44 歳よねああだが工藤投手は移籍した横浜で 19試合に登板して103回3分の2を 投げ防御率3.917勝を挙げる復活劇を 見せたんだ前年肩を痛めた44歳がそんな に活躍するなんて信じられないわオフには 年俸2000万増の1億1000 で契約し再び 年俸を1億円台に戻したんだぜ 年俸が下がったなら 活躍してあげればいいじゃないの

精神 ねその後は2008年は 3試合に登板に終わったがよく 2009年は キャリアで初めて 救援に専念し46試合に登板したんだぜ 46歳のシーズンに46 登板ってどんな超人的な方してるのよ 残念ながら 防御率は6.51と結果は伴わずオフには戦力外通告を受けたが周囲の予想を裏切る形で2年は 1軍 戦力になったんだまあとはいえ 活動期間はどう考えても短くなる 大ベテランを 当時 絶賛 低迷中だった 横浜が獲得する必要があったのかはかなり 疑問が残るがな話が横浜のしくじり 補強 戦略になっちゃいそうだからここで この話は終わりましょうか 新三大巨人FA移籍からの人的補償放出 3つ目は2009年 オフの藤井秀悟のケース だちょっと話が長くなってきたので駆け足で説明していこう 毎度序盤に分量持っていかれすぎなのよ 本当に学ばない人ねついつい話が長くなっ ちまってな 藤井選手は1999年にドラフト2位で ヤクルトに入団プロ2年目には173回3 分の1を投げて防御率3.1714勝8敗 の好成績で最多勝ベストナイン最優秀投手 賞を獲得して チームのリーグ優勝と日本一に貢献したん だプロ2年目でいきなりリーグトップ レベルの先発投手になってるじゃない 2002005年にも規定投球回数防御率 3点台二桁勝利を記録したが 徐々に成績を落とすようになり2007年 は防御率5.05で10敗を喫してしまい オフにはトレードで日本ハムに移籍したん だ結果的には2年目がキャリアハイになっ てしまったのね日本ハムでは規定投球会に こそ達しなかったものの2年連続で100 回以上を投げて防御率は3点台FA下 2009年も7勝5敗防御率3.53と まずまずの成績を残してたんだ めちゃくちゃ低くてあまたな人材ってじゃ ないけど先発の駒不足で悩んでる球団には 結構需要がありそうよねFAした当初は どこか獲得すると思われてて実際阪神や 広島が興味を持ってると報道されてたが 具体的なオファーはなしあれ3代FA宣言 するもオファー無しの時の

木村省吾選手みたいになってない実はこの FAには裏話があって 藤井投手は日本ハムから戦力外を受けてた そうなんだえっ戦力外選手がFAしてたの あただ表向きが戦力外だと書いた書かれて しまうのでFAで移籍先を探してはどうか と 球団から言われてFAしたらしいぜそんな ためにFAってあるんだっけなんか 2021年のノーテンダー事件とは逆の ロジックで 低翼戦力外通告をしてたのねそんな藤井 投手に救いの手を差し伸べたのが 巨人だったんだまあ使えそうなら とりあえず取っておくかの精神で 補強するのが許される球団だもんね 藤井投手は巨人と1年契約を結んだがFA 選手としては異例の年俸100となる 6000万円で合意したんだまあ戦力外 だったらもっと下がってそうだけど 結局下がっちゃったのね 藤井投手は移籍1年目の2010年に先発 で22試合に登板して122回を投げて 防御率3.767勝3敗とローテ投手とし ては及第点の成績を残したんだ年俸 6000万円って考えるとかなりお買い得 なFA補強じゃないこの年の巨人は前年 13章のぐらいシンガーが故障の影響で0 勝前年15勝を挙げてベストナインと ゴールデングラブ賞を獲得したゴンザレス も5勝に終わるなど先発ローテが非常に 手薄になってたんだ 藤井選手を獲得しておいて良かったじゃ ないエース級の穴を埋めたという意味では 数字以上に価値のある貢献だったからな この活躍が認められて年俸は日本ハム時代 の最終年と同様の7000万円に戻ったん だ 貢献度の割に1000万円増って安い気も しないでもないけどまあ翌年活躍して一気 に年俸1億円ってとこかしら 翌年はわずか1試合のみの登板に終わっ てるぜ 怪我してたのいや単純に先発ローテ争いに 敗れて出番をもらえなかったんだこの年は 新人王に輝いた沢村博一投手が200回を 投げて防御率2.03と活躍するなど先発 ローテがかなり強力だったからな 藤井投手はローテが手薄な時には光り輝く けど 投手陣が充実してると余剰人員になっ ちゃう存在なのね 結局この年のオフには25%の減額制限を 超える半減の3500万円で公開したんだ かなりガッツリ下げられちゃったわねこの

辺にすでに構想外の香りが漂ってるが 藤井投手は復活を期してハワイで自主トレ を行ってたんだが待ってさっきもその パターンの話が出てきたわよねさすがだな お察しの通り 海外での自主トレ中に連絡がかかってきて 巨人が村田修一選手を獲得したのでその 人的保証選手として 横浜へ移籍することが通告されたんだ しかもまた横浜なのね連絡がしたのは日本 時間の22時で現地時間の3時に起こされ たそうだぜ 扱いが雑すぎないいくら人的保証で放出が 決まってるとはいえFAで来てくれた選手 を3時に起こすなんてミスタータイガース 放出しでも話したがフロントが放出決定し てる選手に対して冷たいのは結構ある話だ からなもともと絶対に欲しくて来てもらっ たわけじゃないから特に思い入れはなかっ たのかもね 藤井投手自身も引退後に現役生活を 振り返って 首脳陣やメディアの扱いが雑だったことに 不満をあらわにしてるぜどうして藤井投手 はそんなに雑な扱いを受けてたのこの辺は 本人の私生活の言動にしくじり要素が多い からだろうな 藤井選手のしくじりプロ野球人生は別の 機会で紹介するとして 横浜に移籍した藤井投手の成績を振り返っ ていこう34歳での移籍となるとなかなか 成績を残すのは難しいわよねいや 藤井投手は移籍1年目に16試合に先発し て防御率3.75で7勝をマークしたんだ 結構いい成績じゃない 毎回期待されないけど使われたらそれなり の成績を残す投手だったのねよく2013 年は自身11年ぶりとなる関東 完封を記録するなどし117イニングを 投げて防御率3.546勝をマークしたん だ不遇な扱いを受けるのが納得できない くらい結構安定してないどうして重宝され ないのかわからないわこの辺は本人の キャラクターによるところも大きいんだ 一体どんなしくじりエピソードがある選手 なのよ2014年は前年炒めた左肘痛の 影響もあって1軍での公式登板はなくオフ に戦力外通告を受けて 結局この年限りで引退することになったん だトレードFA人的保証ときて最後は戦力 外通告ってなんだかプロ野球人生の光と影 の両面を色んな角度から味わった選手だっ たのね現役引退後は巨人や横浜で打撃投手 を務めたり関西独立リーグ06ブルズの GM補佐検討しコーチに就任したりと

最多勝獲得経験者らしからぬ人とは違った セカンドキャリアを歩んでるぜ 今回は新三大巨人の失敗格差トレードを 紹介するぜトレードってたまに片方だけが 大きく損をすることがあるもんねああ ただ中には年俸削減の目的でトレードさ れるケースもあるから 成績だけで損得決められない部分もあるん だがな最近だと沢村投手が年俸削減の意味 合いも含めてロッテにトレードされたわね そうなんだだから今回はそうした年俸要素 は含まない 純粋な戦力面での強化を図ったのに 巨人が一方的に損したトレードを3つ紹介 していくぜ新3大巨人の失敗格差トレード 一つ目は1989年の12月に成立した 巨人蚊取り吉高投手と西部西岡義弘が野手 のトレードだちょっと古い話でピンと来 ないわね 香取投手について説明してよ 香取投手は1978年に明治大学から ドラフト外で入団しプロ1年目から38 試合に救援登板すると 翌1980年には51試合に登板して防御 率1.78の好成績を残したんだ大卒2年 目で救援投手の一流と言われる成績を残し てたのねああその後も香取投手は毎年 リリー夫人の中心として活躍し 1987年にはリーグ最多の63試合に 登板して防御率1.90の活躍ファンから は香取大明神とも崇められるほどの連闘 っぷりであまりに登板機会が多かったこと から当時の王監督が香取の登板を告げる ピッチャー香取は流行語になるほどだった んだ 成績見てると蚊取り投手は救援登板だけで 100イニング投げてたり結構酷使されて たのねあ当時の抑えは今みたいに1 イニング限定ではなく 複数イニング投げるのが当たり前だった からなこれだけ活躍してた投手がどうして トレードされたの 原因は当時の藤田監督が先発完投を重視 する方針だったことが影響してるな当時は まだまだ先発投手の関東が当たり前の時代 だったもんねああ89年のオフには蚊取り 選手がトレードされるのではないかと 各種メディアが報じてたんだそんな功労者 に対して酷い扱いをするなんて 香取投手も報道の真意が気になって 藤田監督に直接話を聞きに行ったんだが出 たかったら出てもらっても構わんと言われ たらしいいくら方針と違うからってそんな 言われ方したら自分の存在価値がわから なくなるわよねああ

香取投手もそこで気持ちが切れてじゃあ 出させてくださいとトレードを要求した らしいこれだけの選手を放出するわけだ から大物選手とトレードになったの 交換相手はセーブの西岡義弘が癒し 黄金時代の西部にあって左殺しの西岡の 異名を取った左キラーで 規定打席経験はないものの1986年には 243打席で本塁打10本を放ち OPSも835を記録したんだまたあの 野村監督から日本一の方とまで評された 経典の持ち主で86年にはサブの選手 ながらゴールデングラブ賞を獲得してるん だ 酷使されまくって成績下げ始めた32歳の 救援投手と 攻守に潜在能力の高い28歳の外野手って 考えると 巨人の方が得しそうなトレードねああだが 結果的にこのトレードは西武が一方的に 得する展開になったんだ西岡選手は左 キラーとしての役割を与えられたものの レギュラー獲得とまではいかず 規定打席は愚か100試合以上の出場は なし 移籍初年度の192打席で4本塁打OPS 688が巨人での最高成績だったんだ いくら左キラーとはいえ物足りない成績ね あその後もレギュラー獲得とはいかず年々 出場機会を減らして95年には金銭 トレードでロッテに放出されてるぜ 香取投手はどうだったの 香取投手は移籍1年目に抑えを任せられる と27セーブを挙げて自身初の最優秀救援 投手のタイトルを獲得日本シリーズでは 古巣の巨人と対戦して4連勝で日本一に 輝いてるんだ 移籍1年目で個人タイトルも獲得して 放出された相手を倒して日本一になんて 最高の気分だったでしょうね 香取投手の活躍はこの年だけに終わらず 翌91年はよりつ1.78の活躍をし92 年には抑えながら自身初の二桁勝利も記録 してオフには年俸が1億円に到達したんだ 当時救援投手に対して1億円って西武は 相当評価してたのねあエースの確定元4番 の清原正捕手の伊藤選手ですら年俸1億 だった当時の年俸間で言えば 破格の評価だからな 移籍先で現場だけでなくフロントからも しっかり評価されたなんて 選手料理に尽きるわね 結局香取投手は西武の8年間で289試合 に登板して46勝17敗73セーブを記録 これは巨人時代の45勝29敗58セーブ

を上回る成績だったんだ30代中盤に 差し掛かる年齢で移籍してそれだけの成績 を残したなんて素晴らしいわねああ単年 だけでなく活躍期間の点でもかなり大きな 格差が生まれたトレードになったんだ 巨人はかなりもったいないことをしたわね 新三大巨人の失敗格差トレード2つ目は 1992007年の1月に成立した近鉄 石井疲労内野手と巨人石毛 投手 吉岡有事内野手の1対2のトレードだ石井 選手って前回の巨人しくじり大型補強にも 登場してたわよねそうだその石井選手だ あの時は獲得の経緯を詳しく話してなかっ たが実はこの遺跡は巨人が戦力補強でき なかっただけでなく後にパリーグ屈指の スラッガーとなる吉岡を放出してしまう やらかしトレードでもあったんだそういう 意味を加味してもあの補強は失敗だったの ねその件は過去の動画を見てもらうとして 話を戻そう石井選手は近鉄時代の90年 から94年にかけて5年連続20本塁打を 記録したスラッガーで94年には打率3割 1分6厘33本塁打点111の活躍で打点 王も獲得した選手だったんだ今でいう巨人 の岡本和真選手みたいなスター選手だった のねああただ95年に右足かかとの亀裂 骨折96年の左手首骨折と度重なる故障も あって95年は47試合96年はわずか2 試合だけの出場に終わってたんだそうした 背景もあってトレードの対象になって しまったのねああ近鉄と年俸調停でもめて たし 巨人としてもまだまだ戦力になると見込ん でトレードに踏み切ったんだ 放出された石下投手と吉岡選手はどんな 状況だったの石下投手は92年から抑えと して活躍して93年には当時の球団記録と なる30セーブで最優秀救援投手の タイトルを獲得してる選手だぜそんな すごい選手をどうして放出したの石下投手 は故障の影響もあって93年をピークに 成績が悪化していってたんだでも当時25 歳と若かったことを考えると結構驚きの トレードだったんじゃないあ1軍での実績 を考えれば石井と石毛という2人の タイトル獲得経験者がメインのトレードだ なただ石毛選手よりも石井選手の方が格上 だったこともあって 巨人は吉岡選手も付け加える形でトレード を成立させたんだ 吉岡選手は巨人時代そんな成績だったの 吉岡選手は89年の夏の甲子園で提供高校 を優勝に導いたエースだったんだが 肩の故障の影響でプロ3年目のオフに打者

転向 打者転向2年目の94年にはイースタン リーグで本塁打だと打点の2冠王に輝く などいきなりその才能の片鱗を見せてたん だ 打者転向2年目で結果を残すなんてすごい じゃないそんな若手大砲候補がいたら1軍 で結構出場機会を貰ったんじゃいや当時の 巨人は落合博満ジャックハウエル元木大輔 など1三塁手のライバルが多かったため なかなか出番がなかったんだ 補強で獲得した大物やドライチ選手など ライバルがいっぱいいたのねこのトレード があった96年にはFAで西武から清原 和博選手を獲得してたからそのまま巨人に いても吉岡選手の出番はなかっただろうし な若手有望株がいても使える状況じゃ なかったのねああ 結局吉岡選手は巨人時代の7年間で通算 69試合出場で本塁5本とほとんど実績は 残せずにトレードとなったんだそれだけを 聞くと石毛のおまけでつけておいたみたい な感じがするわねあただこの中で最も成績 を残したのが当時実績ほぼゼロに等しかっ た吉岡選手なんだ 環境が変わって才能が開花する選手はいる もんねそうなんだ 吉岡選手は移籍2年目の98年に222 打席ながら13本塁打をマークすると99 年にはプロ10年目にして初めての規定 打席に到達して 打率2割9分で18本塁打を記録その後も 6年連続で2桁本塁打とOPS80.05 へなど近鉄の主力として長く活躍したんだ こんな選手を手放したなんて当時の巨人 フロントは悔やんだでしょうねああ特に 印象深かったのは2001年でこの年は 26本塁打85打点を記録し チームの12年ぶりのリーグ優勝に大きく 貢献したんだ ローズ中村憲広 磯部公一選手などいて当時の近鉄いて前田 線は本当に強力だったもんねそうなんだ トレード相手の石井選手が規定打席到達は 愚か99年の222打席で11本塁打が 移籍後最高成績だったことを考えると かなり差が生まれたトレードになったんだ 吉岡選手だけでもかなりお釣りが来る トレードねああしかも石毛投手も全盛期 ほどではないにしても97年に先発で4勝 2000年に46試合で防御率3.61と 貢献 移籍527試合に登板するなど戦力になっ てるからな 損失度合いで言ったら一つ目のよりも

こっちの方が大きくなっちゃったのね 辛酸大巨人の失敗格差トレード3つ目は 2016年の11月に成立した日本ハム 吉川光夫投手と石川慎吾外野手巨人太田 大使外野手苦悶克彦投手の2対2の トレードだこれは私でも知ってるわかなり 格差が生まれたトレードで日本ハムの戦略 ガンに感心させられたわああ知ってる人も 多いと思うから当時の経緯を踏まえながら 簡単に振り返っていこうこので移籍後に 最も貢献したのは言うまでもなく太田選手 だな 巨人時代は永遠の若手大砲候補で終わるか と思ってたわ 霊夢の言う通り 太田選手は2008年にドラフト1位で 入団し松井秀喜選手の対談後秋版になって た背番号55を継承するなどかなり期待が 大きかった選手だったんだ 原監督と同じ東海大相模の出身とあって かなりメディアからも注目されたもんねあ ただ太田選手の巨人時代最高成績は 2016年の602試合で本塁打4本と 入団から8年経過しても1軍でほとんど 実績がなかったんだ 守備位置は高校時代のショートから外野手 に転向になるわ 持ち味の長打力を捨てて盗塁数増加に励む わと2軍ですら微妙な成績で迷走してた ものね 霊夢今回はかなり詳しいなええそれだけ私 も当時大田選手に期待してたから5年目に 背番号が44に変更された時はもうだめか と思ったわよ2軍ですら4年連続三振王を 記録したりと 成長の跡がほとんど見えない時期もあった からな年々巨人ファンからも期待されなく なっていってたわよねああさらにトレード された2016年は巨人がFAで日本ハム から4大感染症を獲得したこともあって 太田選手の巨人での出場機会はほとんど 見込みづらい状況だったんだ要選手獲得を 決断した時点で 太田選手への期待が薄れてたってことだ もんねそうなんだただご存知の方も多い だろうがこのトレードで太田選手は花開く ことになったんだ 栗山監督が信頼して使ってくれたもんねあ 巨人時代は三振の多さを気にするあまり 持ち味を失いつつあった太田選手は日本 ハムでようやく長打力を発揮 遺跡1年目にプロ初の1試合に本塁打を 含む年間15本の活躍で自身初の規定打席 に到達するとその後は4年連続で規定打席 到達

成績面もどんどん向上していったもんねあ 19年には20本塁打77打点の活躍で プロ11年目にして年俸1億円プレイヤー の仲間入り 年には自身初のゴールデングラブ賞を獲得 したりと 守備での貢献も大きかったよね入れ替わる ような形で入団した陽選手が巨人では あまり活躍できなかったこともあって かなり歯がゆい思いをした巨人ファンは 多かっただろうなしかももう一人の苦悶 投手も活躍してたしねあ苦悶投手は巨人 時代の4年間でたったの15登板だったが 日本ハム移籍後は20年途中に移籍する まで298試合に登板17年は41試合で 防御率2.7018年は57試合で防御率 2.1719年は61試合に登板と大活躍 だったからなトレード相手で同じ左腕の 吉川投手が微妙な成績だったこともあって 遠田ともに巨人が大損したイメージが強い わあその選手がどれだけ勝利に貢献したか を示すわという指標で見比べても日本ハム が合計13.9勝分の効果があったのに 対して 巨人はマイナス0.1の効果しかなかった んだ個人単年5年トータルで見ても何から 何まで日本ハムが得してるじゃない 元スター候補選手型球団で花開く一方で 自分は大型補強が失敗して唯一と 巨人ファンにとっては思い出したくない トレードに終わったんだと 今回は首脳陣との確執でトレード放出後に 活躍した大物投手たちを紹介するぜ一人目 は1988年オフに巨人から放出された 西本隆司だ今日はあっさり本題に入るのね 最近尺が長くなってるので 導入はあっさり行くことにしたんだまあ ゆっくり解説で最初の茶番とか導入を 楽しみにしてる人ってどれだけいるのか 怪しいものだからユーモアがないタイプの 人間はそれでいいと思うわ 鋭い説法の矛先が私に向かってきたなでは 本題に入ろう西本投手といえば80年代の 巨人を支えた先発投手だ西本投手は 1974年にドラフト外で巨人に入団実は 西本さんは投手として通算8回の ゴールデングラブ賞を受賞するほど フィールディングに優れたピッチャーで あり入団テスト時の動きを見た首脳陣は 当初内野手として育成するプランもあった そうだそんなセンスに優れた選手がよく 入団テストにいたもんだねその才能を開花 させるべく西本投手はプロ入り後に鬼の ような猛特を自らに化した電車に乗るとき はつま先立ちトレーニングしたり一本場の

下駄を履いて移動したりなど様々な練習法 を取り入れたそうだ 昭和のスポコンアニメに出てきそうな話 じゃないその努力が実ったのか2年目には 2軍で最多勝を獲得し3年目には1軍で8 勝を挙げるプチブレイク同期入団の ドラフト1位で 甲子園のスターでもあった貞岡商事投手を ライバル視してたそうだがこの時点で貞岡 投手はプロミ勝利入団経由は全く違う2人 だけど一足先に西本さんの方がプロでは 結果を残したのねすると西本投手の ライバルは1978年に紆余曲折あって プロ入りした1つ下の怪物江川卓に変わっ ていく 叩き上げの自分とは正反対のエリート コースを歩んできた江川投手をライバルし たのねこの2人のライバル物語は非常に 面白いのだが今回は端折って確執トレード 遺跡に話をフォーカスさせてもらう 江川以上に結果を残すことに燃えた西本 投手は1980年に222回を投げて防御 率2.5914勝を挙げる活躍そこからは 毎年のように江川と西本のどちらが開幕 投手なのか 巨人のエースなのかがプロ野球ファンに とって注目の的になっていくんだ結果的に はチーム内でハイレベルな競争が行われる ことにつながったわけだ西本投手はこの 80年から84年にかけて5年連続で 200回と14勝以上を上げる活躍を残し たただ86年は防御率3.897勝8敗 投球回数は104回のみに終わり7年連続 で続いていた規定投球回数をクリアでき なかったんだ金属疲労の影響が出ちゃった のかしらもちろん蓄積披露の影響も考え られるしこの年は年齢が30歳に達した こともあり加齢による衰えもあったかも しれないただ一説によるとこの86年から 投手コーチに就任した皆川むつおとの確執 も影響していたとされるおここでいよいよ トラブル発生ね何が原因だったの明確に これという表だった事件があったわけでは ない 日々の積み重ねで不安が生じついには修復 できない関係にまでなったパターンだ現実 の人間関係でもあるわよね少しのズレが やがて大きなしこりになってしまうって 前述の通り西本投手は非常にユニークな トレーニング方法で知られた選手でもあり またその練習量も非常に多かったただ管理 職の皆川コーチにとってはやや扱いづらい 存在でもあったのだろうこの時期に西本 投手は公然と球団批判をしたことで 罰金200万円を課せられたこともあった

投手コーチの監督不行き届きを指摘され ないために皆川コーチは立ち回ったようだ がそれが西本投手にとっては合わなかった のかもしれない中間管理職と花形スター 選手が起こした対立ってことか皆川コーチ 自体は現役時代に通算221勝を挙げた レジェンドでありプロ野球最後のシーズン 30勝投手でもあったんだぜええめっちゃ すごい人じゃないってことは 鼻っぱしらの強い実績のある人物同士で 折り合いがつかなかったパターンもちろん そういう側面もあるだろうただ皆川コーチ は非常に真面目で物静かな人物であった 東急スタイルもアンダースローから シュートシンカーを請求良く投げ分ける 技巧派でかわすピッチングが得意だったん だなるほど東急スタイルは西本投手に似た 部分もあるけど性格や性質は真逆いわゆる 水と油な関係だったのねそういえば勝手に ライバル視した江川投手もたかが野球 されど野球っていう 飄々とした性格だし 良くも悪くも自分と性質が反対の人と ぶつかっちゃうタイプなのかもね単純な 性格の相性の悪さはあっただろうな実際 ポーカーフェイスな投手であった桑田真澄 さんは皆川コーチの指導について僕が入団 した翌年 打たれても皆川さんの大丈夫大丈夫水分 励まされたと語ってるぜなんとなくだけど その二人の相性が良かったのは想像できる わ西本投手が持つそのむき出しの闘争心が 向上心や魔剣機に繋がってるときはいいが 悪い時は負の方向にエネルギーが行くこと もある両者があまりにも険悪でするため 当時の長谷川球団代表から若いゴルフが 準備されたんだ現在のエース角と9階の レジェンド投手であるコーチの両方を大事 にしようとしたのねところがこのゴルフ中 に 王監督の前で理解ある大人を演じ続ける 皆川コーチを前にして西本投手は呆れ返っ たそうだ自分は向き合おうとしてるのに 相手は外面ばかりを気にして本音で 向き合ってくれないなんか距離感を縮め られずにいる別れ前のカップルみたいね 結局この若いゴルフが逆の決定だとなり彼 らの関係修復を不可能となるそして同時に 西本投手の巨人での立場も危うくなって いく87年は130回を投げてギリギリ 規定投球回数に到達したものの防御率 3.67で8勝8敗この87年オフには ライバル江川がシーズン13勝を挙げ ながら32歳の若さで現役を引退 追いかける存在がいなくなったことも影響

してか88年はわずか64回3分の2を 投げるに止まり4勝に終わってしまったん だ 逃走をむき出しにするタイプにとって 張り合う存在は大きかったのかもねすると 88年の12月5日 巨人に仕事隆史と鴨川重治投手中日中尾 仲良し捕手の交換トレードが電撃発表され たんだこのタイミングで放出されてしまっ たのね西本投手は当初このトレードを拒否 するつもりで新監督の藤田元氏に来年勝て なかったら出ますだからもう一度チャンス をくださいと直訴皆川コーチとの確執が あり 投げさせてもらえなかったからどこも悪く ないのにマウンドにすら上がれませんでし たとまだやれることをアピールしたそうだ まだまだ熱い思いは残ってたんじゃないの ところが藤田監督は 藤田元彦はお前を残してやりたいでも 監督藤田元氏はチームを勝たせることが 仕事だ同じ藤田元でも立場がある 過去にこれだけのトレードはないだろう プロ野球発展のために分かってくれと頭を 下げたそうだ人情的には残してやりたい けど チームを預かる監督である以上以上になら ざるを得なかったってことね80年代の 巨人は山倉和博が長年制捕手を務めていた が33歳だったこの年は故障の影響もあり わずか58試合の出場にとどまったんだ その代わりに37歳の有田修造がメイン 捕手として起用され結果を残していたが そう長くは頼れない年齢それで実績のある 中を捕手をどうしても欲しかったわけか ちなみに中尾選手も中尾選手でコーチと 揉めており88年は外野手での起用が メインとなっていたんだなるほど 球団内で少し扱いに困ってる実績ある ベテラン同士をトレードさせロッカー ルームの雰囲気改善も目論んでたわけか 不満分子の整理を兼ねたトレードだったが 意外にも供給弾ともに成果を上げる遺跡と なる中尾選手は巨人移籍1年目に正捕手の 座をつかむと5年ぶりのオールスター出場 7年ぶりのベストナインとゴールデン グラブ賞を受賞し チームの8年ぶりの日本一に貢献したんだ えっなんか想像してた以上に活躍してる じゃないそれ以上にすごかったのが西本 投手だ246回3分の2を投げて防御率 2.44の好成績でなんと地震初の シーズン20勝を達成最多勝ゴールデン グラブ賞を獲得し中尾選手とともに カムバック賞も受賞したんだ

チームが優勝してたらシーズンMVPでも おかしくないくらいの好成績ね西本投手は トレードを告げられた時は 貞岡投手と同様に移籍拒否してそのまま 引退も考えていただが 巨人相手に投げられるこりゃ面白いと 闘志を燃やす相手を笑顔から巨人に変えて 1年発揮したことが好成績に繋がったそう だ 燃える男には定期的に可燃材料を与え なきゃダメってことがよくわかったわ実は 87年の開幕戦で西本投手は中日相手に 完封勝利を飾ったんだ相手にはこの年が 移籍1年目で前年パリーグで3冠王を獲得 した落合博満がいたが西本投手は落合選手 に全球シュートを投じる内閣攻めで4打数 1安打に封じ込めたんだ 倒すべき相手がいると 燃える男は違うわねこの時に中日ベンチで 見ていた星の監督は西本獲得構想を強く 持つようになったそうだ 星野さんの好きなタイプの投手だし自分の ところでプレイすれば結果を残せるって 確信があったわけか西本投手はよく90年 も11勝を挙げる働きを見せたがこれが 最後の華々しい活躍となってしまう91年 に椎間板ヘルニアの手術を受けた影響で 以降は成績が低迷その後はオリックス最後 は巨人に電撃復帰するがかつての輝きは 取り戻せずただ通算165勝はドラフト外 で入団投手としては史上最多の記録であり 元祖雑草魂の名刀手が咲かせた可憐な大輪 の花はプロ野球ファンに鮮烈な印象を残し たんだ指詰め 咲かせた花は赤いシクラメンってとこ かしらね 首脳陣との確執でトレードされた大物投手 たち2人目は1976年1月26日の阪神 江夏豊か放出だとんでもないレジェンド来 たわね 江夏豊かが阪神からトレされた話はあまり にも有名なのでかいつまんで話そう 江夏投手の実績はここで多くを語る必要は ないだろう 1966年に大阪学院大学高校から ドラフト1位で阪神に入団した江夏投手は 通算206勝193セーブ最多勝2回最 優秀防御率1回最優秀救援投手5回 沢村賞MVPベストナインオールスター MVPなどあらゆるタイトルを獲得してき た投手だ先発と救援の両方でこれほどまで に結果を残した投手は他にいないもんね 様々な記録を残したレジェンドだが最も 賞賛されるべきは68年に記録した シーズン4001奪三振現代だと年間

200奪三振で超一流と言われるけどその 倍以上の数を記録したなんてとんでもない わしかもその年の江夏投手の投球回数は 329回と 奪三振するよりもかなり少ないイニング数 だったんだこの時代のプロ野球では現代 ほどアウトに占める奪三振の割合は少なく 江夏投手がどれだけ 救出していた存在だったかが伺い知れる だろう1試合2桁奪三振数の通算回数とか 上位は平成以降にデビューした投手が多い もんね 昔は今ほど変化球も豊富ではなく 球速もそこまで早くなかったため 打者がコンタクトしやすい環境だったから な加えてSQになると連闘や関東が 当たり前の時代なのでベスト コンディションで投げることがほとんど なかったのも影響してるだろうと話がそれ てまた話が長くなりそうなので本題に 戻ろう入団1年目から6年連続奪三振する というプロ入り時点から9回最高の制圧力 を持っていた時代の左腕だったが 1974年は12勝14敗と負け越し 208回3分の1を投げて奪三振数149 とかつての勢いは翳りを見せるようになっ たんだ明らかに三振が奪えなくなってる じゃない実は109を超えると右肘が しびれ出すなどコンディションは万全では なく長い投球回数を投げることが難しく なっていたんだ チームがBクラスに終わったオフには 神田正康監督が退任することになり 75年からは吉田義男 監督が指揮することになったただ江夏 投手は吉田監督が現役時代に チームメイトだった時から関係が良くなく 意思疎通を取るのも難しいほど 険悪だったそうだ監督が変わって立場が危うくなった パターンねいや江夏投手は金田全監督とも 折り合いが悪く73年のオフには 金田監督の下ではプレイできないと表明 金田監督も金田監督で江夏を抱えて チーム作りをする自信がないと辞任を表明する騒動が起きたんだ ずいぶん前から火種はあったんじゃない 結局この件は当時の戸沢和孝 球団社長が仲裁に入り 両者ともに残留することになったが それで関係が改善されるわけではないまた 江夏投手が不和だったのは 監督だけではなかったそうだ実は 吉田監督が就任する際に球団や本社 上層部は江夏の放出を進言したらしい なんでチームの主力の放出を進めたの江夏 投手は非常に我が強くその性格は

老人や選手との間に不況は恩を生んでいたそうだ ただ 吉田監督は多少の問題児でもうまく使っていけば 潜在能力を発揮してくれると上層部を説得 そりゃ衰えたと言ってもリーグ 上位クラスの力を持った投手なんだから 監督しては手放したくはないわよね しかし実際に監督としてチームを預かってみると 江夏と チームメイトの関係は完全に冷え切っていたそうだ 遠征先の宿舎ではほとんどの選手が江夏 投手との同質を嫌い 移動の新幹線でも隣の席は避けられていたそうだ かなり浮いた存在になってたのね また肝心の投球成績も上向く 気配はなく208回 3分の1を投げたものの 12勝12敗で防御率は キャリア初の3点台となる3.07系 パーセントは前年の19.3%から15.5%とさらに悪化 シーズン4001 奪三振を達成した時に記録した系 パーセント31.9%からは約半分近くも 奪三振力が低下したんだ 同僚との関係も悪く 成績も落ちてきたとあっては球団としては 抱え続けるのは難しい存在よね 江夏投手は結構障害を抱えており パフォーマンスを悪化させていたため 吉田監督は救援への転向を提案したそうだ が 江夏投手は聞く耳を持たずそれで吉田監督 もとうとう手に負えなくなって 放出を決断したって流れね長田球団社長は トレードを得なく投手に告げた際にこれ までの話し合いの中で 阪神のためにどうしても頑張りたいという 前向きの姿勢が見られなかった 阪神200% 溶け込んでやるという意欲のない選手と 球団は契約しないと 放出を決断した理由を語ったそうだまあ それだけ孤立してたとあっちゃ放出も やむなしだったんじゃないのただ江夏投手 に同乗できない点がなかったわけではない 実は73年のシーズン中に チームが優勝争いを繰り広げる中 球団事務所に呼ばれた江夏はフロントから 優勝は金がかかるから2位でいいと 告げられたそうだ優勝争いに向けてこれ から指揮を高めていこうって時にそんな こと言われたら腹が立っててしまうわ今も 続く阪神伝統のお家芸はこの頃から頻発し ており 球団の功労者であるベテラン選手が当時の

監督に殴りかかるという事件が2回もあっ たそうだ何よその物騒な話は 江夏投手曰く金田全監督がある選手に対し て 猿でもタバコ吸うんかと失礼な物言いをし たことでお互いヒートアップしたそうだ 江夏投手自身は手を出していないが 球団からは首謀者の一人だったのではない かと疑いの目を向けられたりと何かと人間 関係のトラブルが多かったらしい外からで はわからない問題をたくさん抱えててそれ が球団内で孤立するきっかけにもなったの ね 江夏投手自身はトレードを告げられる前の 時点でもう野球はいいかなとも考えてた そうだだったらそこまで揉めての対談だっ たわけじゃなかったってこといや問題は 放出するまでの過程にあり 江夏投手が阪神を退団して四半世紀以上も 球団と疎遠になった原因でもあるんだ 江夏投手の放出については球団と吉田監督 が合意の上で進めていたがこの時 球団社長は吉田監督に君はトレードの話を 知らなかったということにしておこうと 持ちかけられたそうだそのためトレードが 成立した後 吉田監督は報道陣に対してトレードは フロントが決めたことで私は知らなかった と答えているしかもトレードの憶測が立て られた際には 吉田監督は江夏投手の実壺や講演者などに も 江夏トレードはないと明言していたんだ どうしてそんな嘘をついたのよ 球団内で江夏放出は決まったがどこの誰と トレードするかまでは未定であったその ため情報戦を制するために球団は煙幕を 張ったというわけだ 敵を騙すにはまず味方からだがこれが江夏 投手の阪神球団と吉田監督への新章を すこぶる悪くした後に吉田監督はフロント の指示に従い私は知らないことにしたが 対象を誤った私自身から江夏に伝えるべき でその点では申し訳なかったと思っている と謝罪の言葉を口にしているてか何で そんな大事なことが結果的に漏れちゃっ てるのよ最後までで知らぬ存ぜぬを 突き通せばよかったんじゃないのそれこそ まさに阪神のお家芸というわけだ 江夏投手が球団に愛想を尽かして人間関係 で疲れ切ってた理由が分かってきた気が するわ 結局阪神側が江夏 望月充南海側が江本武範 池内豊長谷川勉

島の育央を放出する形で2対4のトレード が成立なんか移籍後の江夏投手は人間不信 に陥っており引退も考えていたそうだだが 野村克也監督と会食した際にとある試合の 江夏投手の配給の意図について言い当て られ 野村監督に興味を持つようになる 野村監督はトレードについて一切話をする ことなく 野球談義だけで江夏投手を惹きつけたそう だぜうまいわ心を閉ざしてる人に対して俺 はお前の野球をわかってるぞと 理論派の江夏投手の心を動かすトークを 選択したのね 野村監督の魅力に惹かれた江夏投手は何回 の入団を決意なんか遺跡2年目には 野村監督から9回に革命を起こそうという 言葉とにリリーフ転向を同意その言葉の 通り 江夏投手は1977年に当時のNPB記録 である6試合連続西武を記録しパリーグの 最優秀救援投手に輝いたんだ配球だけで なくモチベーションもうまくリードして くれたってわけねただ77年オフに騒動が 起こってしまう ホークスの失敗格差トレードでも紹介した がノムさんがプライベートのスキャンダル もあって何回の監督を解任されてしまうん だなんで籠城事件にまで発展するほどの 騒動になったのよ 詳しくはそちらを見てもらうとしてこの時 江夏投手は 野村さんがやめる以上何回を出して くださいとトレードを志願したんだ 野村監督に惚れて入団したんだからその 恩師が退団するなら私も一緒にって 任侠映画に出てきそうな話ね 阪神時代は色々と人間関係で揉めた人だ からなそれだけに自分に良くしてくれた人 には最大の忠義を尽くしたかったってわけ かその後江夏投手は広島日本ハムなどを 渡り歩き行く先々チームを優勝に導いた ことから優勝請負人の異名を取るんだ 救援に転向してからの江夏投手は持ち味 だった奪三振力も元に戻り 毎年のように25%以上を記録するように なる現代だと楽天松井勇気投手並みの高い 奪三振力と捉えてもらっていいだろう しかも今と違って年間90イニングくらい 投げてのその数字だから現代の救援投手 以上に貢献度は高いわよねこれだけ まだまだ活躍する力が残ってた投手を人間 関係のトラブルで放出せざるを得なくなっ たのはもったいなく感じるわもちろんあの まま阪神に居続けたら

江夏投手の再生はできなかったかもしれ ないただ野村監督が精神面でもサポート することで復活できたように当時の阪神 関係者で江夏投手とのわだかまりを 解きほぐすことができる人がいたらそう 思ってしまうオールド阪神ファンは数多い だろうな 首脳陣との確執でトレードされた大物投手 たち3人目は1995年の吉井正人だ 吉井さんってコーチとしてダルビッシュ 大谷翔平 佐々木朗希などの投手たちとうまく コミュニケーションを取って仕事されてる から確執で放出されるまでに至ったのは 意外ね 吉井さん自体は現役時代にたびたび指導者 と衝突することもあったが高治療を務める ようになってから当時の監督や指導者たち の気持ちがわかるようになったとコメント されてるな相手の立場になって考えろとは 言うけど実際自分がその立場を経験しない とわからないことも多いわよね 吉井さんのキャリアから振り返っていこう 吉井投手は1983年に箕島高校から ドラフト2位で近鉄に入団最初の4年間は ほとんど結果を残せなかったがプロ5年目 の1988年に1軍でブレイク 抑え投手として4月に4勝0敗2セーブ 16回を投げて防御率0.00という好 成績で月間MVPを獲得その後も安定した 活躍を見せて最終的には50試合に登板し て防御率2.690勝2敗24セーブで最 優秀救援投手のタイトルまで獲得したんだ キャリアの初期は 投手だったのね 翌89年も抑えを任されると47試合に 登板して防御率2.995勝5敗20 セーブの好成績でチームのリーグ優勝に 貢献したんだただこの時期にすでに首脳陣 との関係が怪しくもなっていたあれ トレードで放出されたのは95年のことよ ねその6年も前から問題を抱えていたの 当時の奥義監督は細かい系統やサプライズ 的な投資起用を好む監督だったんだ オリックス時代に猫の目打線と言われる 日替わり打線でも有名だったけど 投手企業も不規則的な監督だったのね実は この等式用のことで権藤ひろし投手コーチ と仰木監督はたびたび衝突していたんだ 確か権藤さんは現役時代にゴンドウ権藤 アメゴゴンドウと言われるくらいの国士が 祟って現役生活はかなり短かったよねその こともあり権藤さんは指導者になってから 投手の健康状態を非常に意識する人物で あった不規則機能なんて

投手からしたら調整も難しいでしょうし 投手を預かるの権藤コーチは嫌がる でしょうねそのため奥義監督は近藤コーチ と一部の投手陣との確執が噂されていた 1989年の10月14日マジック1で 迎えたダイエー戦は本拠地藤井寺球場で 開催された誰が胴上げ投手になるかみんな がそわそわしちゃうやつね 吉井投手は自分こそ優勝の瞬間にマウンド に上がっていると思っていたが 扇監督が最後を託したのはエースの泡の 秀行投手だったんだ最後はエースで有終の 美を飾りたいのはわかるけどシーズン通し て抑えをやってきた吉井投手からすれば 心中は複雑よね結果的にチームは優勝を 決めたが 吉井投手は胴上げに参加せず 室内練習場で道具に当たり散らしてたそう だ現代では考えられないけど 昭和の野球選手はよくも悪くも個人主義な ところがあったし 納得いかない気持ちも痛いほどよくわかる わこの時吉井投手をなだめてくれたのが 近藤投手コーチだ近藤コーチはコーチ就任 1年目にほとんど実績のなかった吉井投手 のストッパー抜擢をするなど 吉井投手にとって恩師ともいえる存在だっ たんだ教え子が悔しがるのもわかるし自分 が作り上げたストッパー吉家の勝利の方程 式も無視されるしでなだめながら言動投手 コーチも思うところがあったでしょうよ 度重なる衝突が原因で 権藤投手コーチは自ら違約金1300万円 を支払って同年限りで辞任することになっ たんだえそんな大金を払ってまで退団する なんてよっぽど反りが合わなかったんだ また奥義監督は優勝した翌90年の3月に 燃えて勝つという著書を発売したがその中 で吉井投手に関する言及はほとんどなし 普通ならチームを支えたクローザーに関し て何か言いそうなものだけど何もないって ことは関係がうまくいってなかったことを 示唆してるわね後ろ盾であり 良きり会社であった近藤コーチの対談が 影響したのか 吉井投手は91年以降成績を加工させて しまうそして扇監督が92年をもって監督 を退任するとさらなる悲劇が訪れてしまう 普通なら確執が噂された監督が辞めたら 好転していきそうなものだけどね近鉄は 93年からレジェンドOBである鈴木啓司 が監督に就任することが決定 過去の動画でも取り扱ったけどいろんな 選手と揉めた結果 選手が対談するに至った監督よね

詳しくはそちらでも見てもらうとして簡単 に説明しよう 鈴木監督は自身の成功体験をもとにした 昭和のトレーニング方法を選手たちに求め たんだだが当時の近鉄の投手陣たちは立花 隆二トレーニングコーチが導入した近代的 なメソッドに基づいて 休息を大事にする練習法を取り入れていた その結果投手陣は呼称が少なくなって パフォーマンスも上がったのよねしかし 鈴木監督はプロ野球選手経験のない立場な コーチの介入を快く思っておらず 度々衝突を繰り返していたそうだ 結局立花コーチは鈴木政権1年目のオフに チームを対談 吉井投手は自分が本意にしていた人が ことごとく当時の監督と対立する不運が あったのね 鈴木監督は特に投手陣との確執が多く93 年に小野和義94年には泡の秀行 野茂秀雄らが紆余曲折あってチームを去っ たんだ 鈴木監督自身が300勝投手だけあって 特に投手については自分の言うことが正し いって思いが強かったんでしょうねただ 現役のエース級投手たちも自分の新年や ポリシーがあるでしょうし相容れない関係 になるのは必然だったのかもね 吉井投手もまた例外ではなかったこの時期 は右肘痛や右ふくらはぎ肉離れなど 故障で制裁を書くこともあったがそれ以上 に監督と馬が合わなかったか94年の シーズン中に5回途中で交番を言い渡され た際にベンチでグラブを叩きつけたことが 監督批判とみなされてペナルティオ化され たんだまた同じ年の9月にまたも途中交代 を告げられた際にマウンドへ来たコーチに ボールを渡さずあろうことかそのボールを 蹴り飛ばしてしまったええそれはいくらな んでも擁護できないレベルの増版行為じゃ ないこれにより厳重注意とに軍降格が決定 し 鈴木監督から直々にお前を使うつもりは ないと無期限2軍幽閉を言い渡されたそう だシーズン終盤にそんなことをしたって ことは覚悟の上だったのかしら実は二人の 因縁は根深く 吉井投手がプロ1年目の時にまだ現役だっ た鈴木監督と風呂で一緒になったそうだ そこで吉井投手は鈴木先輩を怒らせて しまったようで先輩選手から謝りに行く ように指示された 鈴木先輩の部屋を訪ねたところわしが若い 頃は先輩が風呂から上がるまで部屋で 筋トレをして待っとったもんやと30分間

説教を受けたんだうわぁなんて面倒くさい 先輩それこそお風呂なんて体を休める ところなのにトレーニングしろだなんて非 効率な話だしまた吉井投手は引退後に出版 した著書で 玉が高いという理由で干されたこともある と記しているなもう何から何まで会わな いって感じじゃないまあ先ほどの増版行為 は球団からもよく思われておらず不満分子 と化していた吉井投手はトレード要員と なったんだ冷静沈着な理論派投手コーチの イメージあったけど現役時代は結構気性が 荒いタイプだったのね結果的に吉井投手は 95年のシーズン開幕直前にヤクルトの 西村達人との交換トレードでスワローズA 移籍この西村投手も当時の野村監督と馬が 合っていなかったようで両球団の不満分子 同士のトレードになったわけだ今の野球 選手は聞き分けがいいタイプが多いから これだけ主力級の選手たちが首脳陣と衝突 してる話を聞くと逆に新鮮に感じるわ 移籍先のヤクルトには守護神の高津臣吾 投手がいたため当初よしい投手を獲得する 必要があったのか 懐疑的な声もあったそうだキャリアの ほとんどを救援投手として過ごしていた 吉井投手だが ヤクルトでは本格的に先発として起用され たこれから加工戦をたどっていくであろう 30歳の先発転向って普通なら結構厳しい わよね 吉井投手は移籍1年目に地震初の規定投球 回数をクリアし防御率3.12-7年ぶり の2桁となる10勝をマークいきなり チームのリーグ優勝と日本一に貢献したん だ30歳のシーズンにキャリア杯の好成績 を残してるないさらによく9697年も 規定投球回数と2桁勝利を達成特に 1997年はシーズン最終戦まで最優秀 防御率のタイトルを争うなど33歳にして キャリアの絶頂期を迎えたんだ 移籍してからの3年間はリーグトップ レベルの先発投手として活躍したのねこの ヤクルトでの活躍の陰には 野村監督との出会いが大きかった頭ごなし の根性野球の鈴木監督から 理論派ID野球のノムさんに変わったのが 大きかったのね 吉井投手自身もノムさんへの感謝の言葉を 数多く口にしており中でもその人心掌握術 を高く評価されているな先ほどの江夏投手 の時もそうだったけどノムさんってかなり 優秀なモチベーターでもあったのね 吉井投手は飲むさんの寛容な指導にも感謝 しており最も影響を受けたのは

選手がやることを尊重する 理由あってやっていることをしっかり認め てあげるということ指導者としても大事に していますと指導者として参考にしている 部分も多いようだ近鉄時代はどちらかと いうと直感型の監督に仕えてたからノム さんの指導はいろいろと学ぶことが多かっ たのね 意図思った上での独自な手法や試みであれ ば結構認めてくれる監督さんだからな近鉄 としては9回屈指の先発投手として活躍 できた実力を秘めていた吉井投手の実力を 監督との確執で引き出せなかったことは 悔やまれるだろう開幕直前の遺跡ですぐに 活躍できたってことは近鉄在籍時から すでに先発として活躍できる力はあったん でしょうしね95年以降の近鉄は慢性的な 投手不足で 失点抑止力に課題を抱えるチームとなって いくもしよろしい投手が近鉄のいて前田線 の援護を受けていたら ヤクルト時代以上に勝利数が伸びていたか もね 吉井投手はヤクルトで3年過ごした後に FAでメジャーへ挑戦その後は日米合計で 7球団を渡り歩いた経験を生かして現役 引退後は名刀コーチとしてダルビッシュ 大谷 佐々木朗希などを指導されている機会が あったら吉井コーチについても取り上げて ほしいわ 栗山監督との隠し疑惑についてか現役引退 後もいろいろあってるんじゃないという わけで今回は首脳陣との確執でトレード 放出後に活躍した大物投手たちを紹介して いったぜよかったらチャンネル登録や高 評価をしていただけると動画制作の励みに なるのでよろしくお願いしますだぜそれと スーパーサンクスでもご支援いただけると 書籍購入などに役立てますので大変助かり ますそれではご視聴ありがとうございまし た

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7 comments

@user-wm9dw1cs9f February 8, 2024 - 10:12 am

今回はジャイアンツしくじり特集お疲れ様です!いきなり一発目から重い話でビックリです…。

@user-qx5ww1sj9u February 8, 2024 - 11:01 am

総集編お疲れ様です(⁠^⁠^⁠)b
何か巨人ファンにゃ胃の痛くなりそうな内容ですな💦
湯口投手と江川·······

@user-ll7hq8dr1l February 8, 2024 - 1:21 pm

二岡スキャンダルの最大の被害者は一岡。

@skazunori271 February 10, 2024 - 4:15 am

1989年ドラフト組は揃いも揃って大失敗でしたが、同じ89年ドラフト外で入団した柏田貴文という高卒新人左腕はワンポイントセットアッパーとしてそこそこ活躍しましたね。
しかもセ・リーグ初のメジャーリーガーとしてメッツで活躍されました。

@13ichimi44 February 12, 2024 - 7:25 pm

病院でやる病理解剖は遺族の同意が必要だけど、警察の法医(司法)解剖は遺族の同意どころか遺族の拒否は出来ないはず。

@pjmbqhjtw February 12, 2024 - 10:17 pm

巨人なんかに入らなければ良かったのに

@SHINOSHINTAROU February 13, 2024 - 12:04 am

淡口と樋沢の成績逆だろ。

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