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【睡眠用】泣き笑いの阪神タイガース!ファンが知るべき信じられない失敗エピソード集【プロ野球】

by ANNAPOST



▶︎チャプターリスト(目次)
00:00    1.一軍出場0で退団・引退したドラ1位たち
18:26    2.史上唯一の1位指名入団拒否
38:32    3.【史上最低長期契約】
58:14    4.大損しくじり格差トレード史
1:14:09   5.立浪政権の矛盾トレード
1:34:51   6.平成大失敗ドラフト
1:55:32   7.即戦力外上位指名オールドルーキー史
2:14:29   8.即戦力外に終わって逆指名選手たち
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■格差トレードシリーズ動画
・【衝撃】阪神タイガーズだけが一方的に大損してしまったしくじり格差トレード3選【プロ野球】
→https://youtu.be/NnyAwDFWMc4

・【再覚醒】オリックスだけが一方的に大損してしまったしくじり格差トレード3選【プロ野球】
→https://youtu.be/L8O7cY_IVSw

・【前代未聞の移籍拒否】ホークスだけが一方的に大損してしまったしくじり格差トレード3選【プロ野球】
→https://youtu.be/9StXVIYvnbo

・【横浜を出る喜び】ベイスターズだけが一方的に大損してしまったしくじり格差トレード3選【プロ野球】
→https://youtu.be/PEd7ygENN9k

■過去動画
・【不死鳥】西武を戦力外になった後に他球団で大活躍した選手3選【プロ野球】
→https://youtu.be/ONDeywSyT8g

・【衝撃】新・3大即戦力外ドラフト!優勝から数年でチームに暗黒時代をもたらした悲劇【プロ野球】
→https://youtu.be/vclUp_jzYa8

・【悲惨】あまりにも弱過ぎてシーズン途中で解任された監督3選【プロ野球】
→https://youtu.be/blh4LbVZGR4

こんにちは ゆっくり霊夢です ゆっくり魔理沙だぜ今回は平成配信の失敗 ドラフト5選を紹介するぜ 過去に三大即戦力外ドラフト 巨人の暗黒ドラフト誌を扱ったけど今回が 第3弾ってことね 阪神は過去のドラフトで結構泣かされてき てるからなお対象は1989年から 2018年までの期間評価ポイントはここ の選手の活躍度全滅度合いを中心に評価し かつ当時のチーム状況も加味して判断し てるぞ当時のチーム状況にあったドラフト 戦略だったかどうかも考慮されるのね 前置き長いのは嫌われるので早速本編に 行くとするか平成配信失敗ドラフトし一つ 目は1995年のドラフトだこの時期の 阪神といえば暗黒時代真っ盛りで1985 年の日本一を最後に10年間リーグ優勝 なしおまけにその10年間でBクラス8回 最下位はなんと5回2年に1回のペースで 最下位になってるじゃない実は1992年 にリーグ2位になっていて公庫復活かと 期待されたんだがそこから4位4位ときて このドラフトが行われた1995年は46 勝84敗 首位と36ゲーム差の最下位に沈んでたん だ一瞬光が差したかと思われたところから 奈落の底に突き落とされたのね 借金38を抱えるなんてそんなに当時の 阪神は戦力に乏しかったの実は投手力は そこまで悪くなくて 失点数536でリーグ4位この年トップの 巨人ですら494失点なのでそこまで 大きな差はなかったんだ リーグワーストの中日の651失点を考え たら全然悪くないわね 投手陣の陣容も防御率2.98を記録した エースの破け1が27歳防御率3.16の 川尻哲郎が26歳と若くそのほかにも29 歳の湯船としろう26歳の隔離楯を24歳 の竹内雅也と先発陣は20代の高等酒が 多数揃っており中期的に見ても戦力は維持 できそうな状況だったんだ絶対的なエース はいないけど決して弱点にはならないで あろう陣容だったんじゃない問題が 大きかったのは打線の方だろうな 阪神が抱える 恒久的な問題ねこの年の得点数は451点 でリーグワースト本拠地が広い甲子園とは いえ本塁打88本はリーグ唯一の二桁台と 深刻な長打力不足に陥ってたんだ めぼしい若手選手はいなかったの当時は 23歳の新庄剛志26歳の桧山進次郎フジ テレビと期待の有望株はいたもののいずれ

の選手もこの年は低調な成績に終わって おり深刻な人材難に陥ってたんだ中軸売っ てる選手は30代のベテラン選手だしまず は野手から立て直していきたいところね この頃の阪神は優勝した1985年以降の 重度のドラフトで獲得したドラフト1位の うち9名が投手だったんだ めちゃくちゃ投手にリソースを割いてる じゃないの 唯一の野手でドラフト1位指名した萩原誠 は入団から4年経過した時点で通算安打数 30本と決して順調に育ってるとは言い 難い状況だったぜこれはもうこの年の ドラフトで野手の有望株を獲得するしか ないわね1人や2人の即戦力を獲得できた とて優勝を狙える状況でもなかったわけだ しところが蓋を開けてみると95年の ドラフトで阪神は1から3位の上位3名 全てが社会人投手の指名だったんだえどう いうこと4位で曽我部なおき外野手を指名 しているが指名時点で23歳の社会人出身 のため中長期的な展望を意識したとは思え ない属性だったからなえでもでもさすがに 回で素材が他の選手を指名したんじゃない のいやこの年の使命はこれで終了わずか4 名を獲得したにとどまったんだ中長期な チーム作りが求められる状況で全員社会人 でしかも投手ドラフトって何を考えてるの よ 伸び悩んでるとはいえ心情 檜山と有望な外野手を保有できてる状況で 外野手を獲得するちぐはぐっぷりだからな もうめちゃくちゃじゃないそんなにこの年 は野手に人材がいなかったの いやこの年のドラフトの最大の目玉として注目されてたのは地元関西の PL 学園出身の福留孝介選手がいたな ええ めちゃくちゃ ピンポイントな人材じゃない 当時 福留 選手は中日か巨人以外に指名されたら社会人に進むと公言しており 7球団競合の末に近鉄が指名権を獲得した結果 入団を拒否して日本生命に進んでるんだ せっかく ピンズドな逸材がいたのに見向きもされてなかったのね ただ 他にも高校生なら 中日ドラ1位の荒木正浩 台車 組では 清水敬之 西敏久 高木大成

らがいた状況を考えると もっと適切な使命があったのではと思わざるを得ない 結果論とかではなく単純に ドラフト戦略が適切じゃなかっただけに言いたくなる気持ちはわかるわ で入団後の4選手はどんな活躍をしたの 最もまともな働きをしたのは1位の舟木投手で1年目から 1軍で6勝をマークしたんだなんだ まともな成績を残した選手いるじゃないの いや内容自体 してドライチーにふさわしかったとは言い 難く防御率4.49で 投球回数も104回3分の1と 質量ともに合格点は与えづらい成績だった んだ2年目以降はひじの故障にも苦しみ 年々投球回数を減少させてしまい2002 年に戦力外通告を受けたんだ機体のドラ1 がわずか7年で対談は厳しいわねその他の 投手ではドラフト3位の林投手がわずか2 年で戦力外通告2位の中の瀬投手もわずか 14試合に登板しただけで99年に退団し てるんだ多くのリソースを突っ込んだ投資 補強は全く実らずに姉妹だったのね4位の 曽我部選手も8年間でたったの19試合 出場で戦力外となってるないやいやのっけ からなかなかの地獄ドラフトになってる じゃないのよこれ以降の阪神は96年から 2001年までに5度の再会を味わうほど 低迷したんだが平成初期の長期低迷には このドラフトの失敗もかなり影響したと 言わざるを得ないだろうなドラフトの 恐ろしさが顕著に出た霊って感じで 恐ろしいわね平成配信失敗ドラフトし2つ 目は1999年のドラフトださっきの暗黒 ドラフトからわずか4年後にまた失敗 ドラフトしちゃってるじゃない99年の 阪神は55勝80敗で再開直近4年間で 3度目の再会とまさに泥沼状態だったんだ どうせまたや主力が足りなかったんでしょ ご名答正解してもちっとも嬉しくないわ この頃は得点力不足がさらに深刻化して おり5年連続で得点数リーグワースト 想像以上に悲惨な状況じゃないドラフト 戦略の失敗のツケが回ってきてる感じする わね25歳の坪井智也今岡真琴を保有して たとはいえ主力の多くが30代に突入数 少ないスター選手の心情もFA取得を翌年 に控えており中長期的な展望が決して 明るいとは言えない状況だったんださすが に今回ばかりは野手中心のドラフトをした んでしょうねさすがに阪神フロントも状況 を理解してたようで4球団が逆指名枠を 争ったほどの逸材であるアマチュア ナンバーワン内野手と評価されてた九州 共立大学の的場貫一を1位指名したんだ まずはセンターラインから立て直す

理想的なチームビルディングじゃない長年 二遊間のレギュラーを務めてた和田豊が すでに37歳を迎えてて今岡選手も遊撃手 定着が厳しくなってた状況だけに指名自体 は適切な戦略だったんだが問題は結果って ことよねそうだな大きな期待を受けた的場 選手だったがいかんせん呼称が多い選手で 脇腹肉離れ左失墜 肩の亜脱臼など 度重なる怪我もあって通算24試合の出場 のみで6年目には戦力外通告を受けたんだ 指名戦略自体は悪くなかったけど 選手の力量を見誤ってしまったのねその他 の野手では上坂選手が一時期レギュラーを 掴みかけたもののその後は低迷し徐々に 出場機会が激減上坂選手ってノムさんが 監督の時にF1セブンとか言われて期待さ れてたスピードスターよねああ 結局大成したのは赤星選手だったがな ちなみに上坂選手は2003年に自動車 運転でスピード違反を犯し 懲役6か月執行猶予2年の有罪判決を受け てるなちょっと笑えない冗談だわね7位の 松田選手は3年で対談4位の新井8位の 高山選手は出場機会なしで自由契約と 課題だった野手陣を改善することが ほとんどできないドラフトになったんだ そもそもドラフト戦略が間違ってた95年 とはまた違った残念感があるドラフトね 一応投手では2位の吉野誠投手が休園左腕 としてコンスタントに活躍したがワン ポイント中心の救援投手の貢献はかなり 限定的なものでこの時期のチームに求め られてた中長期的なコアプレイヤーでは なかったんだこの年の阪神全体で考えると 大きな成果があったドラフトとは言えない わね ちなみにこの年のドラフトには 野手では川崎棟乗り田中健介 栗原健太 投手では清水直之高橋尚成 岩隈など長きに渡って19で活躍した選手 たちもいるだな完全に不作ではなかった だけにやりようはあった気がするわね 阪神は2002年に星の1001監督が 就任していこうFAやトレード外国人補強 を使って戦力を劇的に改善させるがそうし た補強手段で獲得できる選手は基本的に 中堅ベテラン選手のみ 短期的な戦力強化には成功したがドラフト で若い世代の人材を確保できなかったため チーム全体が高齢化してしまったんだ一 時期阪神では30歳でもまだ若手なんてお 笑い芸人さんみたいなこと言われてる時期 があったもんね平成配信失敗ドラフトし3

つ目は2006年4つ目は2007年の ドラフトだここでは一気に2つ紹介し ちゃうのね時代背景を含めてまとめて紹介 した方が分かりやすいと思うからな なるほどねってか2年連続で失敗ドラフト をかましちゃってるのをちゃんと突っ込ん でくれたかこの時期の連続ドラフト失敗が 大きく影響して2010年代の阪神は かなり高齢化していったんだ90年代の ドラフト先輩が2000年代に響いて 2000年代のドラフトが2010年代に 響くよくドラフトの成果は10年経ってみ ないとわからないって言うけど 阪神が身をもってその怖さを証明してくれ てるのねドラフト好きにとっては興味深い ケースだが 阪神ファンにとってはたまらない話だな この時期の阪神はひところの低迷を脱出し てたイメージだったけどどんな状況だった んだっけ 霊夢の言う通りこの時期の阪神はプチ黄金 期で 20032005年にリーグ優勝 2006-2007年はリーグ優勝こそ 逃したものの 終盤まで優勝を争ってのAクラス入りと 現有戦力自体は申し分ないものがあったん だこの時期は毎年中日と阪神の優勝争いが 面白かったもんね本来こういう時の ドラフト戦略は難しく 即戦力選手で足りない戦力を補って優勝を 狙うか チームの若返りを図って次世代の逸材を 指名するのかの二択を迫られるんだ優勝し てたり ぶっちぎり再開とかなら中長期戦略に目を 向けやすいけど ギリギリに届かなかったとなるとラスト ピースを加えて優勝狙いたくもなるし 難しいところよね2006年の阪神はと いうと主力や種の高齢化が進んでおり金本 矢野選手が38歳シーツ選手が35歳赤星 選手も30歳と数年後の戦力維持が難し そうな状況だったんだ中長期的に レギュラーを任せられそうなのが 鳥谷選手だけだし先を見据えたドラフトも したいわねそんな中で時は分離ドラフト 時代高校生と大学社会人ドラフトが別に なってたのよねそうだなこれによって即 戦力と素材が他の両方を獲得できる可能性 があったわけだうまくはまれば戦力も編成 状況の両方を一気に強化できたってわけね 成功例を挙げると例えば2005年の オリックスは高校生ドラフト1巡目でTE 岡田大社希望枠で平野義久3巡目で岸田守

を獲得うわぁ将来性抜群の和製大砲候補と 即戦力投手をダブルで獲得って 美味しすぎるじゃないこの年日本ハムも 高校生一巡目でようチョンソ大社希望枠で ヤギ友や4巡目で武田勝を獲得さらに 2007年にも高校生1巡目で中田翔大 医者さん巡目で宮西直樹を指名してるな 2006-2007年の連覇に貢献する 即戦力性と20122016年の優勝に 貢献する中長期生の両方を兼ね備えた理想 的なドラフトじゃないとまぁ夢のような ドラフトも不可能ではなかったわけだが 残念ながら阪神はその夢を実現できなかっ たわけだなこの企画ってそういうことだ もんねまず2006年は高校生ドラフト1 巡目でどの上なお道の抽選を外した後に 野原まさしをはずれ1位で獲得そうかこの 年はハンカチ世代の高卒組のドラフトだっ たのねってことは マー君マエケン坂本勇人 吉川光夫らの早々たるメンバーを獲得 できるチャンスがあったわけか1巡目以外 にも梶谷隆幸相沢翼福田信政など 逸材が多かった年だな 球団が次世代となる選手を獲得した中での 失敗ドラフトは結構きついわねそうだな まず1巡目の野原選手はプロ6年間で通算 15試合の出場に終わり2013年に戦力 外3巡目の橋本選手は出場機会がなく4巡 目の横山投手もわずかに試合の登板で それぞれ戦力外になってるな高校生 ドラフトでは何の成果も得られなかった わけね台車ドラフトでは3巡目の上園投手 が1年目からローテに定着し防御率 2.42で発症をマークし新人王を獲得し たんだなんだちゃんと成果出てるじゃない これでは失敗とは言い切れないんじゃない の新人王を獲得したとはいえ上園投手の 投球回数はわずか85回3分の2確かに質 の面では優秀だったが 量的な貢献度はさほど高くなかったんだ他 に新人王候補不在で少し恵まれた年でも あったのね上園投手はルーキーイヤーを ピークとし2年目以降は成績が下降 2011年オフにはトレードで楽天に移籍 したためトータルの貢献度はかなり小さい ものになったんだ高校生ドラフトでの失敗 を帳消しにしたとは言えないわねその他に 指名された大車ドラフト組で大きな実績を 残した選手は不在この年は大車組も豊作 どしで 投手では記したかゆき大手なり健二長い 例朝を拓也 森福雅彦 野手では島本ひろ長谷川祐也

渡辺直人 各名らがいたんだこれだけ結果を残した 選手たちがいたことを考えると 阪神のドラフトは失敗したと言わざるを得 ないわねライバル球団にかなり水を開け られてるからなよく2007年はさらに 実りに乏しくまず高校生ドラフトで中田翔 の抽選を外すとこからスタート 幸先が悪すぎるわね 阪神の補強ポイントでもあっただけにここ で中田選手取れてたら大きかったでしょう し外れで獲得した高浜拓也選手は高校生 ナンバーワン遊撃手との評判があった選手 だが 阪神在籍時の3年間で出番なし2011年 に阪神が小林ひろゆきをFAで獲得した 人的保証としてロッテに移籍してるんだ 移籍後のロッテではどうだったのロッテ 移籍後は毎年のように1軍出場はあった ものの最多出場は2016年の53試合と 1軍定着とはいかなかったんだ 仮に阪神に在籍し続けてもって感じがする わね高校生さん巡目の森田4巡目の清原の 両選手はほとんど1軍での出場がなく早々 に退団してるな2年連続で高校生ドラフト はほぼ成果なしに終わったの遺体はね 中長期的に考えるとかなりダメージが残る ドラフトになってるなこの年のドラフトは やや不作年とも言われてるが 投手ではからかわゆうき 野手では中村晃 伊藤光そしてなんといっても丸吉弘がいた からなまたここでも他球団に差をつけられ てしまったのね台車ドラフトでも1巡目の シラニタ投手が6登板3巡目の石川投手が 14登板4巡目の黒田投手は未踏判で退団 してるぞ待って待ってこの年のドラフト なかなかに即戦力がいドラフトじゃない 分かりやすい大きなしくじりエピソードが ないのであまり語られないが平成の ドラフト紙の中でも上位クラスの失敗 ドラフトだなまあこの年は特に不作だった のであまり言われないってのもあるが不作 だろうが 豊作だろうがハズレドラフトになってる からそもそもの目利きに問題がある気もし ちゃうけどね平成配信失敗ドラフトし5つ 目は2011年のドラフトだ17年で5回 も失敗ドラフトがあるって結構なハイ ペースね 阪神は結構補強にお金をかけるからあまり 目立ってないがこれが資金力に乏しい球団 だったら目も当てられない順位が続いてた だろうな 補強で一時的に苦境を脱せられるから安易

な球団運営になるとも言えるけどねそれは あるだろうなまあただ最近は大物選手は FAしてもメジャーに行ってしまうし 円安と不況の影響で外国人補強は厳しく なってるしそう簡単にはいかないんだがな よりドラフト戦略が重要になって るってことね話を2011年に戻そうか この年の阪神は68勝70敗6分けで4位 ただ得失点差39はリーグニート実は戦力 的にはリーグ上位の球団だったんだ運の 要素で順位が下ぶれてるけど 翌年以降優勝争いしてもおかしくない戦力 だったわけねいや実はそうでもない むしろ成績を悪化させるリスクを孕んだ 編成状況だったんだぜえどういうこと実は この年はかなり高齢化が進んでいて主力や 種で20代の選手は不在最も若いのが鳥谷 とマートン選手の30歳で他は平野選手が 32歳新井選手が34歳金本選手に至って は43歳に達してたんだ高齢化がかなり 深刻化してたのねおまけに 2006-2007年のドラフトの影響で 若手の逸材はほとんどいない状況だったし なこれはもう野手ドラフト一択ねいや深刻 な状況なのは野手だけじゃなかったんだ 投手陣はエースの能見が32歳 久保が31歳でスタンリッチ メッセンジャーは330歳先発ローテ投手 で最も若いのが28歳の岩田投手とこちら もかなり高齢化してたんだ43歳の下柳 投手が28イニング投げてるあたり 選手層もかなり心配ね 救援も藤川投手を中心に30歳の投手が 主力となっており 遠田ともにかなり危険な編成状況だった わけだ年齢による成績の衰えって一気に 来るからガクンと順位を下げる可能性も あったわけね実際よく2012年は得失点 さをマイナス27まで減らし55勝75敗 14分けでリーグ5位に沈んでるなこれ くらい高齢化してるとちょっとやそっとで 状況は変わらないから中長期的な目線で ドラフトすべきだわねさすがに当時の阪神 フロントもその自覚があったようでこの 2011年は将来性を意識した選手を中心 に指名してるな戦略自体は適切だったわけ ねまず1位では大学ナンバーワン スラッガーとも言われた 慶応大学の伊藤隼人選手を指名43歳の 金本選手が外野の一角を務めてた状況を 考えれば 選手の属性って意味では悪くない指名よね 今で言う吉田正尚選手みたいな活躍を期待 された伊藤選手だったが 想像以上の守備なんと

期待された打撃で思うような結果を残せず プロ9年間で規定打席到達は0回 結局一度もレギュラーを獲得することなく 2020年に戦力外通告を受けてるぜプロ の世界はなかなか厳しいわね2位の最内4 位の松田投手が救援としてスポット的に 活躍した年もあるので 必ずしも大失敗とは言えないが総合的な 貢献料は乏しくこの年のドラフトで得られ た成果はかなり少なかったと言わざるを得 ないな3位の西田選手も4位の伊藤投手も あまり活躍できてないもんね再三言ってる が戦略と実際の選手の活躍は分けて評価 するべきでこの年は戦略自体は悪くない むしろ年々改善の兆しは見られてるんだ 確かに最初の95年のひどい編成戦略を 考えるとそれ以外は戦略自体は悪くなかっ たもんね入団後に選手が育つかどうかは いろんな要素が絡むので全てが全て フロントのにはできないからな 1990年代のドラフト戦略を考えれば 近年はかなりまともになってるからな 失敗ドラフト最後が2011年ってことは 逆に言えば近年のドラフトは成功が多いっ てことだもんねそうだなドラフトは最低で も5年は見ないと判断できないと言われる ので 断言はできないが2010年代のドラフト は結構成功率も高いし戦略的にもかなり 評価できるな上位組では大山悠輔近本光司 佐藤照明でも梅の龍太郎青柳とかなり スカウティング力も良くなってるもんね その結果2023年の阪神は昭和生まれの 選手が不在と一時期では考えられない くらい健全な編成状況になってるからな ドラフトの精度が高まった影響もあり 2013年以降の10年間でAクラス入り が8回優勝こそないもののなかなかの安定 ぶりを発揮してるんだたまにとんでもない 負け方するから叩かれたりするけど結構 安定した戦力を維持し続けてるのね人気 球団ともなるとノイジーマイノリティの数 も多くなって 少数派ではなくなっちゃうからな 今回は阪神のドラフト上位指名選手の失敗 しを振り返っていくぜ 失敗の内容は入団拒否一軍出場ゼロ長期間 の不作ドラフト連発などだ 失敗ドラフトの詰め合わせみたいな内容ね 結構ボリュームのある内容なので早速 振り返っていこう 阪神ドラフト上位指名失敗し1つ目は 197475年のドラ1入団拒否だ入団 拒否が多かった時代とはいえドラ1に2年 連続で入団を拒否されてるじゃないの

1974年のドラフトで 阪神は丸善石油の古賀正明投手を1位で 指名したんだ 丸善石油って強かったの聞きなれない人も 多いだろうが 丸善石油は1959年の都市対抗野球で 四国勢初の優勝を達成した当時の 社会人野球の名門チーム 古賀投手は日大三高法政大学そして丸善 石油とアマチュアの強豪チームを渡り歩い たエリートピッチャーだったんだ 阪神は即戦力として期待してたわけねあ 阪神は1964年 リーグ優勝して以降は優勝から遠ざかって おり65から73年の9年間でリーグ2位 が5回と歯がゆいシーズンを送ってたんだ V奪還の切り札的な位置付けだったわけね ただ 古賀投手は阪神との入団交渉で条件が合わ ず入団を拒否することになったんだこの 時代はまだプロとアマチュアの差が大きく なかったから 条件次第では社会人残留することも珍しく なかったもんね実はこの子が選手は阪神史 上初のドライチ入団拒否選手となって しまったんだドラフト制度ができてから 11年目にして初のドラ1入団拒否を 味わったのね ちなみに古賀投手は翌75年のドラフトで 太平洋クラブライオンズ今の西部に1位 指名されてプロ入りしてるぜ交渉次第では 入団してもらえる可能性があったんじゃ ない 古賀投手はプロ1年目の76年に289回 3分の1を投げて防御率3.0911勝を 挙げる活躍でパリーグの新人を投票では2 位となったんだ 即戦力として活躍したのね 古賀投手はその後ヒジの故障などもあり1 年目がピークとなってしまうが 選手としてのクオリティは確かだっただけ に残念な結果となってしまったな使い方 次第によっては先発ローテの軸になれた 逸材だもんねよく1975年のドラフトで は 阪神は1位2位の選手に入団を拒否される んだ2年連続でドラ1入団拒否でも厳しい のに同一年度の上位指名選手のダブル入団 拒否はきついわねまず1位で指名したのが 大分鉄道管理局の安達芳雄投手だ足立投手 は全国大会での実績はなかったものの大分 県支部選手権大会では関東省を受賞した左 の速球派投手だ前年古賀投手を逃した分の 穴埋めを測ったのねこの時期の阪神は長年 エースとして活躍した江夏豊か投手が成績

悪化 首脳陣との不和などもあり実際75年の オフにはトレードで南海ホークスに移籍し てるんだその辺の絡みもあって安達投手を 上位で指名した可能性が高いのねただ足立 投手は熟考の末に 阪神入団を拒否本人が国鉄職員として勤務 していたためマスコミの取材を受けること がなかったため 詳しい理由は不明だがおそらくは社会人の 安定の方を選んだと思われるな全国で実績 がない選手からしたら国鉄職員という待遇 は素敵でないもんね国鉄から阪神への 乗り換えは拒否されたわけだな ちなみに足立投手は後にjr九州大分支社 の法被及第鉄道事業部で助役を務められて たそうだご本人がどう考えられてたかは 分からないけど一つの進路選択としては 間違ってなかったようにも思えるわねで 阪神はこの年にの選手にも入団拒否された んだっけあ 阪神は2位で松下電器の鍛冶社匠を指名し たが 複数回の入団交渉の末に合意できず入団を 拒否されたんだ 鍛冶社匠あれどこかで聞いたことがある ような名前ね年代によってイメージは 別れるが 鍛冶社さんは長年NHKで高校野球の解説 者を務められして2014年からは熊本 秀岳館高校2018年からは岐阜商業高校 の監督としてそれぞれ 甲子園に出場されてるなあーあの アマチュア野球界屈指の名指導者の鍛冶社 さんね 選手としても有望だったなんて知らなかっ たわ 鍛冶社さんは高校3年時にエースで4番と して1969年の選抜大会に出場して ベスト8に進出早稲田大学進学後は東京六 大学野球リーグで外野手として2度の ベストナインを獲得し日米大学野球の 日本代表に選出されて4番を任されたこと もあるんだアマチュアのエリート街道を 突っ走ってたのね大学時代も広島近鉄 ライオンズなどから誘いを受けたがプロ 入りを拒否して松下電器に入社都市対抗 日本選手権に出場するなど社会人でも実績 を積んだ鍛冶社さんをプロが放っておく わけがなく地元球団の有力選手を阪神が 指名することになったわけだそもそも 鍛冶社さんはプロ入りの意向があったの 本人曰くドラフトまでを使うとの接触は なくドラフトで指名されたことを知ったの はスポーツ誌の記者に言われてからだそう

だ今みたいに事前にプロ志望届を出すわけ じゃないから予想外に指名されるケースも あったわけね記者の取材に行きませんよと 答えたところ感謝入団拒否と書かれて しまい 職場の阪神ファンからは俺のタイガースを なめとるんか話も聞かずに断るとはどう いうことやという心ない声もあったそうだ 職場が大阪だっただけにアマチュア有力 選手の鍛冶社さんにはぜひ行ってほしい 思いがあったんでしょうね周囲からはプロ 入りを押す声もあったそうだが本人は会社 に残ることを決意 元々大学卒業後の進路を考えるときも一度 しかない人生このままずっと野球だけで いいのかと自問自答されてたそうだ絶対に プロに行くと決めてたわけじゃないのねて かドラフト前にプロ入りの石確認もしてな いって結構問題じゃないそれは私も思った な交渉に当たった当時の阪神吉田義男監督 は引退後は松下電器に戻すというレン遺跡 のようなものを提案したそうだが入団には 至らなかったんだ 選手として引退した後は1987年から 松下電器野球部の監督に就任その後は ボーイズリーグのオール枚方ボーイズで 3度の全国大会優勝を果たすなど小学校 高校社会人と異なるアマチュアのカテゴリ で指導者として活躍されたんだもしプロ 入りしてたらどんな成績を残してたかは 分からないけど後の指導者としての体制を 考えると 惜しい人材を逃した感があるわね ちなみにこの75年に阪神が指名した6名 の選手のうち2名が入団拒否でもう2名が 1軍出場なしとなかなか悲惨なドラフトに なってるな 阪神は77年から80年にかけて4年連続 のBクラスを喫して78年には球団市場 2度目の再会も記録 7475年のドラフトで成果を出せなかっ た影響が数年後にじわじわ出てきたわけね 阪神ドラフト上位指名失敗し2つ目は 198192年の1軍出場だ 阪神で出場機会なく退団したドラフト1位 選手は2人しかいないのねそれで今回は3 台にまとめられず上位指名失敗しって形を 取ったわけねその辺の事情は推察しなくて よろしいまあ1978年のドラフト1位 江川卓を含めれば3第1軍出場0ドラ1に はなるんだがな 江川さんは形的には一旦阪神の選手になっ てから後に巨人の小林繁投手とトレードさ れたもんねそのせいで未だに掛布さんから は

阪神OB会に誘われるそうだからな 江川事件の詳細は過去動画の 巨人の暗黒ドラフト誌で確認してもらうと して話を8192年に戻そう 江川さんの件は一応小林投手をトレードで 獲得できたことで戦力的には実りあったし ね考えようによってはドラフトで27歳の 超速戦力投手を獲得したようなもんだから な結果的にはメジャーでよくあるドラフト 指名権をトレードのチップにして有力選手 を獲得する手法がNPBで行われた唯一の 事例みたいになったって考えると面白いわ ねまあ小林投手の心情を慮るとコメントは しづらいがそういう試みがあってもいいか もな日本人は生え抜きが好みで ドラスティックな改革を受け入れない人が 多いのでNPBではあまり好意的には捉え られないだろうが今度こそ話を本題に 戻そう 1981年のドラフトで 阪神はハズレ1位指名で左向高校の ゲンゴロ丸ひろし投手を獲得したんだプロ 野球選手の珍しい名字としてよく紹介さ れる言語60選手ね 選手の実績は知らなかったけどまさか出場 機械0ドラ1とは知らなかったわ ゲンゴロウ投手は甲子園の出場こそなかっ たものの3年の春季九州大会で優勝を飾る など右の本格派投手としてアマチュア野球 では知る人ぞ知る素材型投手だったんだ もともとは早稲田大学の進学を検討してい たが1位指名という交代宮を受けてプロ 入りを選択1年目のキャンプで投球練習を 見た村山実からは 阪神の歴史を作る投手や キレが違うと賞賛され通算2271安打の 代打者山内和博さんからもたまに体重が 乗っている手元でホップする感じ三振を 量産できる投手と太鼓判を押されたんだ 高校生ということで多少はリップサービス もあるでしょうけど 投打のレジェンドたちから高評価を受けて いたのね現役選手からの評判も上々だった ようで当時の正捕手はかな吉春はブルペン でボールを受けた際にプロで飯の食える ボールだね受けていて気持ちいい新人王 行けるんじゃないのと高評価 紅白戦で対戦した手法の掛布もあれで高校 生ストレートに力があるねしかも ストライクが取れて度胸もある1軍で 投げるのも近いねと評価したんだここまで の話を聞いてる感じだととても1軍当番0 で終わった投手には思えないわね 順調に調整が続いていた源五郎丸投手だが 残念なことにアクシデントに見舞われるん

だ1軍打者相手に投げた紅白戦の翌日の 練習でベースランニングで一塁が変わった ところで点灯 立ち上がれないほどの重傷で病院に 担ぎ込まれ下された診断は右大腿部二頭筋 断裂で全治4ヶ月この怪我がなかったら1 軍での登板もあったでしょうし 悔やんでも悔やみきれない気がねこの故障 以降 ゲンゴロウ投手は本来の投球フォームを 取り戻せず 精彩を書いた投球を繰り返すようになった そうだ 投手のピッチングフォームは繊細なものが 多いから一度崩れると元に戻らない人も いるもんね ゲンゴロウマル投手は一度も1軍登板が ないまま5年目のオフには戦力外通告を 受けたんだがプロ5年間のファーム成績は 64試合を投げて防御率5.186勝11 敗と2軍ですら満足な成績を残せなかった んだ1軍昇格機会がなかったのも納得の 打たれっぷりねもと ゲンゴロウマル投手は巨人ファンだった らしく同じ年のドラフトで高卒ドライチと してジャイアンツに入団した牧原ひろみ 投手をライバル視してたそうだ結果的に 2人のキャリアに大きな差がついてしまっ たわけで 巨人との 差が大きくなる一因となってしまったのね 源五郎丸選手を指名したドラフトから11 年後の1992年に 阪神はハズレ1位で神戸村の工業高校の 安達とも次郎投手を獲得 源五郎丸投手と同じくハズレ1位指名だっ たのね ちなみに阪神は1度目の1位入札で 巨人が交渉権を獲得することになる清涼 高校の松井秀喜選手を指名してるんだ後の 結果を知った上で聞くと 阪神と巨人にとっては大きく運命が分かれ たドラフトになったのねよりによって阪神 がドラ1出場機械0に終わった年に 巨人がドラフトで1位で大きな成果を上げ てるのも 皮肉なもんだし松井選手はもともと阪神 ファンであることでも知られておりこの ことを知っていた安達投手は松井君が行き たかった球団からの使命で申し訳ないと 同級生の大物を気遣ったそうだ足立投手の 高校時代の実績はどんなものだったの神戸 村の工業自体は決して強豪高校ではなかっ たが足立投手は2年夏3年春に2度チーム を甲子園出に導いてるんだ強豪校が多数

いる兵庫県でチームを甲子園に導く活躍し てたならそりゃプロのスカウトからも評価 されるわね結果的には阪神のはずれ1位に なったが 巨人も入札を検討してたほどの逸材だった んだってことは安達投手と松井選手が 入れ違いになった可能性もあるわけねプロ 野球界の歴史が変わってたかもしれないと 考えるとなかなか興味深いドラフトになっ たわけじゃない足立投手は1年目こそ ファームで規定投球回数に到達し防御率 3.36とまずまずの成績を残したんだ しかし2年目のシーズンに左肘を痛めて しまいそこからは登板機会が激減3年目に は2軍で54回3分の2を投げて40支給 を出すほどの 請求難に苦しみ防御率は5.93プロ5年 目には2軍ですらわずか9試合の登板に 終わり防御率も10.03と散々な結果に 終わり6年目からは外野手に転向したんだ 1年目は順調だったように思えたけど2年 目の故障以降は完全に等級が狂てしまった のね方や肘の故障に悩まされてたそうで サイドスローを試すなど色々と試行錯誤を してたそうだ高卒投手を指名するリスクが もろに出てしまった形ね 結局野手としても出場機会がなく99年に 投手に採点するも出場機会は与えられずに オフに戦力外通告で阪神を退団近鉄が獲得 を希望したそうだがファンに戻って阪神 タイガースを応援するとの言葉を残して 現役引退を決断したそうだ地元球団への 愛着があったのね現役引退後は3年間阪神 で打撃投手を務めた後に神戸の三宮で焼酎 バーを経営そのそばで流通科学大学の臨時 コーチを務めたり 少年公式野球チームの監督を担うなど アマチュア野球の指導に携わられたそうだ 1軍で出場機会がなかったとはいえ 甲子園に出てドラフト1位になったなんて とんでもない野球エリートだしね残念 ながら2016年に肝不全で41歳の若さ で逝去されたが現役時代から誰からも好 明るい性格だったそうだぜ 阪神ドラフト上位指名失敗し3つ目は 2006年から2011年の不発連発だ 平成阪神失敗ドラフト誌でも少し取り上げ たけどあの時は単年の成果で評価してた もんねそうだな今回は単年ではなくある 一定の期間を対象にドラフトをレビュー しようまずこの頃の阪神について振り返る と2003年28年ぶりのリーグ優勝を 果たすとその2年後の2005年にも リーグ優勝1990年代は6度の再開を 味わうほど低迷していた球団とは思えない

素晴らしいV字回復を遂げたんだあの頃の 阪神フィーバーは本当に凄かったもんね ただこの復活劇は2002年に星の 1001監督が就任して以来続いていた超 積極的な外部補強によるものが大きかった FAで肩を加圧し金本智昭を獲得した以外 にもトレードで下柳強し自由契約外国人の アリアスシーツなどがチームの中核を担っ てたんだ 速攻性を求めるなら中堅ベテランのに限る わよねそうなんだただその影響でチームは かなり高齢化しており2005年の主力 選手の中で中長期的に主力として計算 できるのは24歳の鳥谷敬史のみ真の黄金 時代を築くには 鳥谷選手とともにチームを支え続けられる 選手の獲得が必要不可欠だったのねそうし た背景も踏まえて2006年から2011 年までの阪神のドラフト指名選手を 振り返ってみようこちらが2006年から 2011年までの6年間の阪神の指名選手 一覧だドラフト1位2位がほとんどと言っ てもいいほど大成してないじゃないの平成 配信失敗ドラフト誌でも取り上げた 2006-20072011年はもちろん 全体的に結構厳しいドラフトになってるわ ね2006年の小島投手に至っては社会人 3年間で伸び悩んでいたにもかかわらず 密約ドラフトの影響で指名せざるを得 なかったって噂もあるんでしょ 横浜の出場機会0対談ドラ1市で紹介した 森大輔投手の件でも 似たような話あっ事実は不明だが社会人 時代の実績を見るに 希望枠での獲得が妥当だったようには思え ないなこの期間で中長期的に活躍できたと 言えるのは2008年の植本博紀2009 年の秋山巧投手くらいだろうえのきだ ダイキ原口文仁 藤川俊介松田龍馬選手などは短期的に活躍 した時期はあるとはいえエノキだマツダ両 投手は救援での活躍が主だし 俊介 原口選手は完全にレギュラーを掴んだ年は ないもんねそれぞれリプレイスメント レベル以上のクオリティは有していたが 通年での活躍は至っておらず上質な バックアップの行きは出ていないなこれ だけドラフトで補強ができてないとなると 中長期的な戦力維持はかなり厳しいわよね その通りだドラフトで成果が出ていなかっ た一方で引き続き積極的な外部補強を続け た阪神は洗いたかひろ平野圭一 城島健二 藤井明人

久保康友スタンリッチブラジルラの外部 補強で戦力を何とか保っていたがこうした 外部補強は市場との兼ね合いが強いため 毎年有力選手が市場に出てくるわけでは ないんだこの時期くらいから有望選手の メジャー挑戦が増え始めてFA市場に大物 が出ることが少なくなったしね非常に不 安定な戦力強化の上で成り立っていたが 当然外部補強選手だけではチームの高齢化 は避けられない2011年の主力や種の中 で20代の選手は不在 辛うじて25歳の柴田康平選手が218 打席に立ってるけど 将来的に主力選手として見込むには厳しい 成績だもんね紹介した通り2000年代 後半に獲得した選手たちの中で後に主力に なった選手は不在じゃあ 編成的にはかなり苦しくなっていってたの ねそうだな世代交代に失敗したしわ寄せは 徐々に戦力低下という形で現れており 2009年に5年ぶりのBクラスとなる4 位に沈むと2011年は4位2012年は 5位と4年間で3度のBクラスを味わう ことになるんだ世代交代ができなかった ツケが回ってきた感じねドラフトの 恐ろしいのはその成果や影響が表れるのに 時間がかかることだ外部補強で短期的な 戦力は維持できても中長期的な戦力の安定 にはドラフトが欠かせないものねその後も 2010年代の阪神の戦力補強は外部補強 に頼るところが多くマートンゴメス西岡 強し福留孝介 をドリすらを獲得したことで戦力を強化し たんだいろいろ言われるけど 阪神の外国人の目利きすごいわね特に投手 に関してはかなり優秀な部類に入るな外部 補強がうまくいっていた一方でドラフトの 成果というのは芳しくない状況が続き 抜本的な世代交代はなかなか進まず 2018年には17年ぶりの再開に転落し てしまうんだこの時期は中日と並んで ベテランへの依存度がかなり高いチームに なってたもんね 選手個人の頑張りは素晴らしいとして41 歳の福留37歳の糸井メッセンジャーを軸 とするチーム編成は決して健全とは言え ないからな ただこの辺りからドラフトの スカウティング力が改善されるようになり 徐々に若返りが進んでいくんだ 梅の龍太郎青柳高揚大山祐介近本光司 佐藤輝明とか 遠田の主力や手が次々に台頭するように なったもんね2010年代後半のドラフト 戦略は見事としか言いようがないほど

ヒットドラフトを連発していったからな 着実な世代交代の成果はチーム順位となっ て現れている2019年以降の阪神は優勝 こそないものの4年連続でAクラス入りし これは球団史上17年ぶりのことだったん だ21世紀の阪神の中でもトップクラスの 安定感を持ったチームになったのね 2023年の阪神は主力の多くが働き盛り の20代となっており無効数年は戦力を 維持できそうな布陣になってるんだ主力の 故障やFA移籍でもない限りは安定してA クラス入りできそうな面々が揃ってるもん ねまた令和になってもドラフトで有望な 若手を獲得し続けられており チームの編成状況はかなり健全な状況と いいだろういつの間にかセリーグでも屈指 の若手の宝庫になってきてるもんねどうし ても外部補強の手段に限りがあるNPBに おいては中長期的な戦力維持のためには ドラフトの成功が必須になるんだ 巨人ですら最近は外部補強したくても市場 に人が出てこないから戦力維持に苦労し てるもんね少し話が本題とはそれてしまっ たが21世紀の半身の成績スイート ドラフト指名選手を振り返りながらこの コーデはドラフトの魅力と恐ろしさについ て解説させてもらったぜ 今回は平成のミカンの待機し阪神や周辺を 紹介するぜ前回の横浜編に続いて第2弾ね 阪神は人気球団ゆえにドラフト時点で 大きな期待を寄せられながらも結果的に 大成しない選手が結構いるイメージだわ 注目度が高いのでそれに押しつぶされて しまう選手も少なくないぜ 期待が大きい分それに比例して絶望も 大きくなるから人々の記憶に残るしね平成 配信で最初のみかんの大気といえば91年 ドラフト1位の大阪桐蔭萩原誠の名前が 挙げられる大阪桐蔭ってその頃から強かっ たのまだ当時はPL学園全盛のイメージが あるわそのイメージ通り91年の大阪桐蔭 野球部はまだ勝負4年目で大阪ではPL 学園や上宮近代付属が大阪の高校野球界の 中心にいたんだだが実はこの91年に大阪 桐蔭は春の選抜で甲子園初出場を果たすと 夏の甲子園では初出場初優勝という医療を 果たしたんだええとんでもないスピードで 全国を制覇してるじゃないの ちなみにこの時に決勝で対戦したのが国試 で潰れた逸材師で紹介した大野輪投手 用する沖縄水産高校だったんだぜ 沖縄県税批判の初優勝を阻んだのは後に 高校野球界の王者に君臨することになる 大阪桐蔭だったのねその中心にいたのが 今回紹介する萩原選手だったのそうだな

萩原選手は4番ライトを任されると大会 打率6割8分8厘3本塁打を放つ活躍で チームを甲子園優勝に導いた高校日本代表 に選出されると一つ下の松井秀喜選手と ともに中軸を任されるなど同世代の中では 非常に注目された選手だったんだ高校通算 58本塁打の長打力を評価されて 秋のドラフトでは地元関西球団の阪神から 1位指名を受けることになる当時は今以上 に甲子園での活躍が評価された時代だし 阪神からしてみればぜがひでも欲しい逸材 だったのね 球団の期待の高さは背番号にも現れており かつてミスタータイガースと呼ばれたと 同じ31番を与えられた後にバースの再来 がネタになっていく球団だけどこの時は 掛布に性誕生への期待感が大きかったんだ 当時の阪神は暗黒時代に片足を突っ込んで おり直近5年間で4度の再会を含む5年 連続Bクラスこの萩原選手が指名された 91年も 首位と26ゲーム差の再開で得点 失点ともにリーグワーストだったんだ85 年の日本一からわずか6年でそんなどん底 まで落ち込んでたのね特に問題が大きかっ たのは野人だこの頃の本拠地甲子園球場と いえばまだラッキーゾーンが存在していた ためセリーグの中では広島市民球場と並ぶ 特典が入りやすい状況であった 投手陣の最多失点も問題だけどその環境で 得点を奪えていない攻撃人の方が課題が 多かったと捉えるべきね 野手人のメンバーを見ても85年の優勝 メンバーであるまゆみ秋信はすでに38歳 その他の主力選手の多くが30代前後と 年齢層も非常に高くなっていしたんだただ でさえ現有戦力には問題があるのにその上 今後さらに戦力が低下する恐れがあったの ね一応この時点で新庄剛志関川光一といっ た有望株を保有できてはいたがまだまだ 若手や種が足りない状況であったそう 考えると1位で将来の中軸候補を獲得した ことは 編成的にはマッチしてたんじゃないまあ この年の大学生ナンバーワン遊撃手と言わ れた感性学院大学田口総選手から 阪神に行きたくない重過剰なる屈辱的な 拒否宣言をされてたってのもあるんだがな 共学のドラフト指名拒否氏でも紹介した けどこの件はさすがにドン引きしちゃうし 阪神関係者が不憫に思えるよね多くの期待 を受けて阪神に入団した萩原選手だったが プロでは大きな壁にぶち当たることになる 2軍では2年目に打点王4年目に首位打者 と一定の実績を上げたが1軍では期待され

た打力を発揮できないことが続くプロ4年 目の95年に1軍で54試合138打席に 出場し4本塁を記録したが 打率1割9分7厘OPS646と平凡な 成績に終わるドラ1と考えれば物足りない けどこの時点で高卒4年目だったんだし まだ成長を期待できる成績じゃない実は この95年が萩原選手のキャリアハイと なってしまうんだえっ萩原選手は高校時代 から右肩に故障を抱えておりそれが原因で 早急何に陥ってたそうだセリーグの選手で スローイングに問題があるとなると出場 機会がかなり限られるわねまた降り悪く 阪神は91年をもって甲子園のラッキー ゾーンを撤廃そのため萩原選手入団以降の 甲子園は リーグでも有数の投手有利な環境になって いくんだ長打力を売りにするはずだった 萩原選手にとっては運が悪すぎじゃない 96年は12試合97年は3試合と ほとんど出場機会を与えられなくなった 萩原選手は97年オフにトレードで近鉄 移籍することになる 阪神で残した実績は14試合で32安打4 本塁打に終わったんだご存知の方も多い だろうが90年代の阪神は攻撃力に大きな 課題を残し 泥沼の暗黒時代を迎えてしまう 萩原選手だけの責任ではないけど 期待のドラ1が順調に育たなかったのは 編成的にはかなり痛かったわね近鉄移籍後 も飛躍のきっかけをつかむことなく 2001年シーズンを持って対談引退後は 自信が故障に苦しんだ経験を生かして 奈良市で整体院を開業 兄弟野球部トレーナーとして 選手のケアに尽力するなど 選手サポートのセカンドキャリアを贈られ ているな若い頃にもがいた経験は無駄に ならなかったのねしかしドラフトで選手を 見極めるというのは本当に大変なことね 萩原選手の使命に関しては 元阪神の名スカウト菊池としゆきによると 疑問が残るものだったそうだその菊池さん はそんなにすごいスカウトだったの 菊池さんが担当された選手の中には 矢部圭一 井川慶鳥谷隆史といったアマチュア時代 から有名だった選手以外にも 川尻哲郎 坪井と持ちか赤星帯広などの開始名から後 に主力になった選手も数多くいるな めちゃくちゃ敏腕スカウトじゃないのその 菊池さん曰く 暗黒時代の阪神は他球団との競合を嫌って

取りやすい選手を取りに行くリスク回避の 姿勢があったとおっしゃっている無理に リスクを負う必要はないけど本当に欲しい 選手がいれば多少のリスクテイクは必要だ もんねこの萩原選手を1位指名した時も 当初阪神は田口選手を狙っていたように 決して萩原選手はトッププライオリティで はなかっただがドラフト直前になって萩原 選手が阪神ファンであることを公言社会人 の大は銀行にも内定していたにも関わらず 館島のユニフォームを着るのが夢でしたと まで発言したんだそんなことを言われ ちゃったら地元球団としては指名せざるを 得ない空気感が出ちゃったんじゃない実際 阪神の球団事務所には 萩原を取れというファンからの電話が 鳴りやまず 結局阪神は萩原選手に指名確約を出して しまったそうだ色んな圧に負けちゃったの ねでも 萩原選手ポテンシャル自体はドラ1だった んじゃないの 菊池さん曰くだが 萩原選手は打撃でも守備でも 突出した能力は感じられなかったそうだ 特に飛ばす能力に関しては懐疑的で 木製バットに切り替えた時に本当に長打力 を売りにできる選手には感じられなかった そうだまた足もかなり遅かったため 身体能力も決して高いとは言えなかった そうだ 甲子園で大活躍したことで過大評価されて しまったわけねさらに菊池さんがこの年の ドラフトでもったいないと感じたのは近鉄 が4位で指名した大阪渋谷区の中村憲広を 獲得しなかったことだええこの年のりさん もドラフトイヤーだったのもちろん結果論 によるところも大きいが当時の近畿担当 スカウトの目利きとスカウティング活動を 残念に思うとされている 余談だがこの91年はかなり豊作の年で ここまで話題に上げた選手以外にも イチロー金本智昭石井一久 片岡篤志 斎藤隆史三浦大輔若竹健一 河本康幸らがの門を叩いている めちゃくちゃ当たり年じゃないもちろん 阪神も桧山進次郎フジテレビよし 弓永長竜博らを複数獲得できているため かなりの戦力の上積みがあったため 十分成功の部類に入るドラフトだただ同じ セリーグの球団がリーグの趨勢を変える ほどの大物を獲得できたことを考えると後 に戦力差が生じるドラフトとなったと言わ ざるを得ないだろう

萩原選手が大成しなかった阪神が後にFA を利用して金本 片岡で打力を改善してるのはちょっと 面白いけどねそう考えると結果的に阪神が 得したドラフトと言えるかもな次に紹介 する平成配信のミカンの待機は1996年 のドラフト3位浜中修選手だ今でも浜中 選手が大きな怪我をしなければどんな キャリアを送ったのだろうかとつい想像を 掻き立てられるスラッガーだったなそんな にすごい選手だったのひょっとしたら平成 の阪神の生え抜きの中で文句なしの最強 打者になる可能性もあった選手だな 浜中選手がそのポテンシャルの高さを世に 知らしめたのはプロ5年目の2001年 この年はシーズン途中からスタメンの座を 勝ち取ると初の規定打席に到達して 打率2割6分3厘13本塁打 OPS757を記録5月13日の広島戦で はプロ初本塁打をさよならホームランで 飾ったがその時のレフトスタンド中断への 特大の一発には驚愕させられたもんだ初 ホームランがサヨナラってのもスター性が あるわねうろ覚えの記憶ではあるがその時 のヒーローインタビューで次は甲子園の 場外に飛ばしますと答えていたが本当に やってくれるのではないかと期待を抱か せる忘れたい方だったな今回はかなり市場 が入ってるわねよく2002年にはさらに その才能を開花させ404打席で打率3割 1厘18本塁打OPS867の好成績を 記録シーズン終盤に骨折した影響でわずか に規定打席に到達しなかったが 故障さえなければ3割20本をクリアして いただろうな広い甲子園を本拠地にし ながら高卒62戦目でそれだけやれてた なんて今後の成長がさらに 楽しみになるわねこの時期の阪神は 1995年から2001年の7年間で6度 の最下位に沈む暗黒時代だったがこの 2002年はシーズン4位で5年連続再開 を免れたこの年から星野仙一監督が就任し て 低迷期脱出を予感させていたのよね 打線は得点数リーグ5と 慢性的な得点力不足は解消されていなかっ たが 野手陣に明るい材料が多かった年でもある 28歳の今岡真は自身初の打率3割となる 打率3割1分7厘15本塁打OPS840 をマークしベストナインを受賞26歳の 赤星憲広は故障の影響で出場試合数を減少 させてしまったものの ルーキーイヤーから2年連続での盗塁王を 獲得したんだ

働き盛りのセンターラインが複数いて さらに浜中選手もブレイクしたとなれば 中期的な見通しがかなり明るくなってき てるじゃないこの年の阪神は33歳の片岡 檜山30のジョージアリアスが中軸を撃つ ことが多かった長打力は加齢の影響を受け やすいだけにこのタイミングで浜中選手が 台頭してきたことは 編成的にも非常に大きな意味があることだ と言えるだろう向こう数年は阪神を背負う だろうと目されてたわけねその期待の大き さはよく2003年の起用法にも現れる 2002年のオフに阪神はFAで広島から 金本智昭選手を獲得実績と移籍経緯を 考えればその金本選手が4番を任されても おかしくないが 首脳陣は浜中選手に4番を託すことにした んだ 昭和の4番打者ならなんでわしが若造に4 番を譲らないといけないんだと不満を あらわにする人もいそうよね赤星金本 桧山という実績のある外野手が数多くいる 中で 浜中選手は開幕から4番ライトで起用さ れるとその多忙を爆発させる5月の途中 まで20本塁打を放つなどキャリアハイ ペースで打ちまくったが試合中に悲劇が 起こってしまう5月20日の広島戦で一塁 走者時に県した際に右肩を亜脱臼して しまったんだ世界の盗塁王福本豊さんは手 から帰れってよくおっしゃってるけど一塁 へのヘッスラとか牽制機類の時に方や手を 負傷する選手多いもんねこの時点では打撃 に支障はなかったが早急に問題があった そうだそのため浜中選手は肩が抜けない 投げ方を練習し数試合欠場しただけで外野 手として強行出場することを決意しかし6 月13日の巨人戦で送球をした際に右肩を 完全脱臼してしまったんだ無理して出場し た結果最悪の結果になっちゃったのね結果 的にこの故障でシーズン中に右肩の手術を 行うことになった無理して早急練習を行っ たことで右肩の関節心がボロボロになって おりそれが脱臼の原因になっていたそうだ 想像しただけで具合が悪くなってきたわ 試合出場に関しては本人の意思が尊重され たそうだがこの時の首脳陣が浜中選手の 将来を守るためにセーブしてくれてたらと 思ってしまうなプロ野球 選手は個人事業主みたいなものだし自身の 判断で出場したなら自己責任とはいえとは いえね チームは優勝争い中で外野手の競争が 激しく 打撃自体は好調という中で自ら試合に出

ない決断を下すのは難しかったんだろうな この故障により 浜中選手は残りのレギュラーシーズンを 全休することになりファン投票で選出され ていたオールスターも事態日本シリーズに は復帰できたが悪い意味でキャリアの転換 点となってしまったんだこの年の浜中選手 はわずか55試合の出場で11本塁打48 打点OPS873の好成績を残しており フルで出場できていれば打点王も間違い なしのペースだったんだ 打撃の羊自体は前年と変わらず高品質だっ ただけに 悔やまれるシーズンになったわね 復活を期待された2004年はシーズン 序盤から肩の状態が思わしくなく7月に 右肩の採取術を決断その際に肩を開いて みると一度目の手術の時のボルトが外れて いることが判明し 型の状態がぐしゃぐしゃになっていたそう だそのため9月にもう一度手術を行う必要 ができて2ヶ月の間に2度も方の手術を 行うことになったんだぜ1年の間に同じ 歌唱サンドも手術なんて 身体的にも精神的にも辛いわね実際 ハマナカ選手はこの時に自暴自棄になった そうで 練習をサボったりお酒に逃げたりする生活 が続いたそうだ 野球選手も人間なんだからそうなって しまうのも無理ないわ2004年はわずか 17試合の出場2005年はシーズン途中 に復帰したものの125打席で1本塁打 OPS736とかつての姿からはほど遠い ものであったどうやら度重なる故障の影響 でスイングの際の稼働域が狭くなって しまい本来のスイングができなくなって しまったそうなんだ本来なら全盛期を迎え てるであろう20代中盤の時に戦力になれ ないのは歯がゆかったでしょうねこの 苦しんでいる時に浜中選手の支えになった のがファンの応援だったそうだリハビリ中 にはファンの方から寄を集めたアルバムを 3冊も送られそれを見て自分は何をして いるのかと自分自身に嫌気がさしたそうだ 何を腐ってるんだと目覚めさせてもらえた わけねそこから懸命にリハビリを行った 浜中選手は奇跡の復活を遂げることになる 2006年はシーズン序盤から打ちまくり 34月の月間成績打率4割3分5厘10 本塁打22打点で自身初の月間MVPを 獲得したんだ4月までに二桁本塁打達成し てるじゃないその後も好成績をキープし 続けた浜中選手はシーズンを完走し5年 ぶり2度目の規定打席に到達

打率3割2厘20本塁打 OPS844と文句なしの成績で自身初の オールスター出場も果たしたんだ 故障で本来のスイングはできなくなってた のに本拠地甲子園の打者がこれだけの成績 を残したなんて 改めて天才スラッガーであることを感じ させる1年だったのねしかし残念ながら これがキャリア最大にして最後の輝きと なってしまう2007年は再び不審もあり 62試合の出場で 打率1割9分3厘6本塁打OPS597に 終わってしまうするとオフには阿部健太 平野圭一とのトレードで 吉野誠とともにオリックスへ移籍すること になったんだええたった1年ダメだった だけで 放出してしまったの1年だけダメだったと 考えるか直近4年間で一度しか活躍し なかったと捉えるか何にせよ故障がちな 29歳であることを考えると 編成的にはどうしても序列が下がって しまうのは仕方ないだろうなぜ浜中選手が 放出されたのかこのトレードは妥当だった のかはオリックスの失敗格差トレードで 解説してるので 詳しくはそちらを参照してほしいぜ結果的 に阪神はこのトレードで獲得した平野選手 が大活躍して大きなメリットをもたらす 補強になったのよねそうだな平野選手が 阪神移籍後にカムバックショーや二度の ベストナインとゴールデングラブ賞を獲得 したのとは対照的にハマナカ選手は オリックス移籍後の3シーズンでわずか 試合の出場に止まってしまいわずか3年で 戦力外通告を受けてしまったからな 浜中選手のポテンシャルにかけた オリックスとしては大損のトレードになっ てしまったのね逆に言えば 阪神はハマナカ選手の試乗価値があるうち にトレードのチップとして有効に使えたと も言えるな 浜中選手はオリックス対談後2011年 からヤクルトでプレーするもかつての輝き は取り戻せずに2011年シーズンを持っ て現役を引退キャリア通算で744試合 85本塁打率2割6分8厘OPS777と 20代前半で見せた打撲を考えると物足り ない成績に終わったんだまさか規定打席 到達2回通算100本塁打にも届かず 終わるなんてね2000年代後半の阪神は 投手力の高さを武器に 度々優勝争いに加わるが得点力がネックと なり優勝を逃したことが多々あった超高齢 の金本選手が奇跡的にパフォーマンスを

維持し続けていたけどベテランや 外国人選手に長打力のを依存する極めて リスキーな編成状況だったよねまた金本 赤星に次ぐ外野手3番手の枠がなかなか 埋まらず外野の一角がやや攻撃力不足の 時期も続いていたぜ 浜中選手が思ったようなキャリアを送れ なかったことはチームにとってかなり痛手 だったわけねこの浜中選手と同時期にも実 はもったいないキャリアを送った和製大砲 候補がいたそれは2001年のドラフト4 巡目でPL学園から入団した櫻井広大選手 だ 櫻井選手はそんなに有望株だったの 櫻井選手は入団後長く2軍暮らしが続くが プロ4年目の2005年にファームで打率 3割5分10本塁打OPS1.036の好 成績を記録している めちゃくちゃ売ってるじゃない当時の1軍 は金本赤星日山 浜名からがいたためなかなか一軍昇格とは ならなかったがファームでは非凡な成績を 残し続けていたんだやっぱりセリーグにも DH制度を導入するべきだわ天気が訪れた のはプロ6年目の2007年この年は前述 の浜中選手や今岡アンディシーツ選手の 不調などもありシーズン途中に初の1軍 出場を与えられるとそこからプチブレイク を果たす91試合で291打席に立ち 打率2割8分1厘9本塁打OPS815の 好成績を残したんだ 浜中選手と同年齢の時に比べるとやや成績 は劣るけどそれでも24歳でこれだけやれ たのはかなり希望が持てるよねこの活躍が 認められオフには当時の球団歴代最高の 昇給率となる346%増の年俸 2500万円にアップしたんだ 球団の期待の高さがうかがえるわねしかし この環境の変化が 桜井選手を苦しめてもいたそうだある意味 お家の谷町問題かしら私生活のことは わからないが 期待の若手大砲候補となった櫻井選手に 対しては多くの球団OBや評論家たちが 様々な助言を送ったそうだ 櫻井選手は当時を振り返って多くの アドバイスを聞きすぎてしまって混乱した とも明かしている人気球団のスター候補と もなると俺が育てたって言いたがる教え たがりが群がってきちゃうわけねそのこと が影響したのかは定かではないが2008 年の櫻井選手はわずか25試合の出場で 打率1割2分5厘0本塁打だと大きく成績 を下げてしまうご存知の方も多いだろうが この年の阪神は2位に最大13ゲーム差を

つけながら 巨人に大逆転優勝を許す屈辱的なシーズン を贈ることになる チーム成績を振り返ると 失点数はリーグ最小だったものの得点数は リーグ3位の578得点と課題を残すもの であった主軸を担っていた新井選手が故障 の影響でシーズン後半をほぼ棒に振り ライトで起用された葛城九郎 リンウェイツルーフォードはいずれも低調 な出来であったことで得点力を押し上げる ことができなかったんだもし 櫻井選手が順調に育っていたらあの歴史的 悲劇が起きなかったかもしれないわねよく 2009年は再び大気の片鱗を見せること になる 規定打席には届かなかったものの 話し合い320打席に立って 打率3割2厘12本塁打OPS886と 破格の成績を残したんだ2軍の帝王には とどまらない素晴らしい成績じゃない学年 ではあるけどハマナカ選手と似たような 成績推移ねこの年は金本新井赤星らの主力 選手にも衰えが目立ち始めていたため 桜井選手が台頭したことはチームを非常に 助けるものであったんだここから順調に 主軸にならないのが 阪神の若手のもどかしいところよね実は 櫻井選手はこの年に右肘の人体を断裂して おりオフには手術を進められていたそうだ え右肘靭帯断裂状態でそんな成績を残して たの本人は手術をして出番を失うことを 恐れたため手術を回避して保存治療を選択 したんだしかしコンディションが優れない 肘の影響からか2010年は成績を下げて しまいシーズン途中には右肘痛で2軍に 降格 結局オフには簡単なクリーニング手術を 受けることになったんだそれでも簡単な手 にとどまったのねどうやらこれがいけ なかったようだ手術後も痛みは消えること なく2011年は1軍での出場機会なし ファームでも62試合で 打率2割3厘4本塁打OPS654と制裁 を書き何と28歳にして戦力外通告を受け たんだは2年前に好成績を残した28歳を 解雇しちゃったの 詳細は外部の人間にはわからないがよほど 肘の状態が悪かったのか今後の伸びしろは もうないと判断されたのかもしれないな 事実その後は他球団からも獲得オファーは なく 櫻井選手は独立リーグでプレーしたのち NPB復帰を果たすことなく2013年に 現役を引退しているこんなに一瞬で選手

生命が狂ってしまうなんてスポーツ選手の 人生って怖いわね 櫻井選手は2020年の取材で 焦りは禁物でした人体再建手術を受けた方 が良かったと振り返っている 浜中選手の時と同様に無理をした出場で 呼称を悪化させてしまった結果有望株 キャリアを伸ばしきれずに終わってしまっ たんじゃない日本の野球界には未だに怪我 をしたらそれまでの選手だったという風潮 もあるが 選手のキャリアを守るのも首脳陣の仕事だ MLBでは 球団一体となって選手のコンディションを 管理するのが当たり前になっているだけに NPBも選手のキャリアをより良くする 考えが進んでほしいものだな最後に触れて おきたいのは2014年のドラフトさん エゴシ体が選手だパワー総力 型守備は文句なしだけどコンタクト力だけ が欠点の4ツールプレイヤーねそうなんだ 歴代の阪神監督たちが惚れ込んできた抜群 の進退能力がありながらそのポテンシャル を活かせぬまま2022年オフには トレードで日本ハムに移籍している 2023年時点でまだ現役選手であり キャリアを伸ばす可能性があるため 未完の大気とくくるのはふさわしくないか もしれないただここではすでにタイガース を離れたため 阪神のという意味で紹介させてもらうこと にするそもそもエゴシ選手は大気と言わ れるほどの高いポテンシャルを示していた のプロ2年目までの活躍は潜在能力の高さ を十分に見せていたまず1年目はファーム で48試合の出場ではあったものの 打率3割9厘6盗塁8本塁打OPS864 と破格の成績を残している2軍でトリプル スリーする勢いで躍動してるじゃないこの 年は1軍でも早くから出番を与えられると 最終的には56試合に出場して 打率2割1分4厘5本塁打OPS637を マークしている めちゃくちゃ売ってるわけじゃないけど センターの守備力も含めて考えれば大卒1 年目でこれだけやれたら十分な働きね ちなみにこの年は36安打を放ったがその うち二塁打が8本3塁打が3本本塁打が5 本と長打力の高さを見せているそのため 打者の純粋な長打力を評価するISOと いう指標では173をマークこれはこの年 のセリーグで150打席以上たった73名 の打者の中で8番目に高い数字なんだ 打席数が少ないので参考程度ではあるけど 1年目から非凡な長打力を見せていたんだ

その長打力が最も脚光を浴びたのはプロ2 年目の2016年南砺4月に4試合連続 本塁打を記録したんだ前年後本塁打だった 選手が4000連発しかも最初の2試合は いずれも代打出場での本塁打であったため 3試合目にスタメン出場してホームランを 打った際には3試合にまたがる3打席連続 本塁打という珍記録だったんだそういう ミラクルを起こしちゃうあたりがエゴシ 選手の魅力の1つよね 魅力ついでに話すとこの好調さを買われて 3番でスタメン出場するなどしたが4月 下旬からは21打席連続ノーヒットを記録 5月以降は1軍と2軍を往復することに なったんだシーズン中盤に疲れてきたり 研究されて成績をガクンと落とすなら わかるけど同じ月に絶好調と絶不調が同時 に来てしまうあたりはいろんな意味で さすがエゴシ選手って感じね 結局この年は72試合217打席と出場 機会を増加させたものの 打率2割9厘7本塁打FPS645と質の 面では改善が見られなかったんだ開幕早々 に大爆発を起こした割に 成績は1年目と同じところに収束しちゃっ たのねそしてこれがエゴシ選手の阪神での キャリアハイとなってしまうえっまだこの 時大卒2年目の24歳でしょこれから出場 機会を伸ばしていくもんじゃないのプロ3 年目以降は1軍での役割は守備と大層要因 のバックアッパーとなってしまう2017 年から2022年までの6年間で最多出場 は2019年の49試合で最多打席は 2018年の40打席だ全然出番もらえ なくなってるじゃないこの間は2018年 にスイッチヒッターに取り組んだりバット を短く持ってフォームを変更したりしたが 課題のコンタクト力は上向かなかった コンタクト力が上向かなかったってことは 三振が多かったってことそうだな2020 年9月10日のDNA戦では 屈辱の3打席連続39三振を喫するなど エゴシ選手はキャリアを通して非常に三振 が 選手である 打席結果の三振の割合を表す系パーセント という指標があり大体のNPBの平均は 19% 程度に落ち着くんだ100打席あったら 19回くらいは三振するってことねエゴシ 選手のキャリア平均の系パーセントは 2023年7月12日時点で33.8%を 超えている3打席に1回は三振してるじゃ ない一般的にK%は25%を超えると多い 方で30%台となると気温をためらうべき

危険水域と考えていい大気の片鱗を見せた 2015年はセリーグで150打席以上 たった73選手中最下位のK% 36.42016年も200打席以上 たった60名の中で 唯一の30%超えとなる35.9%を記録 してるんだ三振をするペースに関しては かなり安定してるわけねこの三振の多さは 大学時代から抱えている欠点でエゴシ選手 の尊い一部通算でのK%は25.1%一般 的にプロで耐性するたような選手は下の カテゴリではK%は低くなるものだが 江越選手は大学時点でコンタクト能力に 課題を抱えていたんだ当たればすごいが 当たらないってのはアマチュアの時からの ものだったのね ちなみに当たればすごい事態はファームで も継続しており2019年は175打席で OPS9562020年は80打席で OPS905をマークしているまあ ファームでもK%の高さは相変わらずで 19年は30.8%を記録してるんだがな 根本的な問題を解決できぬまま時が過ぎて いってしまったのねただ全く期待が持て ないわけではないエゴシ選手のように若い 頃はコンタクト能力に課題を残しながら後 に大成した例もなくはない例えば近年だと 誰がいるの最も近いタイプだと現在DNA でプレイしてる太田大志選手が挙げられる だろう2人とも身体能力に優れる アスリートタイプの外野手だもんねその他 にも2021年にパリーグ本塁打王に輝い たオリックス杉本祐太郎 2023年に現役ドラフトで中日に移籍し ブレイクを果たした細川星矢などもいるな 3人ともファームでは別格の成績を残して たけどなかなか1軍では結果を残せない 状況が続いた選手たちじゃないとにかく 日本では三振の多い選手を嫌う傾向にあり なかなか辛抱強く起用されないことが多い んだただ三振は何も悪いことばかりでは ないぜ 歴代の多くの強打者たちは三振という コストを支払って本塁打や支給の獲得と いう大きなリターンを得てきた共振する ことで空振りするリスクは大代わりにその 分強い打球を打てる可能性も上がるしそれ を警戒して相手投手が勝負を避けたりも するもんね2023年の江越選手を見るに 辛抱強く起用すれば必ず成果が現れるわけ ではないがもう少し三振を許容する文化が あってもいいように思えるなひょっとし たらこれまでのみかんの大気たちの中には 一定数打席を与えていれば花開いた選手 たちもいたかもねというわけで今回はこの

辺にしておこう 過去に投稿した平成配信失敗ドラフト5選 でも 編成的に痛かったドラ1選手の伸び悩みに ついて紹介しているぜ的場館1野原まさし 高浜拓也受難の大型遊撃手たちや金本の 後継者と期待された慶応卒のスラッガー などいろんな選手がいたもんね 今回は阪神が交代宮でFA選手を獲得し ながら 期待通りの活躍ができなかった選手を3名 紹介するぜ 阪神って結構FAを効果的に使う球団の イメージだけどそんなに効果が出なかった FA補強もあったの確かに阪神は2000 年以降は金本智昭新井貴裕西勇気などFA で劇的に戦力アップを果たしたことがある なFA選手にしては中期的に働ける選手も 多かったからFA補強うまいイメージが あったわいや当然全てがうまくいくわけが なくほとんど成果を得られなかったことも 多々あるぜ ちなみにFAで獲得した選手の中には 控えや救援の僧を厚くするための バックアップ要因として獲得したケースも あるので今回はそれらを省いた超主力とし て獲得しながらも戦力にならなかった ケースを紹介していくぜ 了解したわ新三大阪神FA失敗し1つ目は 1993年オフに獲得した石嶺和彦が野手 だ ちなみにこの年はプロ野球に初めてFAに 投入された年で落合博満松永ひろみ 駒田憲仁 牧原ひろみと当時のスター選手が数多く 権利を行使したんだ確か 阪神の大損トレードとか 巨人の確執放出の時にも松永さんや駒田 さんのFAについて解説したわよねああ その辺の経緯は過去の動画を見てもらうと して石嶺選手もFA制度元年に権利を行使 した大物選手だったんだそんなにすごい 選手だったのあ石嶺選手は80年代の パリーグを代表するスラッガーの一人で プロ8年目の1986年に打率3割33 本塁打96打点OPS938を記録し ブレイク続く1987年も打率3割1分7 厘34本塁打91打点OPS944の活躍 を見せて2年連続でDH部門のベスト ナインを獲得してるぜDHだから守備貢献 がないとはいえこれだけ打てたら十分 すぎるくらいの打撃成績ねその後もチーム の中軸を担い続けると 1990年には37本塁打106打点の 活躍で自身初の打点王も獲得外野手として

も初のベストナインを獲得したんだあら DH1000人じゃなくて 守るようにもなってたのこの年はチーム 事情の兼ね合いでレフトの守備につくこと も多かったが リーグ最多の菩薩14を記録するなど 守備でも一定の貢献を果たしたんだ 守りもある程度できたならDHがない セリーグでも活躍できそうじゃない石嶺 選手はFA宣言した1993年も24本塁 打77打点の成績を残し5年連続全試合 出場とけがにも強かったため前述した落合 駒田松永 牧原といった早々たる面々にも引けを取ら ない大物目玉選手の一人だったんだ安定し て試合に出られるってのは魅力的ねFA 選手って移籍した後に実は体のあちこちを 痛めてて全く試合に出られないケースも あるしFA時点ではどの選手も結構な高齢 になってるからな 阪急オリックス時代に通算24本塁打を 記録した石嶺選手を巡って中日西武そして 阪神の3球団が激しい獲得競争を繰り広げ たんだ3球団からも声をかけられるなんて かなりの人気銘柄ねまず最初に交渉したの が中日で当時の伊藤球団代表はできれば 即決してもらいたいそれなりの条件を出し たと当時の規定であった現状年俸から最大 1.5倍となる1億650万円を提示今の 価格でFA選手に1億円と聞くと安く 感じるかもしれないが高額年俸を支払うで おなじみの巨人ですら最初に1億円 プレイヤーが誕生したのは93年の原辰徳 の1億2500万円と 駒田の人の1億2000万円なんだ年俸 1億円は9回トップの選手だけが たどり着ける領域だったのねまさに誠意は 金額じゃない中日が見せた誠意は金額だけ じゃなく関西から名古屋への引っ越しに 伴う住宅の提供さらに引退後は中日 グループもしくは地元放送局などで評論家 として活躍できるよう便を図る条件まで 出したんだ住まいにセカンドキャリアの 保証なんて 至れり尽くせりのビッグオファーじゃない これに待ったをかけたのがセーブ中日が フロントトップ3人体制で赴いたのに対し て名称森正明監督が自ら直々に交渉に 乗り出したんだフロントのトップが来るの も嬉しいけど 選手からしたら現場でバリバリやってる 指揮官にオファーを受ける方が光栄に思う かもね 森監督は2時間半にわたって日本一奪回を 目指す西武に石嶺選手が必要かを説明し5

番レフトの起用も確約したそうなんだ金額 も大事だけどやっぱり使える人からのお前 が必要なんだ」って言われると選手冥利に 尽きるわよねおまけに西武は関東へ 引っ越すための支度金として3000万円 も用意するほどの熱の入れようだったんだ 年俸最大金額にスタメン確定おまけに住居 も考慮してくれるってこれ以上ない条件ね この条件を上回るってなかなか難しいん じゃないの 阪神はどうやって石嶺選手を獲得したのよ 実は石嶺選手は移籍にあたってお客さんの 多いセリーグのチームでプレイしたいと 希望してたんだいきなりセーブが不利に なるじゃない当時のパリーグの球場はどこ も閑古鳥が鳴いてたからな西武時代には 魅力を感じてたそうだがパリーグからは 卒業したいと考えたそうなんだ加えてこの FAの2年前に兵庫県宝塚市に家を購入し たばかりで家族のことも考慮してなるべく 住居を変えたくない以降もあったんだぜ 在阪球団で人気球団って言ったらそうなん だ石嶺選手が希望する条件に合致したのが 誰アロー阪神タイガースしかなかったんだ オリックスから阪神移籍する選手の典型的 な理由ね石嶺選手にとって幸運なのは 希望する阪神も獲得にご熱心だったことだ 阪神は中村勝弘監督三好和彦球団社長だけ でなく 阪急時代の打撃コーチだった石井明治府県 打撃コーチも同席して 獲得交渉に乗り出したんだ 監督フロントそして信頼できる打撃コーチ もいるなんて最高の環境じゃないあまりに も行き統合してその日は短いまで催されて お寿司を食べながら未来の半身について 語り合ったそうだぜなんだか西武と中日が かわいそうに思える出来レースだったのね 石嶺選手は阪神球団初の1億円プレイヤー としてFA移籍が決まりその会見では同じ 関西の球団でいつも大観衆の前で試合を する阪神が羨ましかった一度でいいから 巨人戦のお客さんがたくさんいる前で野球 がしたかったとコメントしてるぜ年俸や チーム状況なども大事だけどやっぱり1 スポーツ選手として 注目されるところで試合したいって思いは あるわよね特に当時のプロ野球において 巨人戦があるかどうかは認知度に大きな差 が生まれる要因だったからなで石嶺選手は どんな成績を残したの前年特典数リーグ4 位に沈んだチームの起爆剤として期待され た石嶺選手は主に5番レフトで起用される と全試合に出場して17本塁打 チームトップの77打点をマークしたんだ

全試合出場は評価したいところだけど内容 はオリックス時代からかなり下がってるわ ね OPSは前年の807から677と低下し ておりこの値は1軍でレギュラー定着後 ワーストの値だったんだうーんとても チーム最高年俸選手にふさわしい成績とは 言い難いわね 復活を期待された翌1995年は古傷の膝 の状態が思わしくなくさらに成績が悪化 オリックス時代から継続していた連続試合 出場記録も894試合でストップして しまいこの年はわずか97試合出場で9 本塁打33打点OPS693に沈んで しまったんだ一気にガタがきちゃったのね またこの年阪神はチーム本塁打88得点数 451はいずれもリーグワーストに沈み チーム成績も首位と36ゲーム差の最下位 に終わったんだ石嶺選手だけの責任じゃ ないけど 起爆剤になるべき最高年俸選手が成績 振るわずだとなかなかチーム成績上がら ないわよね チーム低迷の影響もあってFA公証時に 熱烈に勧誘してくれた中村克洋は途中休養 に追い込 コーチもシーズン終了後に退任となったん だ楽しかった入団交渉という名の階段から わずか2年後にそれぞれ散々な目にあっ てるじゃない 復活を期したい関3年目の1996年は 開幕こそスタメンだったものの 復調の気配なく長い2軍暮らしが続き たったの26試合の出場に泊まり 打率1割6分1厘2本塁打OPS 515-37成績に終わりこのシーズンを もって現役引退してるぜ3年間でほとんど 成果の得られないFA補強になってしまっ たのね 移籍時点ですでに33歳とやや高齢だった し実はオリックス時代も打点王を獲得した 1990年以降は徐々に成績を下げていっ てたんだ結果的には峠を過ぎて食べ ベテラン選手を高値で掴まされた結果に なったんじゃない実は1992年から甲子 園球場ではラッキーゾーンが撤廃されてて 阪神の本拠地は12球団でも屈指の本塁打 が出にくい球場になってたんだ 華麗に加えて長打が出にくい球場で初守備 負担も大きいって結構ミスマッチな環境 じゃない本人が望んだ環境は生活や窮状の 熱気という点では最高だったかもしれない が 環境的にはかなり最悪に近い選択になって しまったのは悲しいな

環境選択の大事さを痛感させられる話ね新 3代阪神FA失敗し2つ目は1994年 オフに獲得した山沖幸彦投手だ前年の石嶺 選手に続いて2年連続でFA補強をしてた のねなにせ当時の阪神は暗黒時代に片足を 突っ込んでて1987年以降の8年間でB クラス7回うち4回が最下位と絶賛低迷し てたからなそれだけ負けてたら片足どころ か両足突っ込んだって言っても良くない いやこの後の95年から2001年までの 7年間はさらに状態が悪くなって最下位6 回5位1回と90年代最弱チームになる からなどっぷり暗黒沼に両足が使った状態 じゃないそんな低迷期を救うべく3個の例 で迎えられたのが山 投手だったんだそんなにすごい投手だった の山沖投手は80年代の阪急を支えた先発 投手の一人でプロ2年目の1983年には 15勝8敗防御率3.48 リーグ最多の143奪三振を記録したんだ 即戦力性の高い投手だったのね続く84年 には11勝15セーブの活躍で初の タイトルとなる最優秀救援投手を受賞 1987年には245回3分の1を投げて 防御率2.7519勝8敗の活躍で最多勝 も獲得してるぜ先発に救援とマルチに活躍 できる選手だったんじゃない 結局阪急オリックス時代は5度の二桁勝利 をマークして通算112勝FAを決めた 1994年は首脳陣との対立で登板機会に 恵まれなかったものの108回を投げて7 勝をマークするなどまだまだ実力は健在で あることを示してたんだ全盛期ほどでは ないもののそれくらいの成績残せるなら 先発のスポット枠 欲しい球団はあるでしょうねこの山を機 投手にはヤクルト 阪神の2球団が獲得に名乗りを上げたんだ 特にヤクルトは野村克也監督が熱烈に獲得 を希望し一時はヤクルト入団が有力との声 もあったんだ 野村再生工場とも言われた盧武鉉の目から 見ても山沖投手はまだまだやれるって思え たのねそこに待ったをかけたのが阪神 ヤクルトを上回る金額と 複数年契約を提示する熱烈なオファーで もうアタックをかけると山沖投手も 華やかな球団で一度は野球をやってみたい と 阪神移籍に気持ちが傾いたんだオリックス から阪神への移籍なので 環境に大きな変化がなかったことも決めて みたいだなどっかで聞いたような決め手 じゃないあれ今回阪神のしくじりネタだよ ねさっきからオリックスが傷つくような

発言がちらほら出てる気が山沖投手は球団 に長くやってほしいと言われ考えが分かっ たからそれで十分という理由で複数年契約 を辞退やるからには1年でも長く努力し ます ローテーションに2桁勝ちたいと残念 7500万円の契約を交わしたんだ 成績を落としてたベテラン選手に 7500万円ってなかなか強気な金額ね ましてや複数年を提示してたなんて当時の フロントに対してちょっと懐疑的になっ ちゃうわ 移籍時点ですでに36歳とかなりの ベテランの域に達してたからな山沖投手は 春のキャンプで右肩痛を発症いきなり怪我 しちゃってるじゃない実はこの年の1月に 阪神淡路大震災が起こったんだが 震災後の神戸市内のグラウンドで給水車の 前に子供たちが並んでいたのを見て自分は 走って汗をかきその選択もある一方では 飲み水にも困っているこれは野球をやって ちゃだめだと思い以後は自主トレをやめて しまったそうなんだ東北の震災の時も過度 な自粛って言葉が話題になったけど山沖 投手も優しすぎる性格が故に練習を自粛し ちゃったのねあれだけ大きな災害となると 野球なんて二の次三の次って考える人が出 てもおかしくないからな私当事者だったら 思い悩んじゃいそうだわ本人はこのことを 振り返り十分なトレーニングを積まない まま 投球練習を行ったことが故障につながった かもしれないと語ってるぜ気持ちも乗って なかったでしょうしね 結局春のキャンプで炒めた右肩の状態は 一向に上がらずこの年は2軍で7試合15 回3分の1を投げただけに終わり1軍登板 はゼロオフには自由契約となりそのまま 現役引退となり 史上初でかつ今なお唯一の1軍出場ゼロの まま退団したFA選手になったんだとんだ 不良債権じゃない普通FA選手ともなると たとえ状態が上がらなくても1軍で起用さ れるものだから当番0ってよほど型が良く なかったのねせめてもの救いは山沖投手が 複数年契約を断ってくれたことだがもし 複数年契約だったら阪神のみならずプロ 野球ワーストのFA選手になってたかもな これ以上のワーストFA選手いるのまそれ は別の球団の話になるのでまた別の機会に 話すとするか新参大阪神F失敗し3つ目は 2011年オフに獲得した小林裕之投手だ 山沖投手からかなり期間が開いたわねあ この動画の冒頭でも話したが2000年 以降は効果的なFA補強をするようになっ

たからなしくじりから球団も学んだのねの はずだったんだがなこの小林投手の見極め をしくじっちゃったのね 遺跡の経緯と結果を小林投手の略歴を 振り返りながら紹介していくぜ小林投手は 2000年代のロッテ投手陣の中心 メンバーの一人で2003年に初めて規定 投球回数に到達して防御率3.840勝を マークすると7年連続で投球回数130回 以上2桁勝利4回5度のオールスター選出 と リーグを代表する投手の一人だったんだ 毎年成績安定してて リーグ上位クラスの先発なんてのどから手 が出るほど欲しい逸材じゃない2010年 はチーム事情で救援に回り57試合に登板 して防御率2.2129セーブをマーク する活躍だったんだ先発としても救援投手 としても優秀な投手だったのねそんな小林 投手は2011年のオフに大リーグ朝鮮を 目指してfa権を行使こんな高投手を ロッテは引き止めなかったのロッテの しくじりトレード氏の時にも話したがこの 時のロッテは親会社が財政なんて主力を 慰留する余裕がなかったんだ若干ロッテの しくじり要素があるお話ねメジャー挑戦を 希望した小林投手だったが残念ながら具体 的なオファーはなくアメリカ行きを断念 アメリカ希望を知りながら 辛抱強く待ってくれた阪神と1月28日に 契約することを発表したんだ 阪神の熱烈な思いが実ったのねこの小林 投手に対して阪神は推定2年総額5億円の 大型契約を結んだんだ 翌年33歳の休園投手に対して2年5億円 って結構太っ腹なオファーじゃないこの 時期の阪神はJFKと言われた鉄壁の救援 陣に陰りが見えてきてて ウィリアムス投手は2010年に現役引退 し 久保田智之投手もこの年は故障の影響で わずか23試合登板 唯一健在だった抑えの藤川球児投手も 2012年オフの海外fa権取得が迫って て勝ちパターンの再構築が求められてたん だ 編成的には理にかなった補強だったのね ちなみにこの小林投手獲得にあたって人的 補償で2007年の高校生ドラフト1巡目 で指名した高浜拓也をロッテに奪われてる んだ中長期的な編成バランスを崩してまで 短期的な利得を稼ぐことに舵を切った補強 だったのね大きな期待を受けて入団した 小林投手は開幕からセットアッパーの役割 を任されたが前半戦で6度の休園失敗を

犯し4敗を喫してしまうんだ最初から全然 ダメじゃないその後も状態は上がらず勝負 どころの8月28日には2軍落ちとなり1 カ月離脱した影響もあり 移籍1年目は42試合の登板で防御率 3.001勝5敗と 期待とは程遠い成績に終わったんだ 期待の有望株を放出する形になってまで 獲得した年俸に億5000万円のFA投手 としては物足りなさすぎる結果と言わざる を得ないわね 復活が求められる遺跡2年目の2012年 は3年ぶりの先発転向となったが状態は 上がらずに2軍暮らしが続いたんだ とうとう1軍での登板すらなくなっちゃっ たのねこの惨状にこの都市6月に行われた 阪神の株主総会では外から城島や小林を 読んでも活躍していない 給料は高いのに不良債権を抱えているだけ だと 株主から辛辣な声が上がったんだ 散々な言われようねまあこの手の話は もっとも刺激的な発言が取り上げられがち だからな 結局小林投手はこの年は1軍での登板は なく2軍でも24試合で52回3分の1を 投げて防御率3.44と目立った結果を 残せずにオフに戦力外通告を受けたんだえ 2年で戦力外行って早くないベースの年俸 が高いからな高額年俸選手の宿命ってやつ だ高い年俸を要求する分結果に見合わ なかった時はすっぱり行かれちゃうものね 阪神対談の小林投手は1年間独立リーグで プレイした後に2014年のシーズン途中 から西武と契約しかし往年の輝きは 取り戻せず15試合に救援登板して防御率 7.94と成績不振で戦力外通告を受けて 引退したんだロッテ対談後は1年だけ ギリギリ戦力になったけどそれ以降は全く 成績残せてないわね近年の研究で投手は 野手より衰えが早くまた成績にムラが出 やすいとも言われてて非常に成績が不安定 になりやすいポジションなんだ今回紹介し た小林投手や山沖投手みたいなベテラン 投手との高額契約はかなりリスクが高いっ てことね今回惜しくも船外としたが 1999年オフにオリックスから阪神に FA移籍した星野伸行投手も33歳での 移籍となったが 移籍後はほとんど結果を残せず3年目には 病気もあって現役引退してるしな 阪神はオリックスから高値でベテランを 掴まされてばっかりじゃないまあその後 糸井を西勇気でお返ししてもらってるから チャラとしようじゃないか

今回は優勝に届かなかった阪神大型補強子 を紹介するぜ 過去に巨人パリーグ3代大型補強失敗し などを紹介してきたけど今回は阪神編ね あまり批判の対象にはならないけど 阪神も結構大型補強を敢行するイメージが あるわ資金力もあってかつチームの立地も いいので人を集めやすい環境を持った球団 ではあるからなでもその割にはリーグ優勝 5回日本一1回とあまり結果が伴ってない 印象もあるのが正直なところね 失敗大型補強しを振り返る前にまずは阪神 の大型補強の成功しについても触れて いこう 阪神の球団死に残る大型補強といえば 1963年オフに行われた大米オリオンズ 山内和弘と阪神小山正明の世紀の大 トレードだろう後に2000本安打も達成 しトレード時点で本塁打を2回 打点を4回を獲得していた大米の手法山内 と通算320勝で名球会入りを果たすほど の活躍をしトレード時点で176勝を挙げ て最高 沢村賞をそれぞれ1回獲得したエースの 小山が電撃移籍をした休止に残る遺跡劇だ なとんでもないレジェンド同士の遺跡じゃ ないのどうしてそんな遺跡劇が成立したの よ本題とそれるので手短に話すと1963 年の阪神は借金1を抱え 首位と14.5ゲーム差の3位に終わった んだ 成績を見ると得点数がリーグ4位の472 に沈み同年リーグ優勝で得点数も1位だっ た巨人の611と比較して 攻撃力で明確な差が生じていたんだ実は 阪神は優勝した前年の1962年も 失点数がリーグ最小の330だったのに 対し得点数は386でリーグ5位と 慢性的な得点力不足に陥ってたんだ もともと攻撃面に不安を抱えてた中で V奪還の切り札として大枚の手法山内選手 に目をつけたわけねにしても主力投手の 小山投手を放出するなんて結構思い切った 補強策じゃない小山放出には様々な理由が あってまず一つはもう一人の絶対的な エース村山実を保有できていたことさらに は小山投手自身が阪神内で浮いた存在に なっていたとされることも一因だそうだ 強みの投手力を維持できる見込みがあった 中でリスクを取って弱点を補う策に出た わけね ちなみにこの年の阪神は日本でもオール スター経験があり63年に22本塁打 OPS851を記録したマイクソロ無効 交換要員として大枚の和光ともう投手を

獲得してるんだ正規のトレードと同じ タイミングで別のトレードも成立させてた なんていろいろ積極的に動いた年だったの ね和光投手は1960年に13勝62年に 15勝をマークしたほどの実力を持った 投手で小山投手を放出しつつも 投手力を低下させすぎないために獲得した と思われるな 博打を打ったように見えて保険もしっかり してたわけねそのほかにも阪急からオール スター出場経験もある 俊足甲田の内野手元や式金吾選手を獲得し てるな4番先発ローテ内野手のレギュラー 候補を一度の年に獲得したなんて当時にし てはかなりの大型補強だったんじゃない 当時はFAもドラフトもなく 補強策が限られた中で 並々ならぬ覚悟で部位奪還を目指した阪神 はその目論見通り1964年に80勝を 挙げる好成績で2年ぶり2度目のリーグ 優勝を果たしたんだフロントの大胆な戦略 がきっちり実るなんてこういった失礼だ けど 阪神らしからぬ敏腕っぷりじゃない やっぱり大型補強の効果が大きかったの 移籍した山内選手は阪神でも4番を務め全 140試合に出場し31本塁打94打点 OPS846をマークして優勝に貢献和光 投手は先発 救援の両方で起用されて99回3分の2を 投げて防御率3.15で5勝を記録 元屋敷選手も主に2番セカンドで起用され て規定打席に到達するなど一定の貢献を 果たしてるな 補強選手がそれぞれ期待に応える活躍をし たわけねまあただ課題だった得点力自体が 劇的に改善されたわけではなく得点数 492はリーグ3位でリーグ平均得点の 509を下回るものだったんだあれ山内 選手加入で攻撃力が改善されての覇権奪還 だったんじゃないの リーグ優勝の大きな要因になったのは 協力投手陣の貢献によるところが大きいな 失点数は前年の521から434へと改善 されてリーグ1位実はこの年は来日3年目 のジーンバッキーが才能を開花させて 投球回数353回3分の1で防御率 1.8929勝をマーク最多勝最優秀防御 率ベストナイン 沢村賞を獲得するなど 凄まじい成績を残してるんだ大型補強選手 3人以上の貢献量を1人でもたらしてる じゃない前年151回3分の2を投げて 防御率2.49だったバッキー選手がこれ ほどまでに大化けすること見込んでいたか

は定かではないが結果的には小山投手が 抜けても変わりがいる状況で大きな賭けに 出た戦略自体は評価されるべきだろうな 補強選手3人がそれぞれ十分な成績を収め てるしこの栄光は当時の阪神フロントの 努力によるものと言っても過言ではないわ ねこの1964年のオフにはドラフト制度 が導入されるわけだが 選手の移籍が起こりにくいリーグ環境の中 にあって 適切なリスク管理を図りながら戦力を強化 させた事実は注目に値するべきだろうな そんなフロントの敏腕っぷりで優勝した 阪神の 失敗大型補強しおこれから解説していくの ね 阪神の明るい歴史だけを知りたい方はここ から先は見ないことをおすすめするぜ優勝 に届かなかった阪神大型補強し一つ目は 1979年だ先程紹介した1964年から 14年後に大型補強を敢行したのねその間 の阪神はというと14年間でAクラス入り が10回と成績は安定していたものの リーグ2位が5回とややシルバー コレクターと化しており優勝に手が届き そうで届かないもどかしいシーズンが続い ていたんだその時期は巨人がVを果たし たりとセリーグの球団が優勝するハードル はかなり高かったもんね優勝はないなりに 成績が安定していた阪神だが実は1978 年には球団として29年ぶり2度目の再会 という屈辱を味わってしまったんだ スポーツの世界ではよくある話だけど 取れる時にとっておかないと一気にチーム 成績が急降下しちゃったりするもんね チーム成績で見ても80杯を記録し優勝し たヤクルトとは30.5ゲーム差の再開 得点数532はリーグ5で 失点数678はリーグワーストとなり 得失点さもリーグ最低のマイナス146と 散々な結果に終わったんだ何も褒めること がないほど 散々な惨状じゃない70年代の阪神の編成 を簡単に振り返るとまず72年に長年 エースとして活躍した村山稔が現役を引退 したことに始まりさらに75年には吉田 監督の確執が噂された江夏豊かがトレード で何回ホークスに移籍さらには73年から 77年 かけて 5年連続で 規定投球回数をクリアしていた上田次郎投手にも衰えが出る など チームのストロングポイントであった投手力に限りが生じ始めていたんだ さらに

野手では昭和のプロ野球 屈指の強打の遊撃手である藤田平に衰えが出始めてしまい 78年からはファーストにコンバートされることになるがもはや 全盛期 ほどの貢献量は期待できなくなってたんだ 吉田義男 藤田平 と続いてきた名 遊撃手の系譜が途切れかかってたのね さらに強打の正捕手である田淵幸一 も故障の影響でフル2試合に出場できない シーズンが増え始めて一塁手で起用されることも多くなってたんだ 投手も 野手も 主力選手に衰えが見られてしまいその チーム力低下の影響がもろに現れての29年ぶりの 最下位転落だったというわけか 抜本的な改革と 世代交代が喫緊の課題であった 阪神は大胆な血の入れ替えを78年のオフに実行 まず何回 広島で名参謀として鳴らしたドン ブレイザーを監督として招聘 打者育成に定評ある中にシフトヘッド剣 打撃コーチとして加えるなど外様の名指導 者を中心とした組閣をしたんだ 阪神って生え抜き志向のイメージだけど まずはスタッフのところから外部の有力 人材を加えたのねこの辺はこの年から オーナー 球団社長を変更するなど 球団運営の体制そのものを刷新したことも 影響してるだろうなドラスティックな チーム改革を行う体制づくりから始めたの ね 肝心の選手補強の面では ブレイザー新監督主導で チームの中核選手であった田淵幸一 古澤健治の投打の柱を放出要因として西武 からまゆみ秋の部若名義春 竹内昌史 武田正文の若手有望株を4名も獲得したん だ 就任早々かなり思い切った血の入れ替えを 行ったのねこの辺は上に流されすぎない 外国人監督ならではの非常な変成手腕って 感じがするわこの田淵選手をめぐる トレードに関しては新三大ミスター タイガース喧嘩は彼氏でも紹介してるので 経緯についてはそこで知ってもらうとして このトレードで阪神はまゆみ若菜という 遊撃手と捕手の次世代のレギュラー候補の 獲得に成功したんだ 藤田 田淵が衰えて後継者問題に悩まされてた要

のポジションに早速手を加えたのねさらに このトレードの後に行われたドラフト会議 ではいろんな意味でドラフトの目玉であっ た江川卓を強行指名ご存知の方も多い だろうが 江川投手は高校大学時代に2度もドラフト で交渉権を獲得した球団への入団を拒否し てまで 巨人入りを熱望してたんだ 巨人の暗黒ドラフト誌でも取り扱った 江川事件空白の1日とも言われるドラフト 死に残る大事件が起こった年だったのね この映画は投手の獲得を巡って行われた 巨人阪神の獲得競争は最終的には コミッショナーの仲介もあり 巨人の当時のエース小林茂と阪神江川卓を トレードする形で決着することになったん だ 掛布さんの阪神OB江川ネタはここから来 てるのよね当初描いていた江川の獲得は ならなかったもののトレードで獲得した 小林投は27歳とまだ若く数年は活躍が 見込める年齢実力の面でも76年から78 年にかけては3年連続で190回&13勝 以上をマークし77年には沢村賞ベスト ナイン最優秀投手賞を獲得するほどの働き ぶりだったんだ 投手力が弱体化してた状況で 願ってもない新たな投手陣の柱を獲得でき たわけね東田に新たな中軸候補を獲得した 阪神は 補強の手を緩めず 助っ人外国人としてリロイスタントン外野 手を獲得スタントン選手はメジャー通算 77本塁打を記録しシーズン2桁本塁打を 4度マークしてた選手で1977年には 133試合に出場して27本塁打90打点 OPS852の好成績を収めたほどの選手 だったんだぜ 令和では考えられないほどの実績を誇る 助っ人外国人を引っ張ってこられたのね 前年再開だったとはいえこれほどの大型 補強をしたとあってはファンも上位争いを 期待したくなるわね実際シーズン開幕前に は 阪神のAクラス入りを予想する評論家も 多かったそうだ大きな期待を集めた新生 阪神は 巨人から移籍してきた小林投手が273回 3分の2を投げて22勝防御率2.89の 活躍で最多勝 沢村賞ベストナイン最優秀投手を獲得する 大車輪の働きを見せたんだとんでもない 成績残してるじゃないの 打倒巨人を掲げた小林投手はジャイアンツ

戦中心のローテを直訴しなんとこの年巨人 戦8連勝を記録するほどの巨人キラー アプリを発揮したんだ 江川事件はとんでもない復讐の鬼を 生み出してしまったのねまた野手の方では まゆみ選手が一番ショートに定着して13 本塁打20盗塁だOPS711と遊撃手と しては及第点以上の攻撃力を発揮さらには 若菜選手が打率3割3厘9本塁打 OPS758の捕手としては破格の攻撃力 でオールスターに選出されゴールデン グラブ賞を獲得するほどの活躍を見せたん だ 前任者の藤田 田渕選手と比較するのは国だけどこれだけ の成績を残せる26歳の若手遊撃手と保守 を同時に獲得できたのならトレードは成功 と言えるわねしかも嬉しい誤算として 同じくトレードで加入した竹内選手が25 本塁打 OPS876の好成績で 打線に厚みをもたらしたんだ 田淵選手が抜けた長打力低下が懸念された 中でそれだけの成績を残してくれたのは かなり嬉しい誤算じゃないさらにこの年は 24歳の掛布がさらなる覚醒を見せた年で 打率3割2分7厘48本塁打 OPS1.088と大爆発し本塁打王 ベストナインゴールデングラブ賞を獲得し たんだ新たなミスタータイガース誕生の年 だったのね9回最高レベルの新エースと 手法が誕生して リーグでも上位レベルの遊撃手と正捕手が いたとなると優勝には届かなかったにせよ 結構いいところまで行ったんじゃないの 79年の阪神は貯金1で 首位と8ゲーム差をつけられ4位で フィニッシュしてるえちょっと待ってよ話 の展開的には結構チーム力が改善されて 強くなったみたいな言い方だったじゃない まあさすがにダントツ最下位から1年で 優勝できるほどプロ野球は甘くないからな ただ チーム成績で見ると前年の借金39から 貯金1へと好転させたことは評価するべき だろう特殊点差で見ても前年のマイナス 146から-43と約100点も改善し てるしな リーグ最弱だったところから 平均レベルの一歩手前くらいまではチーム 力を持ち直してたわけね結果的に優勝は できなかったが新生タイガースはこの年 以降も中長期的に主力になれる選手の確保 を継続的に行っていくんだ79年の ドラフト1位で岡田彰布を手にしたことを

皮切りに80年は中田喜洋81年は平田 勝雄82年はキド勝彦83年は中西容器 池田知可房85年に球団初の日本一に輝い た時の主力選手を次々に引き当てて見事に 球団の再生を果たしたわけだな 球団初の栄冠の影には 功労者のベテラン放出を厭わないチーム 改革があったわけねその礎を築いたという 意味ではこの79年の大型補強も評価され ていいだろうな優勝に届かなかった阪神 大型補強し2つ目は1998年だ 阪神が暗黒決まっただ中だった時代の話か 野球に詳しい方は知っての通り85年に 日本一に輝いて以降の阪神は低迷機を 迎えることになり87年の再会を皮切りに 87年から97年までの10年間デビー クラス9回最下位6回と暗黒時代を迎えた んだ目も当てられないような惨状ねオフに 大型補強を敢行することになる97年も 借金11を抱えて 首位と21ゲーム差の5位特典数54は リーグワーストで 失点数もリーグ4位の575と苦しみ特殊 点差マイナス71とリーグ優勝を狙うには 厳しい戦力だったんだ 編成的にも中長期的な見通しは暗の実は 投手陣は決して悲惨な状況というわけでは なかったんだこの年先発で100イニング 以上消化して防御率3点台だった投手が5 名もいたがいずれも30歳前後の投手 ばかりで少なくとも数年は戦力を維持 できる見込みがあったんだドラフトや 外国人補強で一人でもエースクラスを加え られたら リーグ平均以上の投手陣になるだけの メンツはいたのね当時の編成もそう考えて たようでオフに行われたドラフトでは2位 で後のエースとなる井川慶投手を獲得 外国人補強の面でも先発要員として出 られる名 救援要員として台湾リーグで86回を投げ て112奪三振を記録した剛腕リベラなど を獲得してるなさらにはシーズン途中では あるがダイエーから金銭トレードで吉田と 良子投手まで獲得 吉田豊彦投手はホークス時代に3度の二桁 勝利を記録した実績を持つ投手で左の救援 候補として白羽の矢が立ったんだ先発 救援 将来のエース候補と 投手はかなりバラエティに富んだ補強を 行っ たのね 投手以上に問題が大きかった 野手についても触れていこうや

主人は3年連続で 得点数 リーグ ワースト と慢性的な攻撃力不足を抱えており 中心選手として期待されていた20代の新庄剛志 桧山進次郎の成績が伸び悩んでおり 長年 主力として活躍した 和田豊 かも35歳になるなど現有戦力も 将来性の見通しも決して明るくなかったんだ 手をつけなきゃいけない課題が山積み みたいねこの状況でチームは同一リーグの中日と大胆な大型トレードを実行 正捕手候補だった 関川光一と守備の名手として評価された92年の新人をフジテレビを放出 要員として 中日から94年の本塁打点の二冠を大砲 泰明と矢野燿大 獲得したんだ 両チーム ともにかなり思い切ったトレードを決断したのね 関川選手は打撃こそ 毎年3割近いアベレージを残していたが 捕手としての評価が年々下がっており 外野手での起用が増えていってたんだ 捕手としては見切りをつけて 新たな正捕手候補 を獲得したってことねまた大砲選手はこの 97年こそ12本塁打 OPS732と苦戦したが2年前の96年 は38本塁打 OPS971と好成績をマーク97年から 中日の本拠地が名古屋ドームに移転した ことで成績を下げてしまったが当時の阪神 はまだ大砲選手がやれると判断したようだ な当時はパークファクターって概念も なかったから本拠地球場の変更で成績を 下げたように見える選手を獲得する試みは 面白いわね 阪神フロントは補強の手を緩めることなく 中日を退団したアロンゾパウエルを獲得 パウエル選手は94から96年にかけて3 年連続で首位打者を獲得した実績を持つ 選手で97年こそ成績を下げてしまった ものの実績十分の助っ人が外国人だったん だパウエル選手もまたドラゴンズの本拠地 移転で成績を下げたとされてるけどそこに 阪神が職種を伸ばしたのは面白いわね さらには侵害黒人野手としてデブハンセン 選手も獲得 反戦選手はメジャーでの目立った実績こそ なかったものの97年は186打席に立っ て 打率3割1分1厘OPS880とMLBで

質の高い成績を残していたんだひょっとし たら日本で大化けする可能性も秘めてそう な選手じゃない 野手もまた結構大胆な補強をしてるし うまくはまれば一気に戦力を伸ばせそうな 陣容になったわねしかも嬉しい誤算として 97年ドラフト4位で獲得した坪井とも 地下選手が1年目からプロに順応して4月 にはレギュラーを獲得 終わってみれば新人ながら打率3割2分7 厘出塁率3割8分 OPS797の好成績を残して チームを牽引したんだええ新人じゃないと しても優秀とされる成績をルーキーイヤー に残してたなんてそれに加えて 破壊力満点の中軸助っ人3人衆に正捕手 候補 未完の大気の宇宙艦コンビがいたってこと は結構いい成績残したんじゃないの98年 の阪神は借金31を抱えて 首位と27なゲーム差の再会に終わってる な 成績向上させるどころか むしろ悪化してるじゃないなんでなんで あんなに大型補強したのに得失点さは マイナス139で前年のマイナス71から さらに悪化 投手陣は失点数583でリーグ3位と及第 点の成績を残していたが得点数490で2 年連続リーグ最下位と 攻撃人が足を引っ張ったんだあんなに大型 補強したのにまず最も期待されたパウエル 選手は序盤から不振続きで 故障離脱もあったためシーズン途中の8月 11日に解雇されたんだ結構なスピード 解雇じゃない ちなみに阪神の外国人選手がシーズン途中 に解雇されるのはこれで3年連続だった そうだもうすでにバースの亡霊を追いかけ 始めてた時期ねハンセン選手も打率2割5 分3厘11本塁打OPS695と日本に 順応できずわずか1年で自由契約となって いるなさらにこの年もまた新庄 檜山選手は伸び悩みが続いたこともあり チームの攻撃力も改善されなかったわけだ いくら坪井選手が頑張ったとしても他が ひどすぎて得点力を改善させるには至ら なかったのねまあただ補強が全てうまく いかなかったかと言われればそうでもない まず大砲選手は21本塁打だ OPS802と名古屋ドーム並みに本塁打 が出にくい甲子園球場を本拠地としてた割 には及第点以上の打力を見せたんだ 投手陣でもリベラ投手は防御率 2.3827セーブの活躍を見せ名投手も

129回3分の2を投げて防御率3.47 と両投手とも一定以上の貢献をしたんだ 実際投手陣は失点抑止力を向上させてるし ディフェンス面では効果的な補強ができた と言ってもいいのねまたお気づきの人も いるだろうがこの大型補強で獲得した選手 の中で最高のヒット作といえば 矢の捕手だろう 矢野選手は加入1年目こそ打率2割1分1 厘OPS593得点したが2年目にオール スター出場を果たすとそこから不動の正 捕手として活躍20032 去年のリーグ優勝にも貢献するなど 2000年代の阪神の躍進を支えたことは 多くのプロ野球ファンが知ることだ大きな リスクを払った対価としてこれだけ名選手 を獲得できたわけだからその点では十分な 成果があった補強と考えてもいいのかもね 今回はあくまで大型補強後のシーズンの 成績だけを見て 失敗補強と紹介してるが 選手放出 獲得の効果がはっきりわかるのには時間が かかる場合も多いからな 野球ファンもメディアも短期的な視点で フロントを評価しがちだけど 編成こそ中長期的な目線で評価しないと いけないわよね 余談だが98年は守護神として活躍した リベラ投手は 翌99年から監督に就任したノムさんと トリガーずシーズン途中に故障した右肘の 治療を理由に帰国するがそのままチームを 退団名投手もまた2年目に飲むさんと対立 してしまった上に増版行為をしたため 罰金1200万円と無期限近親処分を受け て途中帰国しそのまま途中退団となったん だ 結局4年連続ロケットがシーズン途中退団 してるじゃない 補強のポジティブな側面に触れたと思っ たらやっぱりしくじり要素も大きかった 補強だったのね優勝に届かなかった阪神 大型補強し3つ目は2002年だ大型補強 で順位が伴わなかった4年後にも 補強の手を緩めなかったのね話が長くなっ てきてるのと先ほどから年度が近いので この年は手短に話すとするか98年の惨敗 を受けて 阪神は99年から名称野村克也監督を招聘 だがノムさんの試行錯誤も実らずノムさん が率いた99年から2001年の3年間は すべて再開と 泥沼のチーム状態は一向に上向かなかった んだ上向かないどころか状況は悪化してる

ようにも思えるわそこで球団はチーム再建 の切り札として 元中日監督の星野仙一氏を招聘したんだ 星野さんといえばこのチャンネルでも たびたび紹介してるけど 監督として以上にGMとしての剛腕の方に 魅力があるタイプの指揮官よねこの人は フロント奥として金を出させるのにも長け てるしなんより編成的な視点で ドラスティックにチームを変えられる タイプだからな2001年12月17日に 正式に監督に就任した星野さんは同年の 12月21日に日本ハムからFA宣言して いた片岡篤志を獲得さらには12月25日 にオリックスを自由契約になっていた ジョージアリアスとの2年最大6億円の 大型契約も締結したんだぜ 監督就任から約1週間で2人の強打者の 獲得に成功するなんてさすがの一言ねまた 投手力強化の面では ブレーブスからマークバルですトレイ ムーアの2人の外国人助っ人を獲得 星野監督就任前に行われたドラフトでは 自由獲得枠でその年の社会人ナンバーワン 投手の呼び声も高かった安藤優や アマチュアナンバーワン捕手とも言われた 浅い量を獲得するなど 精力的な補強を続けたんださすが星野監督 と言っていいほどフロントを動かしたのね また星の監督はオープン戦から戦う姿勢を 選手に求めそれに選手が答える形でチーム はオープン戦優勝を飾るなど今年の タイガースは違うというのを見せつける オフとなったんだこの人なら何かやって くれるんじゃないかっていうカリスマ性と いうか高い演出力を持った監督だったのは 間違いないわねオープン戦の勢いそのまま に チームは開幕戦から7連勝を飾りなんと5 月終了時点で首位と上出来すぎる開幕 ダッシュを果たしたんだ勝ちたいんや ただし月13日に正捕手の矢野選手が本塁 上のクロスプレイで左肩を脱臼し長期離脱 を余儀なくされるとその後は4月18日に 赤星憲広選手が自打球を受けて右脛骨を 骨折し前半戦をほぼ欠場 補強の目玉であった片岡選手も故障となれ ないセリーグの投手に苦戦してしまい 打率2割2分8厘11本塁打OPS663 と散々な結果に終わったんだ 司法1番センター正捕手がそんなんじゃ 開幕時の勢いを維持するのは難しそうね6 月以降も藪 檜山 浜中

が続々と故障者が出てしまった阪神は徐々 に勢いを落としてしまい結果的には シーズン4位に終わってしまったんだ主力 の故障や不調を補うだけの 選手層がなかったのねただ4位に終わった とはいえ前年の借金23からこの年は借金 4まで成績を向上させたことを忘れては いけない特殊点差を見ても前年のマイナス 131から3へと大幅にチーム戦力を 立て直してたんだシーズンによっては勝率 5割Aクラス入りもありえるくらいの 得失点さね 野手は得点数最下位だった前年の467 から リーグ5位の527得点へと大幅に得点数 を増加させたんだ 投手陣も前年リーグ5位の598失点から この年はリーグ3位の524まで失点数を 抑止しているな 遠田ともに補強の効果が現れてるじゃない この成績向上は2001年時点で在籍して いた今岡 浜中屋の井川がこれまでのキャリアハイと なる成績を残したことも当然大きいただ 補強組の中にもチーム成績向の一員はあり 主に4番を務めたアリアスは32本塁打 82打点OPS844の好成績で打線に 長打力供給をもたらしたんだまた投手では ムーア投手が181回3分の1を投げて 防御率3.33で10勝をマークバルデス 投手も42試合に登板して防御率 1.5422セーブを記録しているな 失礼を承知で言うと 阪神にしては外国人の目利きがかなり 良かった年だったのね 補強でチーム浮上のきっかけをつかんだ 星野監督はこの2002年オフも補強の手 を緩めず広島からFA宣言した金本智昭 MLB帰りのイラブヒデキトレードで下柳 剛 野口敏弘 侵害黒人としてジェロットリガン ジェフウィリアムスを獲得したんだそれが 2003年の彼岸のリーグ優勝につながっ ていくわけね当然このリーグ優勝には 98-2001年オフに獲得した選手たち の貢献も大きかったわけだ1年限りの補強 じゃなくて何年も積み重ねたことで分厚い 巨大戦力を作り上げていったわけね 1985年に優勝した時同様に実は優勝 する数年前から続く計画的かつ継続的な 補強があってこその彼岸達成だったわけだ 日本では大型補強に対して批判の声も 上がりがちだけど 批判されるべきは計画性なき補強に対して

であって戦略的な補強やチーム強化戦略に 対してはもっとクローズアップして賞賛さ れる文化が作られてほしいものだわ日本で はお涙頂戴的なサクセスストーリーの方が 支持されるからな ちなみに今回は他3つと比べると インパクトにかけるため取り上げないが 2013年もそこそこ大型補強があったと 年なんだどんな選手を補強したのメジャー 帰りの福留孝介西岡毅選手FAで オリックスから日高たけしまたドラフトで は藤浪晋太郎を獲得してるなビッグネーム を複数獲得してはいるけど ピークが過ぎたベテラン選手や実力未知数 な新人投手の獲得では 印象が薄くなるわね むしろこの年は金本智明 城島健二が現役をに対して 藤川球児平野圭一がfa権を行使して対談 さらにはブラジルも自由契約と チームを支えた主力選手の大量退団の方を クローズアップしたいな入った選手より 退団した大物選手たちの方が多いじゃない のお気づきの通り引退やFA対談 故障 契約切れなど対談リスクの高い選手を 数多く主力に据えた危うい編成状態のまず さについていつか解説したいものだな 魔理沙がまた新しいしくじり解説の切り口 を思いついちゃったてるわ 今回はファンを悲しませたミスター タイガースケンカは彼氏を3つ紹介するぜ 阪神ってよく球団と選手 首脳陣が揉めてる印象あるわお家騒動こそ 持ち味みたいなとこあるし人気球団が故に マスコミが取り上げるので話題になり やすいからな今回はミスタータイガースと 言われたほどの人気選手たちだったん でしょそんな功労者とも綺麗にお別れでき ないなんてさすが阪神って感じね人気選手 だからこそ扱いが難しいってのもあるから なそもそもミスタータイガースって何か 明確な基準があるの今回はそこからまず 解説していくとするかミスタータイガー スってのは公式な役職ではなくて特に明確 な基準があるわけではないんだファンや メディアのどちらかがそう呼ぶようになっ て勝手に定着していくみたいな感じなのね これは他の球団もそうでミスター赤ヘル 山本耕史ミスターロッテアリと道よなどと 言われた選手にも共通してることだな公式 じゃないことは分かったけど呼ばれるよう になる選手の特徴とか 傾向はあるのだいたいよく言われてるは 主力選手生え抜き

リーダー核ファンに人気があるってのが 条件として挙げられるな空人気になって 当然よねって感じの4条件だね強いてもう 一つあげるとするならそこに同時代の中で も圧倒的な存在感ってのもあるぜミス ターってつくくらいだからそんな軽い称号 ではないってことね 阪神でもともとミスタータイガースって 言われたのは1935年の球団創設時の 主力選手で4度の優勝にも貢献した 藤村文雄さんだな 阪神で4度も優勝ってだけでレジェンド じゃない 藤村選手の人気と実績は球団史においても 図抜けてて初代であり 唯一のミスタータイガースと呼ぶ声もある んだそんなに人気の選手だったのね 余談だがミスタープロ野球とまで言われた あの長嶋茂雄さんが憧れたのが藤村選手と 言われてるぜミスターが惚れ込むミスター だったのねその後2代目と言われたのが 豪快な謎とペック東方でも知られ通算 222勝3度の沢村賞を獲得した村山実 投手だなんとなくミスターるって野手に つく印象だったけど 投手でも言われることあったのね二度の リーグ優勝天覧試合で疑惑のサヨナラ本塁 打を被弾長嶋茂雄とのライバル関係など ファンの心を動かす人気選手だったからな ちなみに先ほどの藤村選手の引退試合で プロ初登板を飾った村山投手という 漫画みたいなミスターの系譜があったんだ ぜファンはそういう物語性が好きな生き物 だから特別配信ファンじゃない私でも思わ ずかっこいいと思っちゃったわでこれから 紹介する選手が一部では3代目とも言わ れるがトレードで移籍したことで障害半身 ではないため3代目ではないとする声も あるんだそれまで順調だった系譜が 途切れるトレード放出なんてファンが 悲しみにくれてもおかしくないわね新三大 ミスタータイガース喧嘩は彼氏1つ目は 1978年の田淵幸一のトレード放出だ 田渕さんってすごいホームランバッター だったよね確か王さんの連続本塁打記録を 阻止した選手って聞いたことがあるわまず は田淵さんについて簡単に紹介していくか 田淵選手は1968年にドラフト1位で 阪神に入団すると1年目から正捕手として 起用され22本塁打の活躍で新人王を獲得 したんだ大卒1年目の保守が22本塁打 なんて今のプロ野球じゃ考えられない話ね もしプロ野球史上三大強打の捕手を選出 するなら 野村克也安倍晋三之助とこの田淵選手だろ

うってくらい 捕手としては破格の打力を持ってたからな そんなにすごい選手だったの 故障の多さがたまに傷ではあったが4年目 からは4番も任されるようになると対談 する78年までの7年間で30本塁打以上 を6回記録さっき霊夢が言った通り 1975年には打率3割3厘43本塁打 OPS1.094の破格の成績を残して 王貞治選手の14年連続本塁打王を阻止し たんだなんか両選手とも凄すぎてツッコミ どころ満載ね 余談だがもしここで田淵選手が止めて なかったら 王さんは16年連続本塁打王を獲得してた んだぜそんな別格の代打者から本塁打王々 奪ったなんてとっても価値があるじゃない 何度も言うが守備負担の大きい捕手をやり ながらこの成績を残してたんだから 田淵さんもこの時代ではかなり傑出した 存在だったんだ ちなみに捕手としての守備力はどうだった のフレーミングやリードなどは客観的な 資料がないので触れないが 盗塁阻止率5割声が4回あって 19731974年に連続でダイヤモンド グラブ賞を獲得してるので若い時はかなり 守備力も高い保守だったと推察されるぜ 本塁打40本以上撃てて 素子率5割超える強権の保守なんて実写版 山田太郎みたいな選手じゃないトレードが 決まった1978年も4番として38本塁 打89打点OPS950の活躍を見せて バリバリの主力選手だったんだぜますます どうして放出されたのかわからないわまず トレードの詳細から話すと 阪神側は田淵と呼んどの二桁勝利に2回の オールスター出場がある古澤健司投手を 放出その交換相手として西武からまゆみ 飽きの部若名義春 竹内正美 武田正文の4選手を獲得したんだ2対4の 大型トレードだったのねこのトレードを 田淵選手が告げられたのはシーズン終わっ て間もない11月の深夜だったそうで 午前1時頃に突然球団社長から電話で 呼び出され通告されたそうだぜ夜中に 呼び出しって選手に失礼じゃないしかも 田淵選手が呼び出された先のホテルに着い た時には多くの記者たちが集まってて すでにトレード情報はマスコミにだだ漏れ だったそうなんだええ 選手に通告する前にマスコミに漏らし ちゃうなんて人の気持ちをなんだと思っ てるのよ

童謡を隠せなかった田淵さんは西武へ行け と言われたそれもいきなりだ人をバカにし ているこれが10年間 阪神でやってきたものへの仕打ちなのか 情けないよと怒りに震えながらコメントし たそうだぜ生え抜き功労者のスター選手に そんなこと言わせるなんて 昔からそういう気質の球団だったのね 報道陣の質問に答える田淵さんは次に涙声 になり両手で顔を伏せてうなだれながら涙 を流してしまったんだ今の時代みたいに SNSや動画配信サービスが発達してたら とんでもない暴動が起こったでしょうね あまりにショックを受けた田淵さんは当初 引退も考えたそうなんだが 球団側の説得で徐々に考えを改めるように なり最後は移籍先の西武の監督であり法政 大学の先輩である根元陸夫さんとの会談の 末に西武遺跡を了承したんだそんな決断を 1週間で下さないといけないなんてプロ 野球選手も大変な職業ねで 阪神は結局どうして田淵選手を放出する ことになったの 端的に言えば若返りを図りたかった阪神と 新球団1年目で知名度の大きいスター選手 が欲しかった西武との思惑が一致したって ことだな西武ってその時期に誕生した球団 だったんだあこの時期は1972年に西鉄 が撤退し1973年から1978年までは 太平洋クラブライオンズからクラウン ライターライオンズと変遷しててその後 セーブグループに買収されて1979年 から本拠地を福岡から所沢市に移して今の 西武ライオンズとなったんだ西部も西武で 生まれ変わろうとしてた時期だったのね 当時のパリーグは今では考えられない くらい不人気だったので関東出身のスター 選手である田淵選手が喉から手が出るほど 欲しかったわけだなおまけに前年38本塁 打だとまだまだ実力は衰えてなかったしね 阪神にはどんな見返りがあったのまず阪神 サイドは田淵選手の故障の多さと守備力の 低下を懸念してたのを留意してほしい そんなに守備が衰えてたの実際の守備力は わからないが 移籍前年の田淵選手は捕手としては79 試合の出場にとどまり一塁手としての出場 が増えてたんだそこで翌年阪神の監督就任 が決まってたブレイザー氏が 田淵選手を捕手として使えないと判断して 構想外にしたってのがこのトレードの発端 らしいぜ売りの打てる捕手としての価値が どんどんなくなりかけてたのね 故障が増えて 衰え傾向はあるもののまだまだ市場価値が

高いベテランを若手とトレードってのは フラットに見ると悪くない考えね 監督への出現で干された選手の動画でも 紹介したがこの年阪神は球団初の最下位に 転落してて思い切った改革が求められてた んだそれで思い切った世代交代を図っ たってわけね 交換相手になったまゆみ秋の部 わかな吉春はともにオールスター出場経験 もある25歳でポジションもそれぞれ遊撃 手と捕手と非常に意図が明確なトレードで はあったんだまゆみさんって確か阪神が 日本一になった時の切り込み隊長よねああ 真弓選手は1983年に打率3割5分3厘 で首位打者を獲得すると 霊夢の言う通り球団史上初の日本一になっ た1985年は打率3割2分34本塁打の 好成績を残してるぜとんでもない一番 バッターね わかな選手も移籍初年度に打率3割で ダイヤモンドグラブ賞を獲得するなど 編成的には阪神側にも大きな実りを もたらしたんだ 田淵さんの方はどうだったの 田淵さんは遺跡1年目に27本塁打2年目 に43本塁打を記録するなど全く衰えぬ 長打力を発揮 1982年1983年には阪神時代には 味わえなかったリーグ優勝と日本一も経験 するなど新球団の4番として期待通りの 働きを見せたんだ結果的には両チーム得し たってわけねそうだなプロ野球史上最高の ウィンウィントレードの一つに数えていい だろうなとはいえチームの顔を放出した ことを簡単には割り切れないファンも一定 数いたでしょうね 阪神は小山正明 江夏豊かなどの大物選手をトレードして 大きな戦力強化に成功してきた球団でも あるからひょっとしたらその成功体験が ベテラン主力を放出しやすい球団体質に つながっていったのかもな新三大ミスター タイガース喧嘩は彼氏2つ目は1988年 の掛布雅之33歳の電撃引退だ 掛布さんって33歳で引退してたのあ現代 のプロ野球なら坂本勇人 柳中田 翔くらいの世代の選手が急に引退したよう なもんだな 衝撃的すぎる話ね引退の原因は何だったの 故障による成績の低下と 球団首脳陣との確執が原因とされてるぜ またここでも上層部と揉めてるじゃない 掛布選手は4代目ミスタータイガースとも 言われた選手で1973年に習志野高校

からドラフト6位で阪神に入団 改入団の選手だったのね本人がテスト生 みたいな選手だったという通り入団時の 評価は決して高くはなかったがプロ1年目 から1軍で出場機会を掴むとプロ3年目の 1976年には打率3割2分27本塁打 83打点OPSはなんと1.015の驚異 的な数字で三塁手のベストナインを獲得し たんだ待って待って高卒3年目の三塁手で とんでもない成績を残してるじゃない今で 言うヤクルトの村上宗隆が2020年の 高卒3年目に残した成績とかなり酷似し てるな さん大失踪しの時にも紹介してたけど ドラフト制度導入以降高卒2年目で二桁 本塁打を打ったのは村上宗隆大谷翔平 森友哉松井秀喜 清原和博 掛布雅之の6選手しかいないのよねそうだ な 掛布選手以外の5選手はドラ1ってことを 考えると掛布選手の石室さんがさらに わかるだろうドラフト指名ギリギリライン の回選手がこんなに若くして成績残す なんて 野球界の歴史で考えると異常なことだった のねカケフ選手はその後もチームの中心 選手として活躍すると 1979年つまり田淵選手が移籍した後の 4番打者を任せられると 打率3割2分7厘OPS1.088そして 48本塁打で初の本塁打王のタイトルを 獲得したんだ めちゃくちゃ売ってるじゃない 阪神の日本人打者でこんなに打つ選手って そんなにいないわよねああなにせ初代 ミスタータイガースの藤村選手が持つ年間 本塁打数のチーム記録である46本を超え た新記録で今 阪神の日本人選手では最多の記録だからな 3代目の田淵さんでも最高は45本だから この都市仙台たちの記録を一気に塗り替え ていったのねこの辺から掛布選手を次期 ミスタータイガースと期待する声が高まり かけふ選手もその期待に応えるようなハイ パフォーマンスを見せていくんだぜ 1981年から1985年にかけて5年 連続で全試合に出場すると 8284年に本塁打王82年に打点王の タイトルを獲得実は守備の名手としても 知られ生涯でダイヤモンドグラブ賞を6回 受賞しベストナインも通算7回選出され てるんだ 想像以上にすごい実績でびっくりしたわ 1985年にはバース岡田との強力な中軸

を形成し 掛布選手自身も打率3割40本塁打108 打点OPS1.017の活躍で チームを1964年以来21年ぶり7度目 のリーグ優勝 球団創設以来初の日本一に輝いてたんだ 長らく説明してたチームを初の日本一に 導いた生え抜きの4番なんて人気が出て 当然よね前述した田淵さんは阪神では優勝 経験なし初代の藤村選手ですらリーグ優勝 決まりだったからなカフェフ選手は新時代 のミスタータイガースだと多くのファンが 認めるようになったんだそんな選手がどう して33歳で電撃引退しちゃったのよ天気 になったのが1986年4月20日この 試合で中日斎藤学ぶ投手から手首に支給を 受けて骨折ああ大きな怪我をしちゃったの ねこの怪我で連続試合出場が663で ストップするとこのシーズンは右肩関節 座礁左親指骨折と故障続きで3度にわたる 長期離脱を強いられたんだ手首 肩足の指を1年で一気にやるなんて パフォーマンス維持するの難しいでしょう ねこの年は結局わずか67試合の出場に 泊まり 打率2割5分2厘本塁打球 OPS732と本来の出来とは程遠い内容 に終始 復活が期待される1987年の開幕直前の 3月22日あろうことかカケフ選手は飲酒 運転で逮捕される騒動を起こしたんだえ 現役のスター選手が逮捕なんて前代未聞の 不祥事じゃないこれには当時の熊俊二郎 オーナー代行が大激怒し 血管商品大馬鹿野郎と厳しく断じたんだ めちゃくちゃ怒ってるじゃないタカが選手 が発言がソフトに感じられるくらいの辛辣 さね 阪神は親会社が安全第一の電鉄会社だ からってのもここまできっぱりと表立って 自分選手を批判した理由みたいだぜ今ほど コンプライアンスが厳しくなかったとは いえ 鉄道会社のイメージを考えたら許されない 事件だもんね 四季運転ってだけでも本来許されないこと だしな ちなみに隈氏は私の目の黒いうちは彼を 絶対にうちの監督にはしないと周囲に語っ たそうで事実くましがオーナーとして在任 した機関は掛布さんは阪神で監督コーチは やっておらずクマシがなくなった2年後に GM付きコーディネーターとして半身に 復帰してるぜ相当おかんむりだったのね 風当たりが強くなった状況で迎えた

1987年の シーズン 掛布選手は腰痛の影響で 極度の打撃不振に陥るんだ グラウンド 街だけでなく プレイ 面でもうまくいってなかったのね 不審の掛布に対して 首脳陣は 二軍 調整を提案したがこれにかけ 不選手が難色を示したことで打順 降格するぐらいならやめるという 引退報道にすり替わる 騒動にまで発展したんだ なんというかいよいよ 阪神らしくなってきたわねこの年は球団 ワーストの勝率3割3分1厘で9年ぶりの再会に低迷 さらには 打撃コーチ 補佐の竹内 政志が 吉田監督と 再面などで対立して 対談バースが監督批判を行うなどチームは一気に 空中分解を起こしたんだ もうめちゃくちゃじゃない 結果的に 吉田監督までもが電撃解任されることになり フラストレーションがたまった一部のファンがカケフ 選手の自宅へ 嫌がらせ電話や手紙の数々を送る事態が起きたんだ 批判の矛先が全て 4番に向かってしまったのね 掛布選手自身 打率2割2分7厘12本45打点と目も 当てられない成績に終わってたからな 満身創痍の中で迎えた1988年だったが 左膝痛の影響もあり7月12日までの66 試合で打率2割5分3厘5本32打点と 成績は回復せず 村山監督プロ野球団代表高田本部長と2 時間以上の4社会談を行った後に2軍降格 が決定し 結局9月14日に現役引退を表明したんだ 3年連続で結果が出なかったことで強い 責任を感じての引退だったのね強烈な個性 はぶつかり合うものだからな 掛布さん曰く 仙台の田淵さんからお前は俺のようになっ ちゃダメだ 縦縞のユニフォームを着続けろと言われて たことや4番掛布を貫けなくなったら 引き際との美学があったようで33歳での

引退を決意したそうなんだ 昭和の男の美学って感じね ちなみにこの1988年の阪神は騒動が 絶えずタミヤヘッドコーチがシ序盤に突然 辞任 バースが球団と対立して6月に電撃解雇 球団代表の自殺などもあった上に チームも2年連続の再会と90年代の暗黒 への叙情が始まった年でもあったんだ ちょっとちょっとさらっと流したけど何か 色々と深掘りしたくなるような闇深い話が ポンポン出てくるじゃないこの辺は話すと 長くなるので別の機会に話すとするか一応 掛布選手は阪神で引退することになるが 実際は当時の村山監督との確執も影響して たみたいだな二代目と4代目が対立って なんか漫画や映画の世界みたいな話ね前述 したオーナーとの対立もあってか現役引退 後は読売系列の解説者を務めるなど 阪神とはかなり疎遠になるなど 円満退団とは言い難い別れとなってしまっ たんだ新三大ミスタータイガース喧嘩は 彼氏3つ目は2019年の鳥谷隆史の引退 韓国拒否退団だ 鳥谷選手のことは大幅減法士の時にも解説 したわよねああ 詳しい経緯はその時の動画も合わせてみて もらえると幸いだぜ話が長くなってきたし ここからは手短に頼むわ何せ前の2人の話 がめちゃくちゃ濃かったからな 鳥谷選手の実績を簡単に紹介すると13年 連続シーズン全試合出場最高出塁率1回 6度のベストナインに5度のゴールデン グラブ賞を受賞し通算2000安打も達成 してるぜ 鳥谷選手の凄さは語るまでもないって感じ よね 守備力だけなら牛若丸まること 吉田芳雄選手も捨てがたいが 攻撃を含めた総合的な貢献度を考慮すると 鳥谷選手が球団史上最高の遊撃手と言って いいだろうなそんな選手もまた 球団と対立して後味の悪い形でチームを 去ったのねこの件に関してはまだ鳥谷選手 が対談して間もないので 詳細な情報は出てないんだ一部では矢野 監督との対立があったって話も出てるわよ ねあいつだけは絶対に許さない対談以来 一言もしゃべっていないなんて漏らし たって記事も見たわまあ情報様子も怪しい し正直 信用するに値しない情報って印象が強いな 確かに鳥谷選手の口調や性格からすると おおよそ言わなさそうな発言よねこの手の 話は面白おかしく語って話題を呼ぼうと

するメディアにありがちな話だからな 巨人隠し退団しの時に 原監督と西と選手の確執も本当にあったの か怪しいって話してたもんねじゃあどうし て鳥谷選手の対談を3台に選んだのよ 矢野監督との確執の真相は置いといても 球団が上手く鳥谷選手に花道を飾らせられ なかったのは事実だからな実際鳥谷選手が 生涯配信で終わらなかったことを悲しんだ 阪神ファンはたくさんいたもんねそうなん だ 阪神最終年の鳥谷選手は74試合の出場で 105打席 打率2割7厘本塁出塁率2割9分8厘と 全盛期とは程遠い成績に終始5年総額 20億円の超大型契約期間中の成績はお 世辞にも金額に値するとは言えなかった もんね年齢的にも38歳とこれからの成績 回復は難しくましてや本人が希望する ショートを守るのはかなり厳しい状況だっ たからな 仮に阪神に残留してたとしても1軍で出場 機会を得るのは難しい状況だったよねあ 鯰選手としての格が高いだけにシーズンの 大半を2軍で過ごすであろう構想外のまま 契約するのは鳥谷選手に失礼だしならば 綺麗に阪神で引退するか他球団でプレイし てもらうかってのは 編成面と選手本人のことを考えれば普通の 話だからな 魔理沙多くの野球ファンは編成なんて考え て試合見てないわよましてや年齢曲線の 研究なんて知らないし自分の好きだった 選手は何歳になっても復活するんじゃない かって期待するものだしまあその辺の論理 と調理のバランスは 球団運営の難しいところではあるんだ 球団としてはシーズン中の8月29日に 球団社長 球団本部長 球団副部長のトップ3人で頭を下げて引退 を打診するなど誠意を見せたが 鳥谷選手が引退勧告を取材に応じた鳥谷 選手がそこで言われたのは引退してくれ ないかということ事実上戦力外という感じ だと思うと説明したことで世論は鳥谷擁護 に動いていったからな実際の競技ではどう なったかわからないけど 鳥谷選手の周囲を味方につける振る舞いは その辺の政治家より上手かったもんね見る からに理知的な感じの人だからなぁ 結局鳥谷選手は2019年限りで阪神を 退団し2020年から2年間はロッテで プレイし2021年に現役を引退現役引退 後は解説者として

在阪のテレビ局やラジオ局にも出演する など 掛布さんと違って関西での活動もされてる ぜ 喧嘩別れした感じもないし何か球団との 関係も良好に見えるわよね本人も現役引退 後に 野球選手 鳥谷隆史としては 阪神でやめるのがベストだったと思います と語るなど 球団に対して何ら対立姿勢を見せてないし なファン目線では怒りと悲しみの感情が 巻き起こった話だけど と球団としては双方納得しての対談だった のかもねファンニーラムストレスや不信感 を与えた点では十分しくじり度は高いが 球団運営の点では妥当な選択だったからな 最近の阪神はうまく世代交代に成功してて チーム編成もかなり健全化されてるし 案外フロント優秀なのかしら人頃みたいに ベテラン変調のいびつな構成ではなくなっ てきてるからな人それぞれ意見はある だろうが 鳥谷選手クラスのレジェンドにも非常通告 できるくらいしっかりしたビジョンを持っ てる方が強いチームを作り続けられるから な視聴者の皆さんはこの鳥谷選手の対談劇 をどう思ったのかぜひ意見を聞いてみたい わねおいおい大量の批判コメントが来そう な誘導してくれるなよこんな動画を最後 まで聞いてくれるほどの変わり者の皆さん の意見を聞いてみたいじゃない私は絶対 コメント見ないからなぁ 今回は新三大阪神の失敗格差トレードを 紹介するぜ前回の巨人編に引き続き第2弾 ねああ今回も前回同様に年俸削減目的での トレードは除いた戦力強化を図りながら 一方的に大きな損失を生んだトレードを 紹介するぜ優勝を諦めたチームや首脳陣と 関係がこじれた大物選手が戦力事情とは 関係なく放出されるケースもあるしねそう いうことだ早速阪神が一方的に損した トレードを3つ紹介していくぜ新3大阪神 の失敗格差トレード一つ目は1992年の オフに成立した阪神野田浩二投手と オリックス松永ひろみ内野手のトレードだ 92年って少し古いわね両選手について 説明してくれるかしらあ 野田投手は1987年にドラ1で入団した 生え抜き投手で1年目から規定投球回数を クリア3年目に2桁勝利を達成すると4年 目には先発に本格転向し開幕投手を任され シーズン200イニングをクリアするなど 即戦力として活躍した投手だったんだ

成績に多少の村はあるけど 毎年コンスタントに活躍してた投手だった のねああしかもトレード時点で野田投手は まだ24歳と若く当時の阪神ファンの誰も がその後もチームを背負って立つ投手だと 思ってたんだ高卒社会人のドラ1で即戦力 って考えると今でいうオリックス山岡泰介 投手みたいな存在だったのねそんな投手が どうしてトレードされたのこの年の阪神は 優勝したヤクルトとはゲーム差わずか2の 2位2年連続最下位から一転して優勝争い を演じてたんだそんな僅差で優勝を逃して たならなおさら若手エース候補を放出した 理由がわからないわ 翌年一気に優勝狙いたいとこじゃない実は この年の阪神は外野にあったラッキー ゾーンを廃止した影響もあって 投手成績が大幅に改善され リーグ唯一の防御率2点台を記録するなど 投手陣が強みだったんだここの成績を見て も最多奪三振を獲得したエース中田浩二 200回以上を投げて防御2.42の中込 新規定クリアして11勝を記録した湯船 敏郎投手などがいてかなり層が厚かったん だ 野田投手はエースではなく先発ローテ4 番手くらいの投手だったのねそうなんだ ただ外野が広くなった影響はいいこと ばかりではなく逆に得点力は伸び悩んで リーグ最小の475得点と 攻撃力に苦しんだんだ 球場回収の効果がよくも悪くも色濃く出 ちゃったのねそうした背景もあって 阪神フロントは優勝へのラストピースとし て 打線の強化を目論んだというわけなんだ 充実した投手陣の1人を駒にして大物や手 を獲得する戦略だったと聞くと悪くない 選択だったんじゃないかしらあ当時はFA 制度がまだなかったので大きな戦力補強を するにはトレードで自分も大物選手を出す 必要があったからなそれで昔のプロ野球は 大型トレードがちょいちょいあったわけね 話を戻して 働き盛りの24歳の先発投手と交換って ことはかなり大物とトレードできそうね ああ 交換となったオリックスの松永選手は かなりの大物選手で 領内選手ではNPB史上初の通算200 本塁打を達成した選手で85年は盗塁王 89年には最高出塁率5度のベストナイン に4度のゴールデングラブ賞と80年代の パリーグを代表する三塁手だったんだ経歴 は申し分ない選手じゃないあトレードされ

た92年もリーグ最多の342塁打を放ち 打率2割9分4厘出塁率3割9分 OPS785の好成績を残してて年齢も まだ32歳 移籍が決まった時は阪神ファンが多いに 湧いて優勝請負人としての期待も高かった んだ24歳の若手エースを放出するのは もったいない気がするけど85年の日本一 からこの時点で7年も優勝できてなかった わけだからリスク承知で勝負に出る選択肢 も チーム戦略としてはあるよねああメジャー でもこうしたトレードは珍しくないからな でもうまくいかなかったんでしょあ しくじり話だからな 松永選手は開幕戦3戦目に故障離脱して しまうと 結局わずか80試合のみの出場に終わり 期待された得点数は前年からわずか3点 アップしただけに終わったんだ 補強の効果が全く出てないじゃないあ しかも前年のWS中だ中ごみがそろって 成績を落としたことで チーム防御率は1点近く悪化その結果 チームは前年2位から一転して4位に 終わってしまったんだ若手エースを放出し た結果 投手成績もチーム順位も下がったなんて 笑えない話だわしかもあろうことか松永 選手は93年のオフにfa権を行使して 大英移籍しちゃったんだえった1年だけで 移籍しちゃったのあ実はこれがNPB史上 初のFA移籍だったこともあってかなり 世間から注目を集めたんだがFA移籍に ついて聞かれた松永選手は単なる通過点に 過ぎない 阪神とは縁がなかったということなどと 阪神ファンを突き放す発言をしたことで 報道が過熱その後は甲子園は幼稚園の砂場 と発言したとかしないとかでかなり後味の 悪い対談劇になってしまったんだ若手 エース候補出血覚悟で放出した結果本当に 大出血しちゃったのねそれで野田投手は どうなったの 野田投手は移籍したオリックスで1年目 から225イニングを投げて防御率 2.5617勝を挙げて最多勝のタイトル を獲得したんだえ1年目から凄すぎじゃ ないこの年だけでもトレードで阪神は大損 だわねああしかも野田投手はその後も3年 連続2桁勝利200奪三振超え5年連続で 規定投球回数をクリアする大活躍っぷり今 でも破られない1試合19奪三振の 日本記録も達成したんだ 阪神時代よりもかなり凄みが増してるじゃ

ないあしかも個人成績だけでなく 9596年のオリックスはリーグ連覇して てその時ものだ投手は中心選手だったから な 放出した阪神は9596に連続最下位で 2003年に優勝するまで暗黒時代が続い たのとは対照的に 輝かしいキャリアを送ったわけねあ若い うちから投げすぎた影響もあってか右肘の 故障で31歳の若さで引退することになる がオリックスにとっては大成功のトレード となったんだ 阪神にとってはトレード良く年にFA制度 が導入されたのは不憫だったとはいえ かなりしくじり度が高いトレードだったの ね新3大阪神の失敗格差トレード2つ目は 2000年のオフに成立した阪神北川博士 捕手 湯船敏郎山崎和治投手と近鉄堺ひろき投手 面で鉄次投資減らした工事外野手の3対3 のトレードだ数がいっぱい出てきてよく わからないわさすがに一人一人について 話すと時間がかかるから結果的にトレード の中心人物となった北川選手に焦点を置い て話すぜ北川選手もしかしてあの伝説の一 打を放った北川選手のことなのああその 北川選手だいて前打線の近鉄が優勝する 前年のオフにトレードで移籍してきてたの ねかなり期待されてた打者だったのいや 北川選手の人身時代はほとんど実績のない 保守だったんだえキャッチャー北川選手の 阪神時代の通算成績は6年間で100試合 に出場し156打席で19安打本塁 ドラフト2で期待されて入団した大卒選手 としてはかなり物足りない成績だったんだ 28歳の大卒野手でその成績じゃちょっと その先は厳しそうよねおまけに当時の野村 監督からは 捕手としては論外 評されるほど 攻守ともに結果が出ておらずかなり苦しい 立場だったんだそんな選手があんな奇跡の 一打を放ったなんて 魔理沙しっかりと説明してしっかりと説明 してよちゃんと説明しろよー分かった 分かったこれから北川選手の代打逆転満塁 ホームランなプロ野球人生を振り返るから 落ち着いてくれ思わずあの興奮が蘇っ ちゃったわそれくらいあの1打はプロ野球 ファンなら誰もが知ってるしな北川選手は 近鉄移籍の1年目に81試合に出場すると プロ初本塁打を含む6本塁打で OPS79の好成績を記録優勝がかかった 9月26日のオリックス戦では 史上初の代打逆転サヨナラ満塁優勝決定

釣り銭なし本塁打で チームの12年ぶりのリーグ優勝に貢献し たんだあのホームランが印象的だけど シーズン中もしっかり活躍してたのね前回 の巨人しくじりトレードに登場した吉岡 さんもいるし近鉄優勝の陰にはうまい戦力 強化策があったわけねそうなんだ2003 年には自身初の二桁本塁打を記録すると 2004年からは一塁手に本格転向その年 32歳にして初の規定打席到達して3割 20本塁打をマークしたんだあのさよなら 本塁だから北川選手のプロ野球人生が本格 スタートしていったのねあ近鉄が消滅した 後もオリックスの中心選手として活躍して 2012年に引退通算100本塁打だと 1000本安打も達成するなどかなり異色 の遅咲きスラッガーだったんだこんな選手 を放出した阪神はトレードでどんな成果が あったの北川選手以外のの結果を簡単に 振り返るかともに阪神から移籍してきた 湯船投手は移籍初年度に37試合に登板し たものの 衰えは隠せず1年で引退山崎投手もわずか 1年で自由契約になってるので近鉄として は北川選手以外のリターンはほぼ内に 等しかったんだそれでも北川選手がいた ならかなり実りがあるトレードだもんねあ 一方の阪神が獲得した選手はというと 酒井投手は1年 面で投手が2年で自由契約平下選手は 2002年に89試合に出場して レギュラーを掴みかけたんだがその年を ピークに出場機会を減らし2004年途中 にロッテイトされたんだ大きく貢献した 選手は不在でしかもトレードから3年半で 3人とも対談してるしかなり阪神が損をし た形になったのねまあ阪神時代の北川選手 の1軍成績を考えれば阪神フロントの動き も攻められないが当時の阪神が慢性的に 長打力不足に悩まされてたことを考えると もったいなさを感じてしまうな 阪神の失敗格差トレード三つ目は2018 年3月に成立した阪神榎田第一投手と西武 岡本陽介投手のトレードだこれは記憶に 新しい再生トレードね 阪神では働き場所を失ってたえのきだ投手 が大活躍したのを覚えているわあこれは 最近の話で覚えてる人も多いので手短に 話していくぞえのきだ投手は2010年に ドラフト1位で阪神に入団するとプロ1年 目から66試合に登板し防御率2.27と 大活躍ただその1年目をピークに貢献度を 下げていき 移籍前年の2017年は1軍登板わずか3 試合と

完全にかつての輝きを失ってしまってたん だ 移籍時点で32歳という年齢を考えると そう多くは望みづらい状況だったわよね ああ西武も当初は左の救援要員として考え てたみたいだが チームの先発駒不足もあってえのきだ投手 を先発起用したんだ当時も今も西武は投手 陣に苦しんでるもんねそんなチームにあっ てえのき投手は救世主的な活躍をすること になるんだ 移籍後初の公式戦登板となった4月12日 のロッテ戦では6回に失点の高騰で先発と して1730日ぶりの勝利を挙げると シーズン合計で22試合に先発登板し 132.2回を投げて防御率3.321勝 4敗の活躍でチームのリーグ優勝に大きく 貢献したんだ 阪神時代2年間最多勝利が4勝だった投手 が一気に二桁勝利しちゃうなんてトレード は人生を変えるわねえのきだ投手はこの 活躍が認められてオフの契約更改では阪神 時代から2倍以上アップとなる年俸 5500万円を勝ち取ったんだ 阪神時代の自分の状態が地獄だったと 感じるまで追い詰められてた選手にとって まさに地獄から天国へって感じよね 遺跡2年目以降は成績を下降させて入団 からわずか4年で戦力外とはなったが 速攻性を求めてのトレードだったことを 考えると西武としてはかなり利得の大きい 遺跡になったな 阪神が獲得した岡本投手はどうだったの 岡本投手は移籍1年目に主に救援として 34試合に登板して防御率3.83と まずまずの成績を残してるぜこのトレード に関しては阪神側も一定の戦力強化ができ たわけねあただこのトレードがあった 2018年の阪神投手陣は藤浪投手が防御 率5.32とその後も続く不振が深刻に なった年で 佐伯小野といった期待の若手投手もそろっ て防御率4点台後半二桁敗戦とやや先発 投手陣が駒不足だったんだ 阪神に残ってたら先発起用されたかは 怪しいけど結果的にはもったいなく感じ ちゃうわねそうなんだ 岡本投手自身も遺跡2年目は1軍当番3 試合のみに終わり戦力外通告を受けて引退 移籍後の通算成績で見ても先発で16勝し て225位ニング投げたエノキだ投手と ほぼ救援で37試合登板の岡本投手とでは 貢献度に開きが出てるからな今回の話で 登場した3名の選手はいずれもドラと上位 の選手だったことを考えると少しもったい

なさを感じるわねそうなんだしかも3選手 とも移籍後速活躍したってことは 阪神在籍時点ですでに大活躍できるだけの 下地はあったはずなんだ現有戦力の能力 見極めもまずかったことを考えると現場 サイドのしくじりポイントも高いわねと いうわけで今回は阪神の失敗格差トレード を紹介していったぜよかったらチャンネル 登録や高評価をしていただけると動画制作 の励みになるのでよろしくお願いしますだ ぜそれではご視聴ありがとうございました

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4 comments

@user-wm9dw1cs9f December 28, 2023 - 10:05 am

今回は今年日本一になった阪神特集ですね!このシリーズはなかなか癖が強くて面白い😊。

@user-on7dx9ue3p December 28, 2023 - 10:11 am

阪神の暗黒時代の大概の原因は親会社とスカウト陣がクソだったから。

それと何でタイムリストが全然違うものになってんの?

@user-qx5ww1sj9u December 28, 2023 - 10:19 am

暗黒時代にはやらかしも多かった阪神も今じゃ適材適所で選手を獲得して投手王国作り上げて見事な日本一だったもんなあ·······
もう認めるしかないし完全に脱帽だわ💦

@aeon-fx4dg December 29, 2023 - 6:49 am

頑張れ タブチくん!

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