2023年12月4日収録。映画「はだしのゲンが見たヒロシマ」がどの様なことから生まれたのでしょうか。長い長い物語が底辺に流れているのでした。それは広島の地で、何か自分にやれることはないかと、真摯に求め続け、ピンチもチャンスもしっかり掴んで考え、行動した「朋子」さんがやり遂げたこと。漫画の中の妹友子ちゃんの本名は、実は朋子ちゃんでした。不思議なご縁がいっぱい重なる秘話満載です。
自分にできるのは何があるかったら 漫画しかないですからね で 漫画で 漫画で原爆を とっちめてやろうと 爆進地から1.3kmの地点に船入本町という町があって 僕はそこで生まれて育ったわけ お母ちゃん これから校行くよ と言って 玄関の敷居の上にね 当時4歳になる進がね 模型の船を持ってね ジャンジャンジャガイモサツマイモ なんて言って遊んでたんです 映画「はだしのゲンが見たヒロシマ」を企画した 渡部朋子さんのお話です 映画の中では 中沢啓治さんへのインタビューを担当しました 戦争を起こそうとするものがあったら 噛みついてでもいいから してはいかんと止めなさい 自由に物が言えることが どれほど大切なことか くれぐれも若者たちに伝えてほしい 中沢さんの言葉を 震える心で受け止めた 自身も被爆二世の朋子さんです アントヒロシマという団体の代表を務めております 渡部智子と申します 実はアントヒロシマというのはですね 私が平成元年に 何か色々広島のことについて やりたいと思った時に 自分が思う場所を探したんですけれども なかなかなかったんです それで あるふとしたきっかけからですね 自分で作りました えっ そうなんですアントヒロシマって 私が創設者なんです 大体アントってどういう意味ですか? はいアントって 実はですね 最初に作った時に 市民のグループですね その時の名前は ちょうど実は最初にやった その仕事っていうのがですね 大きな仕事っていうのが 韓国の絵描きさんの 広島招待展だったんです 韓国の5人の絵描きさんたちを 広島にご招待して 5人も? はい 絵画展をやるっていうものが 最初の その大きなアントの仕事で それまではいわゆる その留学生とか修学生の皆さんの生活支援 みたいなものをやってたんですけど もう本当に 当時子供が3人いて三篠小学校っていうとこで PTAの役員やってた時に 三篠小学校の同じ学区に朝鮮の初等学校があったんです 民族学校 今は移転して なくなったんですけど そしたらその橋を挟んで 両方に学校があるじゃないですか そんな問題があったわけじゃなかったのに ある時その山手橋っていう橋の上で どうしてかわかんないけど喧嘩が始まったんですよ で どうやってこの喧嘩を収めたらいいんだろうって PTAの役員としても あるいは 学校の先生方と考えてる時に
ちょうどその国際理解講座っていうのが 広島市の国際交流協会っていうところが 主催してあったので そこへ行ったんです 何か手がかりがあるんじゃないかと思ってですね その韓国理解講座だったんですけど その講師がアン・ビョンコルさんという 広島大学の大学院に来てる方だったんですけど 私がこうここうでって話したらですね その方が千載一遇のチャンスたねと 交流会やったらいいよって言われて あ そうだなと思ってたのと それからそれを すぐに 私も あの学校の校長先生にお話して で 学校にそのアンさんをお招きして で どうしたらいいかねみたいなみんな 悩んでるんですよって言ったら いやそれはもう ぜひ交流会やってくださいて言われて 相手を知るってことですよね ああ あの私ね その時学校の先生方も 立派だったなって まずじゃあ僕たち教師が行ってきます 初めてですよ同じ学区の中でお互いに あっても 行ききかなかったんですよ 行かれて で 行かれた感想が うちの学校と同じじゃ へえー で今度は向こうの先生方も来られて お互いその学校のまず先生同士の 交流があって じゃあこれだったらね 子供たちの交流会しましょうって で 交流会が行わ れたんですね うちの子供たちが三篠小学校に上2人行ってて 1番下は幼稚でしたけど 久仁子が帰ってきて 〇〇ちゃんと友達になったよて言って韓国の人の名前を 言ってね あそりゃ良かったねて言ったら 本当に不思議にその山手の橋の喧嘩って いうのがなくなって これはやっぱり 1つの原点ですね お互いを知るって大事で お互いが知ったら あ自分たちと変わらない同じ 人間じゃんて 先生だったら学校の内容も 教師としても同じじゃんって思いも一緒じゃん 子供たちにっていうことがあってですね それはやっぱり1つ この大きな原体験の1つですね 宝物になって返ってきましたね そうです それはやっぱりあの なんとかしようと 動かれた私たちも PTAもそうですけど 先生方がねやっぱり 行ってみようって またその背中を押してくださった そういう出会いがあったから いろんなことが重なってなんですけど これは やっぱり大きな出会いだったと同時に 私自身の中の 偏見ていうのか 自分でも自覚しました 広島の中にいらっしゃる外国人の人たちの状況を
知るようになって でそこからそのボツボツとですね 例えば もう1つ忘れられないのは バングラディッシュのファミリーと私は出会って で その人たちがね基町アパートっていうとこに いらしたんですよ 基町アパートっていうのは 昔広島に原爆スラムがあってそれを 広島市が建て替えて そしてアパートにして 最初の頃は原爆孤老とかそういう方が 入っておられたんですけど だんだん お亡くなりになって そのお部屋が空くと 2つ そういった海外の留学生が入ってくるケースと 広島県って長野県について2番目に 満蒙開拓団で出てるんですよ あそうなんですか はい ですから中国残留孤児 長野についで 広島多くて その皆さんが帰って来られると 空いたその基町アパートに 暮らしてらっしゃるんです ああ だから今 そこにある基町小学校は 外国籍が半数以上 で 中国残留孤児の子どもたち それから外国人が多くて 日本語教育もしっかりするっていうので いろんな国の今度は働きに来てる外国人の 子供たちがいて まそういう学校もあるぐらいで 私は実はその基町小学校の開校の前は そこはなくて白島小学校っていうとこに 行ってたもんですから その 基町の中にうちの父の親しくしていた 灰塚先生が私の主治医でそうすると かつての 原爆スラムっていうのは たくさんの朝鮮半島の方が いらっしゃいましたから 先生がそういった 皆さんをね診察するのを見てました 今そういうアジアの方とかねいろんな関わりが 初めて気がついたことなんですけれども 朋子さんの後ろの背景に今すごく本があるんですが はいはい それもなんか外国のなんですか いっぱい海外の本が並んでますけど これはですね そうやって私はその まずあの韓国の皆さん 朝鮮半島の皆さん それから少しずつそのバングラデシュとか 日本に来られていた 留学生とか 修学生の皆さんの生活支援のようなことを 市民グループでやってたんですけど で ある時に その韓国の方がその広島で絵画展を やりたいと言われるので一応会の名称をつけて 創設したのが 「アジアの友と手をつなぐ広島市民の会」です それで最初の話に 結びついてくんですね はい でこの絵本は やっぱりその広島というところには いろんな国々のいろんな方が来てくださって 私がアフガニスタンのアフィファという少女と 広島で出会ってるんですね カブール からパキスタンに逃げる途中に地雷で ちょうどその逃げてる途中で車が止まって 川へ水を飲みに行く時に地雷で彼女は片足をなくして
妹は亡くなってるんです その アフイファちゃんっていう子がですね実は 「アイ・ラヴ・ピース」というアフガニスタンと日本の 合作の映画があって そのヒロインになっていて で その「アイ・ラブ・・ピース」という映画を 作ったのが 実は 中村ブレイスさんとおっしゃって 島根県の大田にある 有名な義足であるとか あるいは 乳癌でね乳房をなくされた方も そういった 高い技術を持ったそういったところの方が ちょうど島根県の教育長をしておられて教育委員長かな そんなんで 義足屋さんですからそういった片足なくした 女の子を主人公にしてその子と島根の大田と アフガニスタンとの映画を作っておられて たまたまですねジャイカを介してその アフイファちゃんを広島に連れてきたいと 思ってらっしゃるから広島で受けてくれないかと仰って で 私が受けて 中村ブレースさんもご一緒に それから アフガニスタンで撮影されたヌルサイフィーさん というですねアフガニスタンの監督さんも ご一緒に来られて で ずっと広島の中を 案内してた時に原爆の子の像をどうやって アフィファちゃんに伝えようかって思った時に 宮本慶子さんっていう 英語の通訳者の方も 一緒に回ったんですけど彼女が この「おりづるの旅」という絵本を使って アフィファちゃんに偵子さんの話と原爆の子の像の話を 伝えたんですね それをその絵本で 伝えてる時に そのヌルサイフィーさんという アフガニスタンの方がね 突然ね泣き出しちゃったんですよ あの原爆の子の像のそばで おいおいおいおい泣いて アフガニスタンの子供と 偵子は同じだと泣かれたんですよ 私たちもびっっくりしてね本当に 男泣きにね泣かれたんでびっくりしたんですよ へえ で 後から聞いたら落ち着かれてね その偵子ちゃんとアフガニスタンの子供は 一緒だと で お帰りになった後にメールが来て そしてアフガニスタンの子供たちに この絵本を読ませたい で なんとかならないかって ご連絡を受けて それで 何とかしたいと 私も思って でそのPHP出版に 連絡を取って東京まで行って アフガニスタンで出版できないかっていう 話をしたら いわゆる紛争地での出版は できないんだと言われ まあそうですかって 帰ってきたら 編集者の人がね なんか 思ってくださったんでしょうね あの ある団体がその うちから本を買ってそこに 他言語のシールを貼って新しい絵本にして で シャプラニールさんが最初やっておられて 紹介してくださった で こんな風にやって
やってみませんかって言われて ええ やってみますって言って で最初に日本語から 英語に訳して でその英語に訳したものを 今度は私がペシャワールまで行って で サイフィーさんがカブールから ペシャワールに来て受け取ってというのが 当時アフガニスタンに物を送ることが できませんでした で そうすると今度はサーフィーさんが それをダリー語に翻訳をして 何語? ダリー語 アフガニスタンはパシュトゥーン語とダリー語 の国なんです 聞いたことないですよ ダリー語 に翻訳して で その時にですね 実はジャイカの 協力を得たんですけど 当時ジャカはね 緒方貞子さんだったんですよ 紛争地にもジャイカのオフィスを作るという方針 現場が大事だっていうことで カブールに 事務所があったですジャイカの ああそうなんです でその皆さんが協力をしてくださって サーフィさんは 一応ですね その絵本ができたら ジャイカ事務所に持っていく ジャイカ事務所が必ず 日本と行ったり来たりしますよね その時に 人伝に日本に持って帰って ジャイカ中国ってうのが西条っていうとこにあるんです そこに持って で私はそれを受け取って そして翻訳シールを貼って で実はダリー語と日本語って 向きが違ってて 右から左になります で それをそのまんまで1回シールを貼って 送ったことがあるんですけど これなんですけど でダリー語の本で そしたら 今でも覚えてますけどジャイカの斎藤さんが 私がこの絵本をまた今度ペシャワールまで 持っていって で その時にこういう風ではなくて 新品を切ってるんですよ この本の こう変えてるんですよ これを単なる輪っかで2つだけ止めてたら サーフィさんに言われて 子供たちには美しいものが要ります これも 私当時 ちょっともうちょっと上にあげて はい カラーコピーじゃかったんですよ アフガニスタンの人たちが翻訳して ここカカラーでこういう風になってたんですよ ああそうなんですか 他の本は全く 例えば英語なんかだったら このまんまなんですね あ はいそうですね モノクロのはい だけどサーフィさんに ペシャワールにまた できて持っていった時に 子供たちはパンもいるし教育もいるけど 美しいものがいるんです 言われて わかりましたって言ってカラーコピーも買って こっちで印刷するようになるし この 輪っか2つで止めていたのを こうい止め方にして でそのダリー語の本を作ったけど
届ける方法がなかったんですね ええ そしたら当時そのジャイカにいらした人たちが ものすごくこのプロジェクトを応援してくださって 自分たちがその アフガニスタンに行く出張のトランク10㎏開けてくださって ここに本を詰め込んで 持ってってくださった その後はですね やっぱり向こうで出版した方がいいということで この本もそのまま出版できなかったので 今度は「さだこの祈り」という 次々出てきますね はい 絵本を作りましてそして 次々出てくる こっちがダリー語で はい でこれは もう向こうで出版をして この中の絵は 全然違うパキスタン人のアーティストが 作ってくれたんですね 「さだこの祈り」という ここに写ってる女性は被爆者の女性なんですけど この人がお金を出してくれたの あらー ところがこの絵はこの中にある絵を 勝手に使ってたんですよ ええええええ これがファリアさんの絵だったんですけど こことこことだけはね アフガニスタンの人がね こっちの本の絵を使っていて 顔色変わって で すぐにPHP出版に連絡したら ええ そしたらこの狩野先生っていうのが 作者は うみの先生 絵は狩野先生だったのね 狩野先生のとこまでPHPの編集者が行ってくれたら いいですよって ウワーッ 本当にね皆さんの善意で この 絵本が アフガニスタンの子供たちに 届くようなことができたんですけど それ以降 広島に来て広島の惨状を知った若い人たち 特に若い人たちが 何か自分にできることは ないですかって訊かれるんですね で その時に 実はこういう風にして絵本をやってるんだけど これを翻訳してる人を探してるんだって言って そうやって色々な人が手を挙げて色んな伝手で出会った方が 手をあげてくださって今 38言語になり 38番目の最後のがねヘブライ語なんですよ ヤーーーーッ イスラエルの子が8月 今年の8月9日の日に イスラエルとパレスチナの青年たちが 広島に来て 共に食べ共に和解っていうかねえ 「聖地の子供たちを助ける会」っていうのがあって 私もご縁が続いてるんですけど その皆さんが呼ばれて そのイスラエルの子がこの絵本を読んで すぐに 僕が朋子さん翻訳するって 彼は今予備役でガザにいます うわーっ でその井上さんっていう方が 「聖地の子供を助ける会」の代表なんですけど 僕はね少なくとも偵子の絵本を訳せた 良かったって言ってくださったっていうんですけどね そうするとパレスチナ側もいますよね ええ パレスチナ側の子も今ガサにいますよね
敵対する関係でみたいな 色んな事も あるんですけど 絵本の素晴らしさは 子供だけに終わらない ご両親周りの大人の方が で実は2005年に大きな地震がパキスタンの あのカシミールであったんです。 で核の問題とかもやってたんですけど 国際協力っていうのを かなりやってた時期があって今でも続けていますが パキスタンにも小さな プロジェクトがあったんです そしたら パキスタンの人が助けてくれっていう メールが来て でも緊急支援やったこと なかったんですけど お薬持って行ったんですよね 結局あのカシミールまで行ったんですけど 朋子さんが? はい そのカシミールで 子供たちがね 学校で亡くなってたんですよね うわーっ 耐震嚮導っていうかなくてね 立派なものを建てるんだけど小さなレンガで 継いであるだけだから そのボンヤリとこう あの生き残った 5人しか生き残ってなかったって 聞いたんですけどね 全体の中で その子がなんとも言えない表情でその崩れた学校を 見てるの見て どうやってこの子供たちを 元気にしたらいいんだろうと思ってた時に ちょうどこの英語版を何冊か持って行って で そのファルークさんていう そのパキスタンのイスラマバードでの相方の お嬢さんにね あげてたら 一生懸命 一生懸命読んで であまりにも娘が一生懸命読むから 親も読みますよね で 広島を知ってくださって そのファルークさんから ある時 朋子さん 僕はNGOを作ることにしたんだと サダコファンデーションって言うんです 本当に今 今もあって サダコプライマリースクールという学校 やってらっしゃって そこでは子供たちが 赤が日本黄色が カシミールの色の制服を着て 今でも勉強を始めてるし 平和教育を始めるって言ってくださってます 結局 このこの本にまつわる朋子さんのお話に 全てが集約されるというのか アントの 象徴されるっていうか そういう活動が膨らんでいるっていうのか そういう理解の仕方でいいですか いいと思います あの絵本のプロジェクトって言うと皆さん その あ絵本ですねって言われるけど 絵本には 大きな力があります 世代を超えて 色んなものを伝えられるっていうのと もう1つはですね 難しい国でも絵本を送ることができます ベラルーシとか それからこの 本に限っては一時期中国で出版されました 許可がよく出ましたね 出たなと思いました
というぐらい それからねコロナの時に 実は ラオスに100冊以上送ったんです ラオスの方と全部協力してやるんですね 私たちは ラオス語に翻訳をした絵本を作って それを 船便で送る 受け取った「ラオスの子供」という ラオス名のNGOがそれをラオス中の学校に そして その時にこれはタイラちゃんていう子が 一生懸命やってくれてお父さんがインド お母さんが日本人で市立大学の2年生で コロナで学校行けないからって来て 毎日来てて そして一言ずつ丁寧に メッセージを添えて うわーっ やっぱり彼女にも やっぱり大きな力になりました 自分が手をかけたものが 自分とは違う国の子供たちが読んでくれていて またお返事もいただきますよね そうするとやりがいもある 私朋子さんって聞くとね 「はだしのゲンが見たヒロシマ」で 優しい温かいインタビューを されてる方っていうイメージがあるんですよね ということはこの延長でもあるし もちろん どういうことからその中沢先生を インタビューするという企画が持ちあがったんでしょう? これはですね実は スティーブン・オカザキという 日系三世の映画監督がいるんですね 彼は最初に実は はだしのゲンをアメリカで読んで 被爆者に関心を持った人なんです あ 英語版を? なんかね彼が毎回 多分そのファックスかなんかで 次の号が来た 来てたっていうんですけど 彼がカリフォルニアのバークレイ校にいる時ですね で それを来るたびに読んでたと で読んで被爆者に関心を持って で 最初は「サバイバル」というタイトルで 在米の被爆者を撮ってたんです だけど 納得ができなかったので広島に来て 被爆者を撮ろうと思って 彼が来て で ひょんなことから私の妹とスティーブン・オカザキさんが ご縁があったんですけど 妹が ちょうど広島から京都に移り住んでて 結局その私が彼が来るたびに広島の中で いろんな段取りをしたりコーディネーションみたいなこと やるようになったんですけど アメリカっていうのは第2世界大戦中 日本人を収容所に入れましたね 日本人の夫を持ったアメリカの女性の ドキュメンタリーを作って そして アカデミー賞を取ったんですよ そういこともあったりして 私たちも喜んでたんですけど 彼が その自分としては忸怩たる思いがあると 納得できる作品ではなかったということで
もう1回被爆者を撮りたい でその時に ある大きなテレビ局からオファーもあって だったんですけど スミソニアンの事件から それが流れて でも僕は 約束したと被爆者の人と でずっとこう手弁当で通ってきて 自分でその映像を回してですね 「マッシュルーム・クラブ」っていう作品を作ったんですが その時広島で 長崎の時はなかったので 私も一緒になって 作ったって 手伝ったんですけど そこに中沢啓治さんが出てくるんです 中沢啓治さんの 撮影の時は私は行かなくて 所沢だったんですけど 彼1人行って撮ってきて でアニメーションの一部も使わせてもらって 「マッシュルーム・クラブ」っていうのができた で 「マッシュルーム・クラブ」っていうのその 約束してから5年くらい経った時 朋子 ようやっとできた 観てくれないかって言ったんですけど で 来た時にシーラネビンスっていうね HBOのカリスマ女プロデューサーから 彼は電話を受けて 不思議な巡り合わせです ブッシュ大統領の時ですけど撮ってくれって で すぐ手伝ってくれる いいよって でその 「ヒロシマ・ナガサキ」を作るの手伝ったんですけど 1945年の8月6日に何が起きたの か知っていたら教えてください 1945? 8月6日? わかんないです これを伝えていくために お前は生かされてるんだよって思いました 死んでしまった弟妹に申し訳なくて 代われるものなら私が代わって死にたいと思ったんですよ 原爆が落ちた60年前は13歳です ありたあらゆる 格好の人がですね たくさん亡くなってるんです 40日ぐらいかかって意識が戻った その中にも中沢さん出ていらっしゃって 「マッシュルーム・クラブ」が できた時に 中沢さんに 電話でご連絡とって 上映会あるんで来てくださいませんかって 言ったことはあったんですけど だけどなんかいや その時は僕は行かれないんだって いうお電話で でそれでなんとなく私もこう 敷居が高いっていうかねえ ちょっと怖いっていうかね そんな感じだったんですけど
だけどいい作品で 実はアカデミー賞に ノミネートもされました いい作品です 是非見てください その後 出来上がった「ヒロシマ・ナガサキ」も本当にいい作品です ああ そこにも中沢さんがちゃんと 出てらっしゃる そしてそれは エミ―賞とりました うわー 私はそのスティーブン・オカザキ監督から 2000年の時に ユダヤの人たちが その 自分たち一人一人の記録を集めて 歴史を残すっていうのをやってると で 私に話してくれて 当時映像記録って あんまり被爆者もなかったんですね そうですか? ええなかったんです あの映画とかはあったけど お1人お1人にフォーカスした つまりあの オーラルヒストリープロジェクトって言ってたんですけど それは1人1人のオーラルヒストリーですね 語りをきちんと それで専門チャンネルがあるんだそうです アメリカには ずっといろんな人1人1人のそのアウシュビッツや 色んな収容者の経験とその後の人生みたいな で あ これは残さないといけないなと思った時に そのスティーブン・オカザキの映画の配給の ことやなんかも合わせてずっと手伝ってましたので 映画制作会社しシグロさんですけど と出会いがあって あるいはその岩波ホールともお付き合いがあって あそこで上映会が「ヒロシマ・ナガサキ」あったので で 映画のいわゆるプロの制作の方たちを との出会いがあって 最初に沼田鈴子 さんの映像を作ったんです あの有名な 沼田さん今でも今でも実は私は大事にしてますけど 素晴らしい方だった アオギリが生きるんだよ 生きるんだよって 沼田さんが言っておられて 少しずつその映像記録を作るっていうことに 自分でもやりたいと思うようになって で 次が居森清子さんと言って 本川小学校でたった1人生き残って 孤児になられてご苦労されてっていう居森さんと それから鶴田マリさんとおしゃって アメリカと日本に引き裂かれた日系三世の女性 4番目が中沢さん で その時に少し 中沢さんには敷居が高いて思ってたら
色んな出会いがあって 中沢さんが 本当に心を打ち解けてくださってる RCCの佐々木さんという方がお話をいただいて でお会いをしたら 最近ちょうど眼が白内障か緑内障で 絵が描けなくなった 線が引けなくなった・・・ そういうタイミングに出会って なおかつ石田さんが監督ですが カメラマンが大津幸四郎さんだった その大津幸四郎さんというのは 実はグローバル被爆者を 中沢さんと一緒に訪ね歩いたカメラマンだったんです なんてこと だから 中沢さんは大津さんが撮るってなった時 すっかりその心を許すというんですか あぁ 大津さん で撮ることになって 大津さんの力が大きかったと思います 編集とかなんとかは石田さんや久仁子も協力して やりましたけど やっぱりカメラマンの大津さんに対する 信頼が大きかったっていうのは私は 大きいと思います なんかその過程の中で ものすごく印象に残ったことってありますか 忘れられないこと 私はあの一緒に中沢さんが 神崎小学校から ずっとその江波へ行くまでの 道中を 一緒に行きましたよね 私が朋子だったのも大きいと思います 亡くなった 朋子ちゃん 私の字ですね 「私の遺書」の時の朋子ちゃん 漫画の中は 友人の友ですけどね だからなんかそういうのも 巡り合わせだったんだなと思います じゃ わかった 朋子ちゃんと思って先生も だからなんか大津さんがカメラだったし 私もやはり その本当にお世話になって「マッシュルーム・クラブ」 作ったけれども人生の色んな場面とかが 巡り合わせで良い時に中沢さん自身が 僕が被写体となって 描けなくなったけど 今度僕が被写体となって語ると仰ったんで その前にあの資料館に原画を寄贈されていたりとか そういう重なり合いの中で この撮影ができたということと その 撮影の途中で中沢さんが癌だということが分かって うわあ で入院されて で市長さんにも お見舞いに行ってもらったりとかですね 市民病院もすごく力を尽くしてくださったので 1回はお元気になられて 撮影を続けることができたんですけど 最初の時とその1回入院されて後はやっぱり かなりお痩せになってましたから 私にとっては中沢さんとその一緒に お金がなかったですから私が車の運転をする 助手席に中沢さんが乗ってる 後ろに大津さんが 乗ってカメラで映す みたいなね そしてインタビューもする それからそのホテルを取ることができないので うちの母の家に泊まっていただいて 自炊してもらうみたいな超超超超安いお金しかなかったので で 撮影を進めていった中に やっぱり本当にその本当の話っていうの 「はだしのゲン」の
作品の中で語られてることがね で ま もちろんカメラ・アイということも仰ったですけど 一緒に歩いて 一緒にあの日の 追体験をしていって そこで色んなものが 言葉が出てきます ですからそれが 全部こう今はこの言葉っていうよりもあって そして私が1回だけね 中沢さんどうして あの火傷のとこがああいう風に描かれるのかと 思わず聞いたことがあるんです そしたら 朋子さん こう火傷があると こうなるんだよ そうするとその中を体液が動くだろと そうするとこの表面が動くじゃないですか あれなんだよと言われた時に あそうかと ああいう風にしか描けない 実際にそう だったんだとかですね それから僕はここで おふくろと会ったんだよと ちょうど本当に電停の横で ここに 座っとったんだ いうのが船入高校に入ると 本当にそこで ボロボロの抱いてねで お前は生きとったのかって言ってから その最後の その場面がありますねお父さんそれから あのお姉ちゃん 弟 そこでのできたことを微に入り細に入り おふくろが 話すんだよって本当に お母さん あそこで描かれてる そこではゲンはいますけど そのようやっと再会した時に お母さんが中沢さんに語られたっていうこととかですね 一緒にあのゲンの元の家が今あるので そこ行って朴さんはここでねとかですね ここでねとかとか それから ある時そのゲンちゃんが 遺骨を拾いに行きますよね あれも本当で 特に弟の遺骨をねバケツを持たされて お兄ちゃんと一緒にお骨拾いに行った時に 身体中何かピピピーっと ちょっと何か冷たい・・・ なんかとかね ありますよね もうリアルに 迫ってきますよね そのやっぱり場所に行くって そうですね で特に中沢さんにとっては 本当にあの朋子ちゃんを焼いた なかなか焼けなくてねその時の その寂しそうなこととかですね そういう それと江波で おふくろが虐められて これも本当で で その1回江波の方とね 会っていただいた時が あるんですよ あ怖い 喧嘩に なったんですやっぱり ですよね で喧嘩になって中沢さん じゃあもう帰りましょう と言われたタクシーの中で本当に中沢さんが とうとう原爆が来たんだと 癌がかわかったんだと 言われましたね とうとう原爆が来たんだと 原爆が来た うん だから ずっと恐れていらっしゃったと思いますね とうとう来たんだ 本当にあれは貴重な映画になりましたね だから本当にそういう意味では中沢さんは 自身が被写体となってっていう覚悟もお持ちでしたし
だからカメラマンがやっぱりそういう旧知の間柄で 信頼されてましたから だからその語ることに躊躇はなかったですし それから大津幸四郎さんは立派なカメラマンでね で 話も語らなくても分かるからね もう あのそういういろんな巡り合わせの中 私もなんか震え震える心で インタビューするって言うんですかね だったですけど それは私にとっては かけがえのない そして中沢さんが本当に こう よく考えていらしたっていうのはその後にですね 自由にものが話せること 最後若い人にね そのお話であるとか もう戦争起こそうとしたら噛みついてやれ ただあれを「平和ノート」に載せる時に ちゃんと私は中沢さんと一緒に教育委員会に行って 教育長 他とお話をしたんです で 教育長他 皆さん納得されてあの「平和ノート」に 載ってるんですけど その時にね原爆投下ということは 日本が招き入れてしまったんだと 一方的に落とされたのではない つまり加害の責任があるということですよね そしてパールハーバーを奇襲をかけた その結果として まず中国に行き それが東南アジアを攻め フィリピンを占領し 同時にその時にパールハーバーていう 招き入れたと仰ったんですね これはやっぱり本当にその歴史というか それをきちんとお考えになって しかし しかしやっぱり あれは許せない兵器だと いうんですかね だからそこら辺の どういう風に物事を考えるかっていう 色んな中沢さんが考えて考えて考えて ご自身が描きつつ考え抜かれた あの 視点っていうのは今非常に大事だと思います 今こそっていうかね 今もというか で 憲法は大事だと あんないいものもらって 本当に良かったと これを大事にして 絶対に戦争はいけんと 戦争があって原爆があった 絶対に攻める方も両方ない とにかく戦争はいけん 平和は宝だということをですね で戦争しようと思うものがあれば だからこそ 噛みついてでもいいからしてはいかんと でその前に絶対に自由にものが言えるっていうことが どれだけ貴重なのか これは 若い世代にくれぐれもくれぐれも 仰ってた ああそうですか なんか中沢先生の魂が朋子ちゃんを通してね こちらにも伝わってきたんですけれども じゃあ最後に一言 私はやっぱりはだしのゲンほど 被爆の実相を伝えられ 伝えてるもの 今ないと思います だからね皆さん 是非読んでもいただきたいですし
子供たちが気軽に読める環境を作ってもらいたいです 昔は学級文庫にありましたから みんなが手に だからそういう環境を 一緒になって作りながら大人もですね もう1回はだしのゲンを読む時に これでも あの被爆の惨状っていうのは 子供たちが読むんだ からと思って 少し手加減をされて 描かれたもので この比ではないと それともう1つは 中沢さんほど本当に怒りを抱えて そしてそれを 表現された方はないと思うし 本当に中沢さんが 望んでおられたのは 戦争のない核兵器のない 平和な世界で そのためには憲法は 大事なんだと 今の平和憲法がね9条が大事なんだと そして最後は麦の精神で 踏まれてもまっすぐにですよね そうですね 踏まれても踏まれても元気のゲンで そういうことを 歌ってもらったことがあるんですここで お母さんがお出かけになっ てる時に 僕の仕事は 米をといで ご飯炊くことだったから 僕は米をとぎながら「枯葉」を 歌ったと 今の岩谷時子さんじゃないもう1つ前の「枯葉」の歌を 6歳の少年が「枯葉」を歌ったって言った時に 6歳の少年が見たこと その心象風景みたいなものが 元気なあの歌は歌ってるけど中沢さんは 「枯葉」を歌ってたと その心情たるや その心情たるや・・・私は追いつきませんが その心情たるやと思いました その「枯葉」を歌いながら米をといでそして 重湯ができたらお母さんの代わりにタンポンで 朋子ちゃんに4ヶ月生きたと仰って その子が死んだ というお話を 渡部朋子ちゃんにしていただきました 朋子ちゃん ありがとうございました いいえ