2023年12月4日収録。映画「はだしのゲンが見たヒロシマ」がどの様なことから生まれたのでしょうか。長い長い物語が底辺に流れているのでした。それは広島の地で、何か自分にやれることはないかと、真摯に求め続け、ピンチもチャンスもしっかり掴んで考え、行動した「朋子」さんがやり遂げたこと。漫画の中の妹友子ちゃんの本名は、実は朋子ちゃんでした。不思議なご縁がいっぱい重なる秘話満載です。
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映画「はだしのゲンが見たヒロシマ」を企画した 渡部朋子さんのお話です 映画の中では 中沢啓治さんへの インタビューを担当しました 戦争を起こそうとするものがあったら 噛みついてでもいいから してはいかんと止めなさい 自由に物が言えることが どれほど大切なことかくれぐれも若者たちに伝えてほしい 中沢さんの言葉を震える心で受け止めた 自身も被爆二世の朋子さんです アントヒロシマという団体の代表を務めております 渡部朋子と申します 実はアントヒロシマというのはですね 私が平成元年に 何か色々広島のことについて やりたいと思った時に 自分が思う場所を探したんですけれども なかなかなかったんです それであるふとしたきっかけからですね自分で作りました えっ そうなんですアントヒロシマって 私が創設者なんです 大体アントってどういう意味ですか はいアントって実はですね 最初に作った時に 市民のグループですね その時の名前は ちょうど 実は最初にやった その仕事っていうのがですね 大きな仕事っていうのが韓国の 絵描きさんの 広島招待展だったんです 韓国の5人の絵描きさんたちを 広島にご招待して 5人も はい 絵画展をやるっていうものが 最初の その大きなアントの仕事で それまでは いわゆる その留学生とか修学生の皆さんの 生活支援みたいなものをやってたんですけど もう本当に当時子供が3人いて 三篠小学校っていうとこで PTAの役員やってた時に 三篠小学校の同じ学区に朝鮮の 初等学校があったんです 民族学校 今は移転して なくなったんですけど そしたら その橋を挟んで 両方に学校があるじゃないですか そんな問題があったわけじゃなかったのに ある時その山手橋っていう橋の上で どうしてかわかんないけど喧嘩が始まったんですよ でどうやってこの喧嘩を収めたらいいんだろうって PTAの役員としてもあるいは学校の先生方と考えてる時に ちょうどその国際理解講座っていうのが 広島市の国際交流協会っていうところが 主催してあったので そこへ行ったんです 何か手がかりがあるんじゃないかと思ってですね
その韓国理解講座だったんですけど その講師がアン・ビョンコルさんという 広島大学の大学院に来てる方だったんですけど 私がこうここうでって話したらですね その方が千載一遇のチャンスたね と 交流会やったらいいよって言われて あ そうだなと思ってたのとそれから それを すぐに私もあの学校の校長先生にお話して で学校にそのアンさんをお招きして で どうしたらいいかねみたいな みんな 悩んでるんですよって言ったら いやそれは もうぜひ交流会やってくださいて言われて 相手を知るってことですよね ああ あの私ねその時学校の先生方も 立派だったなって まずじゃあ僕たち教師が行ってきます 初めてですよ同じ学区の中でお互いに あっても行ききかなかったんですよ 行かれて で 行かれた感想が うちの学校と同じじゃ へえー で 今度は向こうの先生方も来られて お互いその学校のまず先生同士の 交流があってじゃあこれだったらね 子供たちの交流会しましょうって で交流会が行わ れたんですね うちの子供たちが三篠小学校に 上2人行ってて 1番下は幼稚でしたけど 久仁子が帰ってきて お母さん 〇〇ちゃんと友達になったよて言って 韓国の人の名前を 言ってね あそりゃ良かったねて言ったら 本当に不思議にその山手の橋の喧嘩っていうのがなくなって これはやっぱり 1つの原点ですね お互いを知るって大事で お互いが知ったら あ 自分たちと 変わらない同じ 人間じゃんて 先生だったら学校の内容も 教師としても同じじゃんって思いも一緒じゃん 子供たちにっていうことがあってですね それはやっぱり1つこの大きな 原体験の1つですね 宝物になって返ってきましたね そうですそれはやっぱりあの なんとかしようと動かれた私たちも PTAもそうですけど 先生方がねやっぱり 行ってみようってまたその背中 を押してくださった そういう出会いがあったから いろんなことが重なってなんですけど これは やっぱり大きな出会いだった と同時に
私自身の中の偏見ていうのか 自分でも自覚しました 広島の中にいらっしゃる外国人の人たちの状況を 知るようになって で そこからその ボツボツとですね 例えば もう1つ忘れられないのは バングラディッシュのファミリーと私は出会って でその人たちがね基町アパートっていうとこに いらしたんですよ 基町アパートっていうのは 昔広島に原爆スラムがあってそれを 広島市が建て替えて そしてアパートにして 最初の頃は原爆孤老とかそういう方が 入っておられたんですけどだんだん お亡くなりになってそのお部屋が空くと 2つそういった海外の留学生が入ってくるケースと 広島県って長野県について2番目に 満蒙開拓団で出てるんですよ そうなんですか はいですから 中国残留孤児長野についで 広島多くてその皆さんが帰って来られると 空いたその基町アパートに 暮らしてらっしゃるんです ああ だから今そこにある基町小学校は 外国籍が半数以上で中国残留孤児の子どもたち それから外国人が多くて 日本語教育もしっかりするっていうので いろんな国の今度は働きに来てる外国人の 子供たちがいてまそういう学校もあるぐらいで 私は実はその基町小学校の開校の前は そこはなくて白島小学校っていうとこに 行ってたもんですからその 基町の中にうちの父の親しくしていた 灰塚先生が私の主治医でそうすると かつての 原爆スラムっていうのはたくさんの 朝鮮半島の方が いらっしゃいましたから先生がそういった 皆さんをね診察するのを見てました 今そういうアジアの方とかね いろんな関わりが 初めて気がついたことなんですけれども 朋子さんの後ろの背景に 今すごく本があるんですが はいはい それもなんか外国のなんですか いっぱい海外の本が並んでますけど これはですねそうやって私はその まずあの韓国の皆さん朝鮮半島の皆さん それから少しずつそのバングラデシュとか 日本に来られていた留学生とか 修学生の皆さんの生活支援のようなことを 市民グループでやってたんですけど である時にその韓国の方がその 広島で絵画展を やりたいと言われるので一応会の名称をつけて 創設したのが「アジアの友と手をつなぐ広島市民の会」です
それで最初の話に結びついてくんですね でこの絵本は やっぱり広島っていうところに いろんな国々のいろんな方が来てくださって 私がアフガニスタンのアフィファという少女と 広島で出会ってるんですね カブールからパキスタンに逃げる途中に 地雷で ちょうどその逃げてる途中で車が止まって 川へ水を飲みに行く時に地雷で 彼女は片足をなくして 妹は亡くなってるんです その アフイファちゃんっていう子がですね実は 「アイラヴピース」というアフガニスタンと日本の 合作の映画があって そのヒロインになっていて その「アイラブピース」という映画を作ったのが実は 中村ブレイスさんとおっしゃって 島根県の大田にある 有名な義足であるとかあるいは 乳癌でね乳房をなくされた方も そういった 高い技術を持ったそういったところの方が ちょうど島根県の教育長をしておられて 教育委員長かな そんなんで 義足屋さんですからそういった 片足なくした女の子を主人公にして その子と 島根の大田と アフガニスタンとの映画を作っておられて たまたまですねジャイカを介して その アフイファちゃんを広島に連れてきたいと 思ってらっしゃるから 広島で受けてくれないかと仰って で 私が受けて中村ブレースさんもご一緒に それから アフガニスタンで撮影されたヌルサイフィーさん というですねアフガニスタンの監督さんも ご一緒に来られて ずっと広島の中を 案内してた時に原爆の子の像をどうやって アフィファちゃんに伝えようかって思った時に 宮本慶子さんっていう英語の通訳者の方も 一緒に回ったんですけど彼女が この「おりづるの旅」という絵本を使って アフィファちゃんに偵子さんの 話と原爆の子の像の話を 伝えたんですね それをその絵本で 伝えてる時にそのヌルサイフィーさんという アフガニスタンの方がね突然ね 泣き出しちゃったんですよ あの原爆の子の像の傍で オイオイオイオイ泣いて アフガニスタンの子どもと偵子は同じだって泣かれたんですよ 私たちもびっっくりしてね本当に男泣きにね 泣かれたんでびっくりしたんですよ で後から聞いたら 落ち着かれてね その偵子ちゃんとアフガニスタンの子供は一緒だと でお帰りになった後にメールが来て そしてアフガニスタンの子供たちに この絵本を読ませたい でなんとかならないかって
ご連絡を受けて それで何とかしたいと私も思って で そのPHP出版に連絡を取って東京まで行って アフガニスタンで出版できないかって話をしたら いわゆる紛争地での出版はできないんだと言われ まあそうですかって 帰ってきたら 編集者の人がねなんか 思ってくださったんでしょうね あの ある団体がそのうちから本を買って そこに 他言語のシールを貼って新しい絵本にして でシャプラニールさんが最初やっておられて 紹介してくださったでこんな風にやって やってみませんかって言われて ええ やってみますって言ってで 最初に日本語から 英語に訳してでその英語に訳したものを 今度は私がペシャワールまで行って でサイフィーさんがカブールから ペシャワールに来て受け取って というのが 当時アフガニスタンに物を送ることが できませんでした で そうすると 今度はサーフィーさんが それをダリー語に翻訳をして 何語? ダリー語 アフガニスタンはパシュトゥーン語とダリー語 の国なんです 聞いたことないですよ ダリー語に翻訳して でその時にですね実はジャイカの 協力を得たんですけど当時ジャカはね 緒方貞子さんだったんですよ 紛争地にもジャイカのオフィスを作るという方針 現場が大事だっていうことで カブールに 事務所があったですジャイカの ああそうなんです でその皆さんが協力をしてくださって サーフィさんは一応ですねその 絵本ができたら ジャイカ事務所に持っていくジャイカ 事務所が必ず 日本と行ったり来たりしますよね その時に 人伝に日本に持って帰って ジャイカ中国ってうのが西条っていう とこにあるんです
そこに持ってで私はそれを受け取って そして翻訳シールを貼ってで実は ダリー語と日本語って 向きが違ってて右から左になります でそれをそのまんまで1回シールを貼って 送ったことがあるんですけど これなんですけどでダリー語の本で そしたら 今でも覚えてますけどジャイカの斎藤さんが 私がこの絵本をまた今度ペシャワールまで 持っていってでその時にこういう風ではなくて 新品を切ってるんですよ この本のこう変えてるんですよ これを単なる輪っかで2つだけ止めてたら サーフィさんに言われて 子供たちには美しいものが要ります これも私当時 ち ょっともうちょっと 上にあげて はいカラーコピーじゃかったんですよ アフガニスタンの人たちが翻訳して ここカカラーでこういう風になってたんですよ ああそうなんですか他の本は全く 例えば英語なんかだったらこのまんまなんですね はいそうですね モノクロの はい だけどサーフィさんに ペシャワールにまたできて持っていった時に 子供たちはパンもいるし教育もいるけど 美しいものがいるんです 言われてわかりましたって言って カラーコピーも買って こっちで印刷するようになるし この 輪っか2つで止めていたのをこうい4 止め方にして でそのダリー語の本を作ったけど 届ける方法がなかったんですね ええ そしたら当時そのジャイカにいらした人たちが ものすごくこのプロジェクトを 応援してくださって 自分たちがその アフガニスタンに行く出張のトランク 10㎏開けてくださって ここに本を詰め込んで 持ってってくださった その後はですね やっぱり向こうで出版した方がいいということで この本もそのまま出版できなかったので
今度は「さだこの祈り」という 次々出てきますね はい絵本を作りましてそして 次々出てくる こっちがダリー語で はい でこれは もう向こうで出版をしてこの中の絵は 全然違うパキスタン人のアーティストが 作ってくれたんですね「さだこの祈り」という ここに写ってる女性は被爆者の女性なんですけど この人がお金を出してくれたの あらーところがこの絵はこの中にある絵を 勝手に使ってたんですよええええ ええ これがファリアさんの絵だったんですけど こことこことだけはね アフガニスタンの人がねこっちの本の絵を使っていて 顔色変わって ですぐにPHP出版に連絡したら ええ そしたらこの狩野先生っていうのが 作者はうみの先生絵は狩野先生だったのね 狩野先生のとこまでPHPの編集者が行ってくれたら いいですよって ウワーッ 本当にね皆さんの善意でこの 絵本がアフガニスタンの子供たちに 届くようなことができたんですけど それ以降広島に来て広島の惨状を知った若い人たち 特に若い人たちが何か自分にできることは ないですかって訊かれるんですね で その時に実はこういう風にして 絵本をやってるんだけど これを翻訳してる人を探してるんだって言って そうやって色々な人が手を挙げて 色んな伝手で出会った方が手をあげてくださって 今38言語になりました 38番目の最後のがねヘブライ語なんですよ ヤーーーーッ イスラエルの子が8月今年の8月9日の日に イスラエルとパレスチナの青年たちが 広島に来て共に食べ共に和解っていうかねえ 「聖地の子供たちを助ける会」っていうのがあって 私もごご挨拶に行っているんですけど その皆さんが呼ばれて そのイスラエルの子がこの絵本を読んで すぐに 僕が朋子さん翻訳するって 彼は今予備役でガザにいます うわーっ で その井上さんっていう方が 「聖地の子供を助ける会」の代表なんですけど 僕はね少なくとも偵子の絵本を訳せた 良かったって言ってくださったって いうんですけどね そうするとパレスチナ側もいますよね ええ パレスチナ側の子も今ガサにいますよね 敵対する関係でみたいな色んな事もあるんですけど 絵本の素晴らしさは 子供だけに終わらない ご両親周りの大人の方が
で実は2005年に大きな地震がパキスタンの あのカシミールであったんです で核の問題とかもやってたんですけど 国際協力っていうのを かなりやってた時期があって今でも続けていますが パキスタンにも小さなプロジェクトがあったんです そしたら パキスタンの人が助けてくれっていうメールが来て でも緊急支援やったことなかったんですけど お薬持って行ったんですよね 結局あのカシミールまで行ったんですけど 朋子さんが ? はい そのカシミールで 子供たちがね学校で亡くなってたんですよね うわーっ 耐震嚮導っていうかなくてね 立派なものを建てるんだけど小さなレンガで 継いであるだけだから で そのボンヤリとこうで あの生き残った5人しか生き残ってなかったって 聞いたんですけどね全体の中で その子がなんとも言えない表情でその崩れた学校を 見てるの見てどうやってこの子供たちを 元気にしたらいいんだろうと思ってた時に ちょうどこの英語版を何冊か持って行ってて でそのファルークさんていう そのパキスタンのイスラマバードでの相方の お嬢さんにねあげてたら一生懸命 一生懸命読んでであまりにも娘が 一生懸命読むから 親も読みますよね で広島を知ってくださって そのファルークさんから ある時朋子さん僕はNGOを作ることにしたんだと サダコファンデーションって言うんです 本当に今今もあって サダコプライマリースクールという 学校 やってらっしゃって そこでは子供たちが 赤が日本 黄色が カシミールの色の制服を着て今でも勉強を始めてるし 平和教育を始めるって言ってくださってます 結局このこの本にまつわる朋子さんのお話に 全てが集約されるというのか アントの象徴されるっていうか そういう活動が膨らんでいるっていうのか そういう理解の仕方でいいですか いいと思います あの絵本のプロジェクトって言うと 皆さん そのあ絵本ですねって言われるけど 絵本には 大きな力があります 世代を超えて 色んなものを伝えられるっていうのと もう1つはですね難しい国でも絵本 を送ることができます ベラルーシとかそれからこの 本に限っては一時期中国で出版されました 許可がよく出ましたね出たなと思いました
というぐらいそれからねコロナの時に実は ラオスに100冊以上送ったんです ラオスの方と全部協力してやるんですね私たちは ラオス語に翻訳をした絵本を作って それを 船便で送る 受け取ったラオスの子供という ラオス名のNGOがそれをラオス中の学校に そしてその時に これはタイラちゃんていう子が 一生懸命やってくれて お父さんがインド お母さんが日本人で市立大学の2年生で コロナで学校行けないからって 来て毎日来ててそして一言ずつ丁寧に メッセージを添えてうわーっやっぱり 彼女にもやっぱり大きな力になりました 自分が手をかけたものが 自分とは違う国の子供たちが読んでくれていて またお返事もいただきますよね そうするとやりがいもある 私朋子さんって聞くとね「はだしのゲンが見たヒロシマ」で 優しい温かいインタビューを されてる方っていうイメージがあるんですよね ということはこの延長でもあるし もちろん どういうことからその中沢先生を インタビューするという企画が持ちあがったんでしょう これはですね実はスティーブン・オカザキという 日系三世の映画監督がいるんですね 彼は最初に実は「はだしのゲン」を アメリカで読んで 被爆者に関心を持った人なんです あ英語版を? なんかね彼が毎回 多分そのファックスかなんかで 次の号が来た来てたっていうんですけど 彼がカリフォルニアのバークレイ校にいる時ですね で それを来るたびに読んでたと で読んで被爆者に関心を持って で最初は「サバイバル」というタイトルで 在米の被爆者を撮ってたんです だけど 納得ができなかったので広島に来て 被爆者を撮ろうと思って彼が来て で ひょんなことから私の妹と スティーブン・オカザキさんが ご縁があったんですけど妹が ちょうど広島から京都に移り住んでて 結局その私が彼が来るたびに広島の中で いろんな段取りをしたり コーディネーションみたいなこと やるようになったんですけど アメリカっていうのは第2次世界大戦中 日本人を収容所に入れましたね 日本人の夫を持ったアメリカの女性の ドキュメンタリーを作ってそして アカデミー賞を取ったんですよ
そんなこともあったりして 私たちも喜んでたんですけど彼が 自分としては忸怩たる思いがあると 納得できる作品ではなかったということで もう1回被爆者を撮りたい で その時に ある大きなテレビ局からオファーもあって だったんですけど スミソニアンの事件から それが流れて でも僕は 約束したと被爆者の人と で ずっと 手弁当で通ってきて 自分でその映像を回してですね 「マッシュルームクラブ」っていう 作品を作ったんですが その時広島で 長崎の時はなかったので私も一緒になって 作ったって ま 手伝ったんですけど そこに中沢啓治さんが出てくるんです 中沢啓治さんの 撮影の時は私は行かなくて所沢だったんですけど 彼1人行って撮ってきて でアニメーションの一部も使わせてもらって 「マッシュルームクラブ」っていうのができた その 約束してから5年くらい経った時 朋子ようやっとできた観てくれないかって言ったんですけど 来た時にシーラネビンスっていうね HBOのカリスマ女プロデューサーから 彼が電話を受けて 不思議な巡り合わせです ブッシュ大統領の時ですけど撮ってくれって で すぐ手伝ってくれる? いいよってでその 「ヒロシマ・ナガサキ」を作るの手伝ったんですけど その中にも中沢さんは でていらっしゃるんですよ で「マッシュルームクラブ」が できたときに中沢さんに 電話でご連絡とって 上映会やるんですけど 来てくださいませんかって 言ったことはあったんですけど だけど なんかその時は 僕はいかれないんだっていうお電話で なんとなく私も敷居が高いっていうんかね ちょっと怖いっていいうかねそんな感じだったんですけど だけど いい作品で 実はアカデミー賞に ノミネートされてるんですよ いい作品です ぜひ見てください その後 出来上がった「ヒロシマ・ナガサキ」も 本当にいい作品です そこにも中沢さんは ちゃんと 出ていらっしゃる そしてそれはエミー賞をとりました 私は そのスティーブン・オカザキ監督から
2000年の時に ユダヤの人たちが自分たち一人一人の記録を 集めて 歴史を残すっていうのをやってるって 私に話してくれて 当時映像記録って あんまり被爆者のはなかったんです そうですか? ええなかったんです 映画とかはあったけど お一人お一人にフォーカスした つまり オーラルヒストリープロジェクトって いってたんですけど それを ひとりひとりのオーラルヒストリー を語る きちんと それで専門チャンネルがあるんだそうです アメリカには ずーっと色んな人 一人一人の アウシュビッツや 色んな収容所の経験と その後の人生みたいなものを で あぁこれは残さないといけないなぁと思った時に そのスティーブン・オカザキの映画の配給のことやなんかも 合わせてずっと手伝っていましたので 映画制作会社シグロさんですけどと出会いがあって あるいは岩波ホールともお付き合いがあって あそこで上映会が「ヒロシマ・ナガサキ」があったので で 映画のいわゆるプロの映画の製作の方たちとの 出会いがあって 最初に沼田鈴子さんの映像を作ったんです 有名な 沼田さん 今でも 今でも私は大事にしてますけど すばらしい方だったんですよ アオギリが生きるんだよ 生きるんだよって 沼田さんが言っておられて 少しずつ 映像記録を作るっていうことに 自分でもやりたいと思うようになって 次が居森清子さんて言って 本川小学校でたった一人生き残って 孤児になられて ご苦労されて 居森さんと それから鶴田マリさんと仰って アメリカと日本に引き裂かれた二世被爆性の女性で 4番目が中沢さんです で その時に少し中沢さんには 敷居が高いと思ってたら いろんな出会いがあって 中沢さんが本当に心うちとけてくださっている RCCの佐々木さんという方がお話を頂いて お会いをしたら 先にちょうど眼が白内障か緑内障になられて 描けなくなった 線が引けなくなったってね そういうタイミングにであって 尚且つ石田さんが監督ですが カメラマンが大津幸四郎さんだったので その大津幸四郎さんていうのは 実はグローバル被爆者を 中沢さんと一緒に訪ね歩いたカメラマンだったんです わーっ何てこと だから中沢さんが大津さんが 撮るってなった時すっかり心を許すというか あ大津さんって それで 撮ることになって 大津さんの力が 大きかったと思います 編集とかなんとかは 石田さんや久仁子が協力してやりましたけど
やっぱりカメラマンの大津さんに対する 信頼が大きかったというのは 私は大きいと思います なんかその過程の中で ものすごく印象に 残ったことってありますか? 忘れられないこと 私は一緒に中沢さんが神崎小学校から ずーっと江波に行くまでの道中を 私が一緒に行きましたよね 私が「朋子」だったのも大きいと思います 亡くなった朋子ちゃん 私の字ですね 「私の遺書」と一緒の朋子ちゃん 漫画の中の友子ちゃんは 友人の友 はい だからなんかそういうのも 巡り合わせだったんだなと思います 分かった 朋子ちゃんと思って先生も だからなんか大津さんがカメラだったし 私もやはり ほんとにお世話になって 「マッシュルーム・クラブ」を作ったけれども 人生の色んな場面とか巡り合わせで 良い時に中沢さん自身が 僕が被写体となって 描けなくなったけど 今度は僕が被写体となって語ると仰ったんで だからその前に 資料館に原画を寄贈されていたりとか そういう重なり合いの中で この撮影ができたということと その撮影の途中で 中沢さんが癌だということが分かって 入院されて市長さんにもお見舞いに行ってもらったり とかですね 市民病院もすごく力を尽くしてくださったので 一回はお元気になられて 撮影を続けることができたんですけど 最初の時と 一回入院された後はやっぱりかなりお痩せになっていますから 私にとっては 中沢さんとその一緒に お金がなかったですから 私が車で運転をする 助手席に中沢さんが乗っている 後ろに大津さんが乗ってカメラで写すみたいに そしてインタビューもする みたいな それからホテルをとることができないので うちの母の家に泊まっていただいて 自炊してもらうみたいな 超超超超安いお金しかなかったので 撮影を進めていく中に 本当に本当の話っていうのを「はだしのゲン」の作品の中で語られていることなのね もちろんカメラアイということも仰ったんですけど 一緒に歩いて一緒にあの日の追体験をして そこで色々なものが 言葉が出てきます ですからそれを全部 今この言葉というよりもあって そして私が一回だけね 中沢さんどうして あの火傷のとこがああいう風に描かれるのかと 思わず訊いたことがあるんです そしたら 朋子さん こう火傷がある こうなるんだよ その中を体液が動くだろ と そうすると この表面が動くじゃないですか
あれなんだよといわれた時に あぁそうかと ああいう風にしか描けない 実際にそうだったんだとかですね それから 僕はここでおふくろと会ったんだと それはちょうど本当に電停の横で そこに座っとったんだというのが 舟入高校に入る本当にそこで ボロを抱いてね お前は生きとったんかって言ってから
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とても大切な企画で!感動致しました。